八月の日本は戦後八十年の節目ということもあって例年以上に「戦争」と「平和」で覆い包まれた。逐一例をあげるまでもなく、連日、新聞・テレビなどオールド・メディアでは戦争の悲惨さと平和の大切さが強調された。
原爆や終戦の日が続き、八月は先の大戦で戦没された英霊、空襲・原爆や海外で亡くなった方々、合わせて三百十万人とも言われる方々を追悼し、戦争の惨禍を改めて思い起こす時ではある。
とはいえ、戦争の惨禍を語ったうえで平和のためには「戦争はしてはならない」とという「平和主義」には大いに違和感がある。そもそもその平和をどう守るのかという議論はほとんど為されていない。また、平和とは日本と外部世界との関係であり、国内でいかに熱心に「平和」を語ったとしても、それによって日本の平和が保証されるわけではない。三年前のロシアによるウクライナ侵略の例を挙げるまでもないだろう。
そればかりか平和主義は逆に戦争を誘発するというのが現代史の現実と言える。第一次大戦後のイギリスの平和主義について西洋史家の野田宣雄氏はこう書いている。
「三〇年代のイギリスの世論の動向といえば、まず指摘しなければならないのは、その平和主義ムードの強さであろう。第一次大戦の惨禍はイギリス人の心理にふかい爪あとをのこした。そして三〇年代にはいっても、イギリス人は、平和の維持をいっさいのことに優先させる気持ちにかられていたのである」(『変貌する現代世界』)
当時のイギリスでは、レマルクの『西部戦線異状なし』など多くの反戦作品がもてはやされ、オックスフォード大学の学生クラブが「国王と国家のために戦わない」と決議したり、戦争放棄を呼びかける署名に十万人が応じたという(前出)。
こうした平和主義を受けて、イギリス首相のチェンバレンはミュンヘン会議においてヒトラーのチェコ侵攻を許してしまうが、イギリス国民は戦争にならなかったことで帰国した首相を歓呼の声で迎えた。
当時のイギリスの「平和論」はいかなる犠牲を払ってでも戦争は避けるべきだとするだけで、侵略者の侵攻に備える議論はほとんどなかった。まさに構造から言えば日本の八月とよく似た光景があったと言える。
また、戦争の「惨禍」や「悲惨さ」とともに、平和が語られるとき、日本ではほとんどと言ってよいほど戦争に対する「反省」とともに語られる。そこで語られる「平和」は、日本が戦争を始めなければ、「平和」が失われることがなかったというもので、日本の軍国主義が排除されれば世界は平和になるという戦勝国の論理そのものと言える。
かつての日本の戦争をどう総括するかは別として、少なくとも当時の為政者は好んで何の思慮もなく戦争を始めたわけではない。少なくとも百年単位でみれば日本が西欧列強の東漸に対抗しようとしたことは否定できまい。戦争に至る過程はまさに宿命的な事情があったと言うべきだろう。その意味で、八月の「平和主義」は虚構とも言える。
ウクライナを侵略したロシアには、「大ロシア主義」が底流にある。習近平の中国は「中華民族の偉大な復興」を掲げ、周辺海域で「力による現状変更」を強行し、日本に対して尖閣諸島の主権を侵害し続け、確実に日本有事へと進展する台湾統一に十分な意欲を示している。日本は世界を動かすのはやはり力だという国に囲まれている。
そんななかで、石破首相は終戦の日に「反省」を述べ、さらに戦後八十年メッセージを出そうとしている。この国をいかに守るかを議論するためにはこの首相に代わってもらうことから始めるというのが日本の現実と言える。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)
〈『明日への選択』令和7年9月号〉