岡田幹彦先生のご著書「維新の先駆者 吉田松陰 日本救国の天使」を掲載します。
(本講演録は、平成19年11月10日、大阪藤井寺市における講演「吉田松陰に学ぶ」の記録を、整理・原稿化したものです。)
父は萩藩士杉百合之助。山鹿流兵学師範であった吉田家の養子となる。藩校明倫館を経て、諸国を遊学。佐久間象山のもとで砲術と蘭学を学ぶ。安政元(1854)年海外密航を企て、下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが、拒絶され投獄。のち萩の野山獄に移されるが、翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となる。その間松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山形有朋ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材育成の場となった。安政6(1859)年、安政の大獄により江戸で刑死した。(画像・文章:国立国会図書館 近代日本人の肖像引用)
吉田松陰 日本救国の天使(1)
日本の歴史における二つの大きな問い
今日は吉田松陰についてお話をさせていただきます。
日本の歴史における最も大きな問い、 あるいは奇蹟、 これは二つあると思います。 一つが、 なぜ皇室が断絶なく続いてきたか。 もう一つは、 近代においてなぜ日本だ けが欧米に支配されなかったか。 この二つが最大の問いだと思います。 今日はこの 二つの問いに対する私なりの答えを、 吉田松陰という人物を通してお話したいと思 います。
もし十九世紀から二十世紀にかけて、 日本という国がこの地球上に存在しなかっ たならば、 世界はどうなったでしょうか。 これについて日本人ではなく、 アジアの人の見解をご紹介しましょう。 平成四年 (一九九二)、 香港での国際会議で、 マレ―シアのマハティール首相 (当時) が大演説をぶちました。 簡単に言うとこうです。
「日本の成功が東南アジア諸国に自信を与えた。 日本がなければ欧米の世界支配 は永久に続いていたはずだ」
この演説を聞いたアメリカとイギリスの代表はかんかんに怒って席を立ちました。 香港はまだイギリスの植民地でした。 マハティール首相が言った日本の成功とは何でしょうか。 三つあります。 一つ目が明治維新。 二つ目が日露戦争。 そして三つ目が、 六十二年前に終わった大東亜戦争です。
大東亜戦争の目的は、 一つは日本の自存自衛です。 アメリカの抑圧に耐えかねて ついに立ち上がった。 もう一つが、 東亜諸民族を欧米列強の長年の植民地支配から 解放、 独立させることでした。 一番目の目的は失敗しました。 負けてしまったので、 お前たちは悪いことをやった侵略国だ、 犯罪者だという烙印を押されました。 今で もその後遺症がずっと続いているわけです。
しかし、もう一つのアジア諸民族を欧米列強の植民地支配から解放、 独立させるという目的は見事に達成しました。
マハティール首相は、こういう三つのすばらしい大事業を近代において成し遂げた日本の存在が、 東南アジア諸国に計り知れない自信を与えたのだと絶賛しているのです。 もし日本が存在しなかったならば欧米の支配は永久に続いていたはずだと。 ですから、 日本に対して日本人の想像を超えるものすごい尊敬と親愛の念を今なお 有色民族の国家は抱いているのです。 そういう高い評価があることを日本人はほと んど知りません。
日露戦争で勝ったのも奇蹟です。 明治維新に成功したのも奇蹟です。 ではなぜ明 治維新に成功したのか。 それは端的に言いますと、 日本に皇室が存在し、 その皇室 をいただいて志士といわれる人達が立ち上がったからです。 志士といわれる人達は、 多くみても数千人ほどです。 本当に一握りの人が立ち上がったのです。
その志士の中でも、 最も重要な人物は西郷隆盛と吉田松陰です。 これほどの偉人 は世界にいません。 日本の誇りです。 しかしその吉田松陰は、 ではどれだけ素晴ら しい大活躍をしたかと言うと、 目立つような大きな働きはしていません。 伊豆の下田からアメリカに渡航しようとして失敗し、 牢屋にいれられてしまいました。 五年後には、 安政の大獄で井伊直弼に斬首させられました。 下田でのアメリカ渡航失敗からその後五年間は手足を縛られた謹慎状態で全く身動きできなかったわけです。 ところが、 それにもかかわらず吉田松陰は長州を変え、 日本を変えてしまいました。 驚くべき奇蹟を実現させたのです。
海賊の猖狂日一日より甚し
ペリーが日本に来航したのは嘉永六年 (一八五三)、 明治維新の十五年前です。 このときから日本の危機と激動が始まりました。 ペリーは黒船四隻で浦賀沖までやってきて、 「アメリカ大統領の国書を受理しろ」 と強要し、 「受理しなかったならば戦争をするぞ」 と言って黒船四隻の大砲を浦賀の町に向けて威圧し、 幕府に返答を迫りました。
これに幕府は完全に屈服してしまいました。 徳川幕府は独立国にあるまじき土下 座外交を行い醜態をさらけ出しました。 このまま幕府の土下座外交を許すならば、 日本の植民地化は到底避けられません。 このような惨状を心の底から憂慮し、 義憤を発し、 日本の独立を守り抜こうと立ち上がった人達、 それが志士でした。 その代表が吉田松陰です。
このとき、 吉田松陰は何と言っているか。
近時、 海賊の猖狂 (猛り狂うこと) なること日一日より甚し。 今春に至るに及び遂に城下の盟を為す。 而してその禍患 (わざわい) はいまだとどまる所をしらず。 ここにおいて忠孝節義の士、皆慨然 (心から憂いて) として涙下り、 恥を雪ぎ仇を報ぜんと思わざるはなし。
海賊というのは欧米列強のことです。 城下の盟というのは、 城下まで攻められて 無条件降伏をすることです。 アメリカの強圧により、 幕府は戦いもせず無条件降伏 をしてしまった。 その禍いはさらに悪化しようとしている。 このような屈辱を晴らそうと思わない忠孝の士はいない、 と言っているのです。
ペリーの威圧に屈服し、 幕府は何の抵抗もできずに言いなりになってしまいました。 このままでは日本は欧米列強の属国として支配されるしかない。 当時の日本はこういう危機にあったのです。 この危機感が分からなければ、 明治維新の歴史は到底理解できません。 ペリーは開国の恩人だなどと間抜けなことを考えている人には、 永遠に分からないことです。
今は即ち膝を屈し首を低れ、 夷 (欧米列強) の為す所に任す。 国の衰えたる古よりいまだかつてあらざるなり。 外夷 (欧米) 悍然 (猛々しい勢い) として来りせまり、 赫然として威を作す (威嚇する)。 吾則ち首をたれ息をとめ、 通信通市 (開国し貿易すること) ただその求むる所のままにして敢てこれに違うことなく…。 国の存するや自ら存するなり。 豈外に待つことあらんや。 外に待つことなし。 豈外に制せらるることあらんや。
松陰は歴史上、今日ほど日本の国家が衰退した時はないと憂えたのです。 独立国 家というのは自らの意志と力によって存立しうるものですが、 日本はアメリカの軍事的威圧に屈し国家の重大事を決定させられました。 それが 「外に待つ」 「外に制せらるる」 ということです。 それは断じて独立国家の行う政治外交ではないと言っているのです。 こうした松陰の深い危機感は志士といわれた人々がみな共有したものであります。
吉田松陰 日本救国の天使(2)
やむにやまれぬ大和魂
この日本の未曾有の危機に際し、 吉田松陰は実際に欧米列強をつぶさに知るため、 下田でペリーの艦隊に乗り込んで渡航しようとします。 しかし残念ながらそれに失敗し、 松陰は行動を共にした金子重輔とともに江戸の牢屋にいれられてしまいまし た。 鎖国の禁を犯したのですから天下の大罪人です。 松陰は死刑を覚悟しましたけ れども、 そうはならずに長州の萩に送り返され、 野山獄という牢屋に入れられました。
国禁を犯してアメリカに渡ろうとして失敗した前後の松陰の深い心をあらわしたのが次の歌です。
皇神のみこと畏み賤が身はなりゆくままにまかせこそすれ
かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂
二つ目は泉岳寺のそばを通った時、 赤穂義士の心を詠んだものですが、 それは同 時に松陰の心でもありました。 国禁を犯せば死刑である。 それは分かっていても国 難を思えばどうしてもやらぎるをえない。 吉田松陰はこういうやむにやまれぬ思いで行動したのです。
普通であれば、 死刑は必至ですから絶望の極みです。 ところが松陰は捕らえられ てからどうしたか。 心を励まして読書したのです。 下田の牢屋の番人に本を貸してくれと頼み、 金子と共に狭い牢屋の中で本を読みました。 どんな苦境に立っても松陰は学ぶことを忘れませんでした。
さらに、 本を読んでしまったあとはどうしたか。 牢屋の番人に真剣に説いたのです。 今、 日本は大変な危機にある、 なぜ自分はアメリカに行こうとしたのか。 心をこめて話しました。
松陰が説いたのは、 まず 「皇国の皇国たる所以」 です。 日本の国はなぜ天皇を国家の中心にいただいているのか。 二つ目が 「人倫の人倫たる所以」 です。 すなわち人間の守るべき道ということです。 三つ目が 「夷狭 (欧米列強) の悪むべき所以」 です。 欧米列強がどれほどひどいことをしていま日本を狙っているか。 この三つを松陰は説いたのです。 牢獄の番人はその話に涙を流して感銘しました。 ふつうなら牢番などに話したりはしません。 しかし、松陰はどのような人々に対しても真心をもって接しました。 至誠の人、 松陰の話は、 聞く者をして感銘させずにはおかない力を持っていたのです。 ここに天性の教育者吉田松陰の姿があります。
天性の教育者
野山獄でも松陰は猛烈に読書に励みました。 在獄一年二ヶ月で六百冊の本を読みましたが、 その勉強ぶりを自らこう記しています。
好んで書を読み、 最も古昔忠臣、 孝子、 義人 (世の為人の為に立派な行為をした人)、 烈婦 (立派な女性) の事 (事実)を悦ぶ。 朝起きて夜寝ぬるまで兀々、 孜々 (一心不乱) としてかつ読みかつ抄し (抜き書きすること)、 あるいは感じて泣き、 あるいは喜びて躍り、 自らやむことあたわず。 この楽しみなかなか他に比較すべきものあるを覚えず。
松陰が最も好んだのは、 歴史上において国の為世の為人の為に忠孝仁義の道に生きた立派な人物について記した書物でした。 すぐれた人物の気高く尊い行為に感泣、 感奮する松陰は、 感動した箇所を常に書き抜きました。 これが松陰の読書法です。 後に松下村塾において弟子たちにもこれをすすめています。 松陰は 「心を励まし気を養うは遂に賢豪 (すぐれた人物) の事実にしくものなし」 とのべています。 こうした歴史と人物について学ぶ読書が、 松陰の最大の楽しみ、 悦びでありました。 この燃えるような向学心、 向上心、 求道心こそ今日の私達が謙虚に学ぶべきことです。
松陰の感化力は、 萩の野山獄においてもいかんなく発揮されました。 野山獄には 松陰を含めて十二人が入っていました。 廊下を挟んで二畳ほどの牢が六つずつ並ん でいます。 入れられているのは、 みな大きな罪を犯したわけでもなく、 人間関係が うまくいかず家族から見捨てられた人達です。 それを知って松陰はいたく同情し、 たとえ牢屋の中にいるとはいえ、 何とかして正しい人間の道を知らせてあげたいものだと思いました。
松陰はこの人達と話をしているうちに、 一人二人得意なことを持っていることに気付きます。 ある人は俳句が上手です。 ある人は書道が達者です。 そこで、 その人を先生として勉強会を行うことを提案するのです。 「私は俳句を作ったことがありません。 私に俳句を教えてもらえませんか。 みんな退屈をもてあましていますから、 あなたを先生として俳句の会を起こして下さい」。 こうして牢獄の中で俳句の会や書道の会が始まりました。 松陰は孟子という書物を使って、 義 (人間が守るべき道義)を講じ人の道を説きました。 勉強会を重ねていくうちに、 牢屋の雰囲気はだんだん変っていきます。 人々は松陰の深い愛情と真心にふれて感化され、 人間の心を取り戻し、 明るくなっていったのです。
松陰はやはりこのことについても書いています。
余 (私) 罪ありて獄につながる。 時に余と犴狴(牢獄)に列する者およそ十一人なり。 余詳かにこれを問うにその繋がるること久しき者は数十年、 近き者も三五年なり。 皆曰く 「吾徒終にまさにここに死すべきのみ。 また天日 (太陽) を見るに得ざるなり」と。 余すなわち嗟愕 (嘆きおどろくこと) して泣下り、 自ら己れもまたその徒たるを悲しむに暇あらざるなり。 ここにおいて義を講じ道を説き相ともに磨励(みがくこと)してもって天年(一生)を歿えんと期す。
十一人の同囚が一生牢屋から出られないことに、 松陰は自分のことを忘れて涙を こぼして同情します。 彼らは何の希望も生き甲斐もなく生ける屍のような日々を送っています。 そこで松陰は俳句や書道の会をおこすとともに、 人間として生きている限りたとえ牢獄で一生を終ろうとも、 人の道を学ぶ大切さを身を以て示しました。 「義を講じ道を説き、 相ともに磨励してもって天年を歿えんと期す」。 天を衝く松陰の高い向上心、 求道心がここにあります。
やがて松陰はひとり獄から出ることを許され、 自宅謹慎の処分となりました。 このとき松陰は次のように言っています。
すでにして歳余 (一年余り)、 余 (私)にわかに恩命を蒙り、 獄を免されて家に帰り、 復び父母を拝し弟姪(めい、おい)を此の世に見るを得たり。 然り而して前の十一人の者繋がれて未だ免されざるを以て、 食を得てはすなわち懐い、 衣を得てはすなわち懐い、 寒夜、 爐にあたってはすなわち懐い、 晴日庭を歩してはすなわち懐う。 いまだかつて一日も釈然 (心がうちとけること) たるを得ざるなり。
このように獄に残された十一人の身の上を案じたのです。 松陰は自宅謹慎とはいえ、 母が用意してくれるおいしいものを食べ、 新しい着物を着ることができます。 鎖国の禁を破った重罪の自分はこうして家に帰るのを許されたのに、 たいした罪もない十一人の者は牢を出ることが出来ない。 何と気の毒なことだと松陰は思いやるのです。
長州藩主の毛利敬親という人は、 松陰が寅次郎と名乗っていた小さいころから可 愛がり、 寅次郎は長州藩の宝だと言っていた人です。 その藩主が獄から出た松陰に 意見を書いて具申することを許しました。 松陰は野山獄につながれている十一人を 赦してほしいという意見書を出したのです。 その意見書が通って、 全員ではありま せんでしたが七人が出ることを赦されました。 それほど、 松陰の人を愛する心には 深いものがあったのです。
人を深く思いやり、 人の天分を見抜き、 松陰から教育を受けると誰でも魂を奮い 立たされて生まれ変わっていく。 吉田松陰はまさに天性の教育者でした。
吉田松陰 日本救国の天使(3)
日本の日本たる所以・天皇国日本の尊さ
さて、 自宅謹慎の処分となってから、 いよいよ松下村塾の教育が始まります。 ここで教育がおこなわれた期間はわずか二年四ヶ月程で、学んだ人は百人にもなりません。 ところが、 ここから長州を動かし日本を動かす偉大なる人材が巣立ったのです。 塾と言っても最初は八畳一間で、 その後十畳半を足しただけの粗末な掘っ立て小屋です。 しかし、 その教育の中身が違いました。 松下村塾にこめた松陰の願いがこれです。
「松下陋村といえども誓って神国の幹たらん」
松本村という、 とるにたらぬ田舎の塾です。 しかし、 必ずや神国日本を支える幹と なる。 これが松下村塾で教育を行う吉田松陰の決意です。 そして実際、 その通りに なりました。 ここで学んだ人達はどういう教育を受けたのか。 なぜ、 日本を動かす 偉大なる人物が輩出したのか。 吉田松陰はどういう教育を行ったのでしょうか。
吉田松陰は松下村塾で 「皇国の皇国たる所以」、 「人倫の人倫たる所以」、 そして 「国家の危機」 を教えました。松下村塾で教えたことは、 この三つです。
松陰は皇国日本の国体の尊さと日本人としての自覚と誇りを徹底的に教えました。日本の日本たる所以、 日本人の最たる誇りとは何でしょう。 それは国家の中心に天皇陛下がいらっしゃるということです。 皇室をいただいていることのこの上なき尊さ、 有難さ。 これを松下村塾の教育で吉田松陰は万言を費やして説きました。 これは今の日本人が一番忘れていることであり、 敗戦後日本人が一番忘れさせられてきたことです。 また戦後教育で最も避けてきたところでもあります。
天皇、 皇室の存在は時代に逆行する非民主的な封建的遺物でこんなものは不要であり、 アメリカのような自由民主主義国かソ連や中国のような全員が平等の社会主義・共産主義国家にした方がよいという誤った教育が堂々とまかり通ってきました。
今の皇室は遡れば初代天皇が神武天皇です。 神武天皇から百二十五代今上陛下まで血が繋がっております。 そのような国は世界のどこにもありません。
現在のイギリス王室にしても、 成立してから三百年も経っていません。 清教徒革命でクロムウェルが国王を斬首して一度王制を廃しており、 今のイギリス王室の血はそれ以前の王室とは断絶しております。 建国以来二千年以上も一系の血筋が続いている王朝をいただいている国は日本だけです。 これが誇りでなくてなんでしょうか。 この日本人の誇りを吉田松陰は徹底的に教えたのです。
いま、 外国の人から日本の国と天皇について教えてほしいと言われたら、 特に若 い人はみんな言葉に詰まってしまいます。 恥ずかしいことです。 世界に類例のない 日本の皇室の素晴らしさについて説明できなければ、 外国人は日本を理解できず、 日本人を尊敬できません。
日本は建国以来一系の天皇をいただき、 革命による断絶のなかった世界唯一の国です。 なぜ革命がなかったのか。 実に不思議です。 わが国の皇室のあり方は西洋やシナの王室のあり方とは、 根本的に異っております。
松本清張という小説家がかつてこう言いました。
「天皇家を超える実力者は多く 現れている。 特に武力をもつ武家集団、 平清盛でも源頼朝でも北条氏でも足利氏でもまた徳川氏でもなろうと欲すればいつでも天皇になれた。 なのにそれをしなかった。どうして実力者は天皇にならなかったのか。 誰もが知りたいことだが、 歴史家はこれを十分に説明してくれない。 学問的に証明できないのだという」
天皇、 皇室がなぜ断絶なく続いてきたのか、これこそ日本歴史における千古の疑 問であります。 その根本的理由は結局、 皇室ご自身のご努力にあります。
天皇は常に国家の安泰と国民の幸福を切に願い、 「国安かれ民安かれ」 との祭祀、 まつりをなされてきました。 天皇陛下の一番大切なお務めは祭祀です。 一年中、 祭祀が厳修されています。
また古事記、 日本書紀の記述にあるように、 天皇は昔から国民のことを 「大御宝」 と呼んでこられました。 「大御宝」 というのが正式な日本国民の呼び方です。 歴代天皇は国民に対してこういう思いでのぞんでこられました。 国民を宝のように慈しみ大切に思われてきたのです。 そして常に修養を積まれ厳しい自己反省につとめられ、 ことに国難、 危機に際してはご一身を投げ出されその打開に尽力されました。 それゆえ国民は、 このような天皇を心より敬愛し仰慕し、 忠誠を尽してきました。
このように日本は、 国王と国民が対立し、 相争ってきた国ではなく、 天皇と国民が真に信頼し合い、 力を合わせ一体となって立派な歴史と伝統を築き上げてきた国なのです。 この世界に比類のない尊い日本の国のあり方、 これに対する自覚と誇りを教えたのが吉田松陰です。 「尊皇」 の心を百万言を費やして教えたのです。
志士たちが明治維新に命を捧げて立ち上ることができた原動力は、 この日本国体の尊厳に対する自覚と誇りにありました。
吉田松陰 日本救国の天使(4)
松下村塾の目的とその教育
ところが、こういう立派な国柄をもつ日本を欧米列強は狙っている。 植民地、 従属国にしようとしている。 いまだかつてない国難です。 日本人としての自覚と誇りを持つものは、 天皇国日本を守り抜くため欧米の侵略を打ち攘う志を固め立ち上がらなければならない。 これが 「攘夷」 です。 攘夷というのは自分の国の独立を断固として守るということです。 民族自衛の精神と行動、 それが攘夷です。 この 「尊皇」 と 「攘夷」 の精神があったからこそ、 日本は有色民族中ただひとつ奇蹟ともいうべき明治維新を成し遂げ、 西欧諸国の侵略を阻止することが出来たのです。
吉田松陰は、 松下村塾の目的を書いた「松下村塾記」に次のように記しています 。
抑も人の最も重しとする所のものは君臣の義なり。 国の最も大なりとする所のものは華夷の弁なり。 今天下はいかなる時ぞや。 君臣の義、講ぜざること六百余年、 近時に至りて華夷の弁を合はせて又之を失う。 然り而して天下の人、まさに安然として計を得たりとなす。 神州の地に生まれ、 皇室の恩を蒙り、 内は君臣の義を失い外は華夷の弁を遺れば、 則ち学の学たる所以、人の人たる所以、其れ安くに在りや。
人の最も大切なことは君臣の義、 つまり天皇と国民との間の正しい道 (これが忠 です)、 秩序を守ることである。 国の最も大切なことは、 日本と外国との国のあり方の違いを知ることである。 ところが君臣の義は長く教えられず、 今はさらに日本の誇りさえも失おうとしている。 日本人はすべて皇室の恩を受けているのに、 君臣の義を失い日本の国の尊さを忘れるならば、 どうして人として日本人として正しい道を踏むことができるだろうか。 それゆえ松下村塾では、 君臣の義を学び、 天皇国日本の尊さを学ぶのだと言っているのです。 これが松下村塾の目的です。
そしてもう一つ、 松下村塾の教育の根幹にあったのが、「士規七則」の教えです。 武士が踏むべき道を説いたもので七つありますが、 ここでは三つほど紹介します。
一、 凡そ生れて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。 蓋し人には五倫あり、 而して君臣父子を最も大なりと為す。 故に人の人たる所以は忠孝を本と為す 。
人として生まれたからには、 人間が動物とは違う存在理由を知らなければならな い。 人には守るべき五つの道 (君臣・親子・夫婦・長幼・朋友の間において人間が踏むべき正しい道) がある。 その中で最も大切なものは、 君臣の道と親子の道で ある。 従って、 人として最も大切なことは、 天皇への忠であり親への孝である。 吉田松陰は、 人間に一番大切なことは忠と孝であると言っているのです。 戦後の教育の中で全く無視し否定されてきたのが忠と孝です。
一、 凡そ皇国に生れては宜しく吾が宇内 (世界) に尊き所以を知るべし。 蓋し皇朝 (皇室) は萬葉一統 (万世一系) にして邦国の士夫世々禄位を襲ぐ。 人君民を養いて以て祖業を続ぎたまい、臣民君に忠して以て父志を継ぐ。 君臣一体、 忠孝一致、 唯吾が国を然りと為す。
天皇国日本に生れたならば、 なぜ日本が世界の中で類いなく尊い国であるかの理由を知らなければならない。 皇室は万世一系にして常に国民を大切にされ、 国民は常に天皇に忠義を尽くし父祖の踏んできた道を守ってきた。 君臣が一体で、 忠と孝が一致するのは日本だけである。
吉田松陰は、 この短い文章の中で日本の国のあり方、 歴史と伝統を端的に言い切っています。
諸外国では、 王室は革命などによって倒れ、 同じ王室は続いていません。 ですから、 君臣一体と忠孝一致とが成り立たないのです。 父親が忠誠を尽していた国王が革命によって殺された場合、 今度その息子が忠誠を尽すのは、 父親が忠誠を尽していた国王を倒したかつて家来であった新しい国王です。 だから忠と孝とは一致せず、 君臣一体にならないのです。
一、 士の道は義より大なるはなし。 義は勇に因りて行われ、 勇は義に因りて長ず。
武士にとって一番大事なことは正しい道、 道義を踏むことである。 義は勇気によ って行われ、 また勇気は正しいことを行うことによってさらに強くなる。 つまり義と勇は表裏一体だと言っているのです。
このように、 松下村塾には確固たる教育方針がありました。 それは人が人として守るべき道であり、 天皇陛下に忠誠を尽くすという日本人の根本の生き方です 。
吉田松陰 日本救国の天使(5)
松陰の深い祈りと至誠
ところで、 吉田松陰が獄を出ることを許され自宅謹慎処分となったとき、 父の杉 百合之助は 「家で孟子の講義を続けなさい。 私達が聞く」 と言って、 杉家で孟子の 講義が行われました。 松陰を先生として、 父や兄、 そして親戚の人達が講義を聞い たのです。 実に立派な家庭でした。 その中で最も大切な松陰の言葉がこれです。
先ず一心を正し、 人倫の重きを思い、 皇国の尊きを思い、 夷狄の禍 (日本を侵略せんとする欧米諸国のわざわい) を思い、 事に就き類に触れ相共に切磋講究 (磨き合い学び合うこと) し、 死に致るまで他念なく、 片言隻語も是を離るることなくんば、 縦令幽囚に死すと雖も、 天下後世必ず吾が志を継ぎ成す者あらん。
このときまだ松下村塾は開かれておらず、 弟子は誰もいないときです。 松陰は、 人の踏むべき道、 皇国の尊さ、 そして日本を狙う欧米列強の禍い、 この三つのことを死に至るまで他念なくひたすら説き続けるのだというのです。 そうすれば例え幽 囚の身で死のうとも、 後世必ず私の志を継ぐ者が出てくるに違いないと言うのです。 もしこれを他人がきけば、 松陰は手足を束縛された謹慎生活をしているのに、 この大言壮語は狂気の沙汰と思うことでしょう。 しかしここに松陰の深い祈り、 神願があります。 この願いはやがて実現します。 この深い祈りに感応し、 実際に松陰の志を継ぐものが次々と現れました。 これほどの言葉を吐きこれを実現しえた松陰の偉大さがここにあります。 松陰のこの気高い精神は百年以上経った今日においても、 私達の魂を揺さぶって止まないのです。
ですから、 こういう本当に立派な先人の心を知るためには、 本人の書いたものを 読まなければなりません。 松陰の文章は難しく、 一回読んだだけではよく分からな いと思いますが、 何度も読むうちにわかってきます。 また松陰は文章の大事なとこ ろ、 感銘したところは書き抜けと言っています。 これに従い私も幾度も読み、 書き抜いてきました。 松陰の文章を読み松陰の魂に触れることにより私たちの心が揺さぶられ、 次第に日本人の魂が覚醒させられてゆきます。
松陰は、 「至誠にして動かざるものいまだこれあらざるなり」 と言っています。 至誠をつくせば、 それに動かされない者はいない。 至誠とは誠、 真心を尽すということです。 実はこの言葉は孟子の一節です。 しかし、 孟子の文章というよりも吉田松陰が言った言葉として受けとめたほうが私達の心に響きます。 吉田松陰は、 実際にこの言葉を実践した人なのです。 この松陰の至誠に触れた人達が、 未曾有の国難に奮い立ったのです。
アメリカの威圧に屈服する幕府
吉田松陰は松下村塾の教育を続けるだけでは終わりませんでした。 この間に重大 な問題が起こります。 日米の通商条約問題です。 ペリーがやってきて日米和親条約 が結ばれ開国となりましたが、 ところが貿易上の取り決めはしていませんでした。 そのため、 今度はハリスがやってきます。 ハリスもペリー同様、 日本をおどし続け日米修好通商条約 (安政五年六月) を締結させるのです。 ハリスは二言目には、 この条約をのまないと戦争をするぞと威嚇しました。
この日米通商条約こそ、 以後半世紀以上わが国を苦しめた不平等条約だったので す。 簡単に言うと、 まず関税自主権が日本にありません。 日本の関税は一律五パー セント。 それ以上課すことを認めないとされました。 もう一つ不平等な点は、 治外法権を認めさせられたことです。 外国人が日本で悪いことをすれば、 日本人が日本の法律で日本の裁判所で裁く。 これが当然です。 ところがアメリカは、 日本のような未開野蛮の国がアメリカ人を裁くことは認めないとして、 日本で犯罪を犯したアメリカ人はアメリカの領事がアメリカの法律で裁くとしたのです。 幕府はこの二つの致命的な欠陥のある不平等条約を、 威圧に屈して調印してしまいました。
徳川幕府は日米通商条約を 「違勅調印」 しました。 この条約を結ぶとき反対する藩がありましたが、 御三家の二つ尾張藩と水戸藩まで反対していました。 この条約はそれほど問題があったのです。 幕府は身内からも反対が出たことに焦り、 何としても反対派を押さえつけようとしました。 このとき幕府がとった策が、 朝廷の権威を借りるというものです。 天皇陛下の許可をいただいて反対派を押さえつけようとしたのです。 徳川家康以来、 政治外交一切を専断してきた幕府が、 自らのご都合主義で朝廷を 「政治利用」 しようとしたのです。
ところが孝明天皇は猛反対されました。 いま孝明天皇のことを知っている人はほとんどいませんけれども、 実に偉大な方でした。 日米通商条約の締結は日本の国体 に致命傷を与えるということを深く憂いておられたのです。
孝明天皇は幕府に対し、 条約締結には反対者が多いので、 再度衆議を尽くし言上 するようにと答えられます。 これが孝明天皇の勅答です。 幕府は朝廷にお伺いを立 てたのですから、 勅答に従わなければいけません。 ところが大老の井伊直弼は、 そ の勅答に違反して条約調印を独断で強行しましたから、これを違勅調印といいます。
このように徳川幕府の政治外交はアメリカにひたすら屈従するというもので、 日本の自主独立を断固として守るという気概は全くありませんでした。 そもそも征夷大将軍の第一の任務は、 外圧を払いのけ朝廷をお守りし日本の独立を堅持することですが、 幕府はその任務を放棄していたのです。 国内では威張り返っているのに、 ァメリカには平身低頭の連続です。 ァメリカは武力で威圧すれば幕府は必ず屈服するとなめきっていました。 このままでは他の有色民族と同様、 欧米列強の植民地、 属国となることは必至でした。 こうして日本は八方ふさがりとなり、 滅亡の淵に追いやられるのです。
幕府の違勅調印は、 国内法的立場から言えば無効という論理が成り立ちます。 幕府の独断専行に対してさすがに強い非難の声が次々と噴出しました。 ところが井伊直弼はそれらの人々を弾圧しました。 これが安政の大獄です。
井伊直弼の命を受けて、 老中の間部詮勝が京都に行き、 反対派の処罰に乗り出しました。 幕府に反対する公卿たちを一斉に処分して朝廷に弾圧を加え、 さらに志士たちを次々と逮捕していきました。 尾張藩、 水戸藩など幕府に従わない藩主は謹慎処分にし、 藩主を替えてしまいました。 そして吉田松陰、 橋本左内などの人々を容赦なく処刑したのです。
吉田松陰 日本救国の天使(6)
井伊の暴政に一人立ち上がる
幕府の弾圧が始まると諸藩は震え上がってしまいました。 当時第一の勤皇藩と言 われた長州藩も同様の有様です。 誰も井伊の独裁専制に抵抗することはできなかっ たのです。
この我が国最大の危機に際し、 命をかけて立ち上がったのが吉田松陰でした。 松 陰は松下村塾で教育する以外、 政治的な活動は一切禁止されていましたが、 日本が 自滅していくのを黙って見ていることはできませんでした。
勅答を無視した幕府を許す道理はない。 長州藩は今こそ立ち上がるべきであると 松陰は藩政府に訴えました。 しかし幕府を恐れる長州藩は、 とてもそんなことはできません。 松陰は藩がやらないのであれば自分がやると決断し、 直ちに行動せんとします。 京都に乗りこむ間部詮勝を討つべく、 藩に対し武器弾薬の提供を求めました。 これに対し長州藩は、 松陰を乱心者扱いし、 再び野山獄に幽閉しその行動を束縛しました。
その少し後の安政六年 (一八五九) 四月、 幕府が吉田松陰を江戸に檻送するよう に命じてきました。 これに対し長州藩は何の抵抗もできませんでした。 江戸に送られた松陰は伝馬町の獄につながれ、 十月に処刑されます。
吉田松陰が死刑にされるまでの最後の一年は、 松陰のひたすら国家を憂いてやま ぬ精神と行動が凝縮されています。 断崖絶壁に追いつめられた日本を救わんとする 松陰の血の叫びがそこにあります。 この間の松陰の心の奥底を知らなければ、 松陰 の本当の偉大さが分かったとは言えません。
幕府が違勅調印を強行したとき、 松陰は何と言っているか。
墨夷 (アメリカ)の脅嚇、 幕府おそれてこれを聴き、 また国体を顧みず。
幕府はアメリカの脅迫に屈服して言いなりになり、 日本の国体を護りぬくことを怠っている。 なぜ幕府はこのような腑甲斐なき土下座外交を行うのか。
何となれば征夷 (大将軍) 死をおそれ候ゆえ、 違勅して虜 (欧米) に和し候。 諸侯死をおそれ候ゆえ、 違勅して幕に阿り候。
違勅調印したのは徳川幕府と将軍がその本来の任務である夷狄を打ち払う戦いを 恐れ、 死を恐れたからである。 また藩主たちも同様戦いを恐れ死を恐れ自藩が取り 潰されることを恐れたから、 勅答に背いて幕府に阿諛迎合したのである。 このよう に松陰は言っているのです。 しかし、 一人松陰はそうではありません。
只今吾が輩のみ死をおそれざるゆえ、 政府 (長州藩) へ抗論致し候。
私は死を恐れないから、 勅答に従わぬ幕府にへつらう藩に対して抗議するのであ る。 松陰はなぜ長州藩は立ち上がり幕府の過ちを正さないのだと言って抗議します。 しかし、 幕府を恐れる長州藩は全く動こうとしません。 藩が動かないのであれば自分が立つと言って松陰は行動に出ようとします。
孝明天皇の御深慮を想えばこそ
人々が井伊の弾圧と暴政におびえていた中で、 なぜ松陰は一人でも立ち上がろう としたのか。
元来、 皇太神 (天照大御神) の神勅無になり候ことをお嘆き思召せばこそ、 主上 (孝明天皇) の御苦労遊ばされ候事にて、 その御苦労を体し候えばこそ、 吾が輩かくまで精神をこらし候ことに候 。
日嗣 (天皇) の隆えまさんこと天壌と窮りなしと申すは神勅なり。 只今幕府の処置にては日嗣の滅亡に至るなり。 天子様 (天皇) ここにお気が付き候。 恐れながら吾々もここに気が付き候
※神勅
豊葦原千五百秋之瑞穂国 (日本) は是れ吾が子孫の王たるべき地なり。 宜しく爾(なんじ) 皇孫就きて治せ。 行くませ。 宝祚 (天津日嗣・天皇) の隆えまさんこと、 当に天壌 (天地) と窮り無かるべし。 (『日本書紀』)
アメリカに屈服し続けた末、 こうした不平等の通商条約を結べば、 やがて天照大 御神の天壌無窮の神勅が無になり、 天皇国日本は滅亡する。 孝明天皇はこれを深く憂慮されたからこそ条約締結に反対されたのである。 その孝明天皇の御心を体せばこそ自分はここまで心を尽くすのだ。 孝明天皇の御深憂、 御苦悩を思い、 何としても天皇国日本を守るために、 松陰は身を捨てて立ち上ろうとしたのです。
天皇国日本は永遠であるというのはいとも尊い神勅であるけれども、 今の幕府の やり方のままでは日本は滅亡してしまう。 孝明天皇はそこに気付かれ、 私もまたそ れにはっきりと気づいた。 だからこそ松陰は長州藩が立たないのであれば自分が立つと言うのです。 このままでは日本は必ず滅びてしまう。 この絶体絶命の危機感。 これがわからなければ吉田松陰の真の姿と、 なぜ明治維新がおこったか決して理解できません。 ここに松陰の肺腑の底からの血の叫びがあるのです。
吉田松陰 日本救国の天使(7)
人々を奮い立たせる不滅の魂
野山獄に幽閉された松陰は次の歌を詠んでいます。
九重の悩む御心思ほへば手にとる屠蘇ものみえざるなり
孝明天皇の苦悩の御心を思えば、 屠蘇も呑むことができない。 これは処刑される その年の正月に詠んだ歌です 。
そして五月、 松陰は江戸に送られ、 処刑される直前、 「留魂録」 を書き上げます。 その最後に記された歌です 。
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷拂へよ
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
私を哀れだと思う人は、 天皇陛下を尊崇して日本を侵略せんとする欧米列強を討 ち攘え。 私は何度も生れかわって、 楠木正成のような忠臣となって日本を守るのだ。 松陰は尊皇攘夷の精神を村塾の弟子たちに死をもって教えたのです。
そうして十月二十七日、 辞世の歌を残すとともに、 漢詩を朗誦しながら従容とし て死についたのです。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
吾今国の為に死す
死して君親に負かず
悠々たり天地の事
鑑照明神に在り
自分の三十年の生涯は天皇陛下と両親にそむくことのない日本人としての誠の道 である。 天を仰ぎ地に
俯して恥ずることのない一生を神様は明らかにご覧になっている。 限りなく高く澄みきったりっばな境地です。
ともに万代に伝うべき絶唱です。
幽囚謹慎の挫折に次ぐ挫折の生涯であったにもかかわらず、 松陰の不滅の魂―― 尊皇攘夷の精神と至誠に貫かれた魂の教育――が久坂玄瑞、 高杉晋作らを導き、 長州の尊皇攘夷、 尊皇倒幕運動を成就させ、 明治維新を達成させました。
弟子たちと後世の日本人を感奮させてやまぬ松陰の比類なき気高い魂、 稀有の至誠の人格。 私は神様が日本を救う為にこの世に下した天の使い、天使が吉田松陰だ と思います。 西郷隆盛と並ぶ明治維新を導いた最高の人物、 我が国の代表的偉人です。 私たちは今こそ吉田松陰に学んでいかなければなりません。
ご連絡等ございましたら、連絡フォームを使ってお送りください。
なお、歴史講座は先着順ですので、予約等は承っておりません。