平成七年のサリン事件から三十年を迎え、当時の映像や証言がメディアで何度も取り上げられている。東京という大都市で化学兵器のサリンがテロの手段として使われた前代未聞の事件に対して、警察、消防、地下鉄職員が命懸けで被害者の救出を行い、近隣の病院も大車輪で被害者の受け入れを行った。十四人が亡くなり、負傷した約六千人の被害者のなかには後遺症で今も苦しんでいる人も多い。
そうした報道のなかで、自衛隊の活動も紹介された。その献身ぶりは言うまでもないが、即応能力、自己完結性など他の機関が持っていない、軍事組織だからこそ持っている能力があったからその活動が可能だったことはもっと注目されるべきだろう。とりわけ、軍事組織である自衛隊の持っていたNBC兵器(核兵器nuclear weapon、生物兵器biological weapon、化学兵器chemical weapon)に対する防護能力が地下鉄サリン事件の被害拡大を防いだと言える。もし、自衛隊に対化学兵器の装備、知識、技術がなかったら、被害はさらに拡大していたであろう。
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派遣された陸上自衛隊の化学防護隊は撒かれたサリンの除染をおこなった。既に誰もいなくなった駅に降りていった隊員はこう証言している。
「重さ六キロを超す分厚いゴム製の化学防護衣を身に着け、霞ヶ関駅のホームに降り立った途端、この事態を収拾できるのは自分たちしかいないと思った。正直、怖かった。それでも勇気を振り絞った。ホームにはサリンの入った紙袋が投げ出され、乗客らの血や吐しゃ物、眼鏡などが散乱していた。検知器は『ピピピ……』という連続音で神経ガスの残留反応を示し、紙袋に残る液体に浸した検知紙の色は、サリンを示す黄色に変わった」
こうして防護服に身を包んで、苛性ソーダの薬液を噴霧しデッキブラシでこすってサリンを中和する除染作業を丹念に行った。ある現場指揮官はサリンが除染されたことを証明するため自ら防護服のマスクをはずして安全となったことを確認したという。まさに命懸けの任務であった。
それだけではない。その日の昼頃には松本サリン事件の被害者と症状が似ていることが明らかになってきたが、被害者の多くが運び込まれた聖路加国際病院には、農薬を誤飲した場合に備えた解毒剤しかなかった。この事態に対応できたのは自衛隊中央病院などに備蓄していた、サリン等の神経ガスに有効なアトロピンとPAMと呼ばれる解毒剤だった。すぐさま全量現場の医療機関に運ばれ、直ちに症状の重い被害者に投与が開始された。
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そうした自衛隊の対化学戦能力を教育、訓練するのが陸上自衛隊の化学学校だが、当時の社会党などが事あるごとに廃校を要求していた。事件の年の五月、産経新聞の牛場昭彦氏はこう書いて批判した。
「毒ガスへの対策を立てておくことのどこが危険だと社会党などは考えていたのだろうか。国会の質問などを集約してみると、どうやら言わんとするところは『毒ガスを研究し、備えを固めることは、すなわちこちらが毒ガスを使うつもりがあるからだ』ということらしい。
『それでは万一、相手が使ってきたらどうするか』という疑問は当然出てくるが、それに対しては、『こちらがガスに対して無防備でいれば、相手はガスを使わない』……といった答えしか返ってこない……」
化学兵器に対する教育も訓練もしなければ、相手は毒ガスを使わないというのである。日本は平和憲法で戦争を放棄しているから日本で戦争は起こらないというのと同じ、まさに空想的平和主義の典型的発想である。
緊急事態に対処をする憲法条項も、自衛隊を憲法に明記する改憲作業も進んでいない。サリン事件の教訓は生かされていない。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)
〈『明日への選択』令和7年4月号〉