八田與一は、台湾で不毛の大地と呼ばれていた嘉南(かなん)平原に、堰堤長1,273mという当時では東洋一の規模である「烏山頭(うさんとう)ダム」と、総延長16,000kmにおよぶ給排水路を完成させました。その成果によって、嘉南平原は台湾一の穀倉地帯となりました。

 台湾では、このダムと給排水路をあわせて「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼んでおり、與一は「嘉南大圳の父」として、現在でも台湾で多くの人々に慕われ続けています。(写真・文章:金沢ふるさと偉人館HP引用)

 

 今、世界で世界一の親日国は台湾と言ってよいでしょう。その台湾が親日国になった要因の一つが八田與一氏が台湾で行った偉業です。その偉業を記した岡田幹彦先生の御著作をご紹介します。

 


台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(1)

 

 世界一の親日国

 

世界で最も親日的な国が台湾である。 東日本大震災において、 台湾の人々は深い同情を寄せ各国中最大の二百五十億円もの義捐金を贈ってくれた。

台湾での調査によると、 「立派だと思う国」 「旅行したい国」 「移住したい国」 の第一位は日本である。 台湾人の親日感情を一層深めたのが、 一九九九年の台湾大地震である。 他のどの国よりもいち早く駆けつけた日本の救援隊が、 不眠不体で献身的な救援活動を行う姿に台湾人はいたく感動した。 運悪く助けられなかった遺体に黙祷を捧げ、 遺族には 「救助できず申訳ありません」 と頭を垂れる救援隊の誠意に満ちた態度に、 心打たれない人はなかった。 次々とやって来る民間ボランティアを見て、 「さすが日本人だ」 「いざというとき頼れるのはやはり日本人だ」 との思いを深くしたのである。

 

任務を終えて救援隊が桃園(とうえん)空港を離れる時、 税関職員が総立ちとなり最敬礼し、 空港の出入客全員が拍手で見送った。 感涙を流した人も少なくなかった。 反日教育を受けた世代を含めたほとんどの台湾人が、 「日本よ、ありがとう」 と感謝したのである。 東日本大震災における桁違いの莫大な支援は、 この感謝の念のお返しでもあった。 この年、 台湾のマスコミが実施したアンケート調査 「あなたにとって二〇一一年の最高の幸福な出来事は?」 という問いに対して第一位の答えは、 「日本への義捐金が世界一になったこと」 であった。 我々日本人もまた台湾人のこの上なき思いやりと善意に対して、 頭を垂れて心から 「台湾よ、 ありがとう」 と言いたい。

 

台湾の人々がかくも日本を親愛するのは、 彼らが日本敗戦後、 蒋介石(しょうかいせき)の中華民国国民党政府の苛酷な支配を受け、 日本とシナ双方の統治を経験したからである。 戦後、 大陸からやってきた蒋介石とその政府は、 台湾に残された日本資産と日本人の私有財産を全て奪い取った。落介石と妻の(そう)()(れい)は独裁者として台湾をほしいままに私物化した。 皇帝気取りの蒋は台湾中に四十力所 「行宮(あんぐう)」 とよばれる豪華な別荘を建て、 「女帝」 たる宋美齢は 「私が中華民国だ」 と豪語した。 蒋一族はひたすら私腹を肥やすとともに、 中華民国政府は台湾人に不正と悪政の限りを尽くし、 三万人以上もの各界指導者を虐殺した二・二八事件 (一九四七) を始めとする弾圧を行い約四十年間恐怖政治を続けたのである。 日本と台湾の統治には天地の隔りがあり、 戦前の日本統治が文句なくすぐれ立派であったことを台湾人は骨身に泌みて思い知らされるのである。

 

今日、 台湾では 「日本精神」 という言葉が使われている。 それは最高のほめ言葉であり、  正直・誠実・勇気・慈愛・勤勉・清潔・責任感・自己犠牲等すべて良いものという意味の普通名詞になっている。 逆にその正反対の何でも悪いことの普通名詞が 「中国式」 である。

 

 「八田與一記念園区」

 

 その台湾で最も敬愛されている日本人の一人が、 わが国ではほとんど知られていない 八田(はった)()(いち)である。

敗戦後、 台湾各地に数多く建てられていた日本人 (軍人や政治家等) の銅像は国民党政府により(ことごと)く撤去されたが、 唯一つ日本人技師の八田典一の銅像が台湾の人々によって守られてきた。 八田の死後 (昭和十七年)、 台湾南部の()(なん)の人々は五月八日の命日、 この銅像のそばにある八田夫妻の墓 (昭和二十一年、 地元の人々が建立) 前で毎年慰霊祭を続けている。没後七十数年、 人々は今なお八田の偉業をしのびその恩恵に対して限りない感謝を捧げているのである。

八田は台湾総督府の土木技師として不毛の地であった嘉南平野に東洋一の貯水ダムと用水路を建設し、 この地を台湾一の穀倉地帯に変えた人物である。

 

平成二十三年、 馬英九総統の提案で政府の手によりこの地に、 「八田與一紀念園区 (記念公園のこと)」 が造られた。 五月八日の墓前祭当日、 開園記念式典が馬総統の出席のもと盛大に行われた。 馬総統は 「八田氏が人生のすべてを台湾にささげた功績は非常に大きく、 紀念園区を台湾と日本の懸け橋にしたい」 とのべた。 紀念園区には展示解説館はじめ八田らの職員住宅四棟が再現されている。

 

世界一の親日国台湾において誰一人知らぬ人のない最も敬愛されている日本人を、 日本の私たちが知らずにいてよいだろうか。 世のため人のために大きな貢献をした偉人は国家民族の尊い無形の精神的遺産、 共有財産と共有財産として後世に永く語り伝えられなければならない。

 

 村の花形役者 ― 「八田屋のよいっつあん」

 

 八田與一は明治十九年二月二十一日、 石川県河北郡今町村 (現金沢市) の農家八田四郎(しろ)兵衛(べえ)の五男として生まれた。 八田家は十五町もの田畑をもつ大百姓で通称「八田屋」と呼ばれた。 豊かで有力な豪農がいくつかあったが、 それらは屋号がつけられていた。 今も堂々たる生家が残っている。 立派な両親の下ですこやかに育った與一は村一番の腕白大将であり、 「花形役者」 であったと同郷の後輩はいう。 みんなで遊ぶとき、 山へ行くにも泳ぎに行くのも常に與一が先頭に立ち、 年上も年下も皆ぞろぞろとついて行った。 與一は明朗快活、 話は愉快で誰からも 「よいっつあん、 よいっつあん」 と親愛された。 人の長として仰がれる親分的な性格が、  年少の頃から自ずと備っていたのである。

 

與一は人柄も頭脳もすぐれていた。 北陸は浄土真宗が盛んであった。 八田家ではよく信徒、  村人が集まって僧侶の法話を聞く会が開かれた。 與一は自然に信仰心の厚い真宗門徒として育つ。 後年、 八田は 「人間に宗教は必要なものだ。 親鸞の教えには学ぶべき事柄がたくさんある」 と家族に語っている。 與一はこうした信仰心のもとに、 どんな人にも分け隔てなく誠意と思いやりをもって接したから、 人々に好かれなつかれた。 後年の一大事業 「嘉南大釧」 の実現は、 與一のこのすぐれた人間性なくして不可能であったろう。 明治三十七年、 石川県立第一中学校を卒業、 同年第四高等学校 (金沢) に入学した。 数学が好きだった八田は工科に進んだ。 この年、 日露戦争が始まったが、 與一のすぐ上の兄が金沢第九師団の兵士として出征、 旅順攻囲戦で戦死している。 民族の一大国難に命を捧げた兄を思って、 八田は四高で一心に学び将来国のため公のために尽す誓いを新たにした。


 


台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(2)

 

 東京帝大へ ― 恩師広井勇の感化

 

 明治四十年、 二十一歳の八田は東京帝国大学工科大学土木工学科に入学した。 八田はここで広井勇という恩師に出会うのである。 文久二年 (一八六二)、 土佐藩士の家に生まれた広井は、 札幌農学校二期生として新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)や内村鑑三らとともに学んだ。 欧米留学後、 母校の工学科教授となり北海道庁技師を兼任、 小樽、 函館、 釧路等の築港工事の設計者指導者として目覚ましい手腕を発揮した明治における港湾造りの第一人者であった。 ことに小樽の築港は十一年間を要した難工事であったが、 広井は拳銃を(ふところ)にし事成らざれば自決を覚悟して遂にこれを完成させたサムライ技師であった。

 

「小樽築港の恩人」 と賛えられた広井は、 誰よりも学識高く実務に精通した技術者として傑出していたから、 明治三十二年工学博士を授かりこの年、 東京帝大工科大学教授として招かれた。 帝大卒でない初の教授である。 広井は学閥とは無縁の異色の人物であった。 以後二十年間、 土木工学科の中心的存在として後進の指導に当ったが、 「広井山脈」 とよばれる幾多の英才を育て上げた。 広井のいた当時は東京帝大土木工学科の一大黄金時代といわれたが、 その中の錚々(そうそう)たる一人が八田である。

 

明治日本の躍進を願って世のため人のために命がけで数々の土木事業をやり遂げた広井の人物、 精神、 生き方に八田は絶大な感化を受けた。 八田は 「官位や地位のために仕事をするのではなく、 人類のためになる仕事をし、 後の世の人々に多くの恩恵をもたらすような仕事をしたい」 と強く願うのである。 広井の口癖は 「実習で実学を学び技術先進国の欧米の技術書を原書で理解せよ」 であった。 八田はこの教えに忠実に従い三年間、 勉学に明け暮れた。

 

土木工学に熱中した八田のものの考え方は奇抜であり、 発想は独創的で構想は雄大であった。 学友たちは 「八田の大風呂敷」 とからかつた。 しかし広井はそのような八田を親愛し温かく見守り、 「八田は内地には狭すぎる。 八田を生かすには外地で仕事をさせるのが一番ではないか」 と言ってくれ大きな期待をかけた。

 

 新天地台湾へ

 

 明治四十三年八月、 東京帝大を卒業した八田は台湾へ渡り、 台湾総督府に奉職した。 二十四歳の時である。

台湾は日清戦争の結果、 明治二十八年、 日本に割譲されわが領土となり台湾総督府が台北におかれたが、 第四代総督児玉源太郎の時代、 飛躍的発展を遂げた。 児玉総督を補佐したのが民政長官後藤新平である。 後藤は児玉の信任のもとに卓越した行政手腕を奮った。 児玉・後藤時代の約九年間に、 台湾は疫病がはびこる 「療属の島」 からなかば楽園に生まれ変った。 児玉と後藤は多くのすぐれた人材を台湾に招いたが、 中でも大きな貢献をしたのが台湾の製糖業を大発展させ生産量を最終的に約五十倍にまで高めた新渡戸稲造である。

 

日本統治の五十年間の成果は次の通りである。 米収穫量一五〇万石から九〇八万石(六 倍)、 砂糖生産量三万トンから一四二万トン(四十七倍)、 敷設された鉄道一〇〇キロから六〇〇キロ(六倍)、 発電力六九〇〇〇キロワットから一一九五〇〇〇キロワット(十七倍)、 就学率二%から九二・五%(四十五倍)、 平均寿命三十歳から六十歳(二倍)、 アヘン吸飲率六%から・一%(六〇分の一に削減)、 マラリヤ患者五万九千人から七千三百人(八分の一に削減)。 また(きい)(るん)高雄(たかお)において築港され、 両港は台湾の二大貿易港として繁栄した。 昭和三年には台北帝国大学が設立された。

 

日本の台湾統治において人々に親しまれたのは庶民に日常的に接した教師と警察官である。 戦後九割以上の教師が教え子に招かれ台湾を訪れている。 一度ならず二度三度招かれた人もある。 日本人教師が台湾の児童、 生徒からいかに敬慕されたかがわかる。

 

わが国は台湾の統治に最良の人材を各方面に投入したのである。 今日、 台湾人が 「台湾近代化の父」 として最も尊敬するのが後藤新平である。 日本の台湾統治は欧米が行った植民地支配とは全く異なる。 欧米の植民地支配は有色民族を劣等人種として差別し奴隷扱いする圧制と搾取を本質としたが、 日本の台湾統治 (朝鮮統治も同様) はその正反対である。 台湾人を同じ国民として一視(いっし)同仁(どうじん)の精神であたう限りの善政につとめ、 人々の生活を豊かにし幸せにすることに全力を傾注した。 八田もまたこうした先人、 先輩たちの志を継承せんとして、 大きな理想と夢を胸に抱いてこの地にやってきたのである。

 

 総督府土木技師

 

 八田は台湾総督府土木部技手(ぎて)を命ぜられた。 大学卒の技術者が始めに任命されるのが技手で、 数年後技師に昇格する。

最初の仕事は島内の視察である。 島内はまだまだ開発すべき余地がいくらもあった。 そこで各地をいかに開発してゆくかよく観察し報告する任務である。 八田は南部の高雄の開発につき予算書を添えて計画書を提出した。 ところがその予算が厖大だったため上司を驚かせた。 「八田の大風呂敷」 がここでも遺憾なく発揮されたが、 その計画書はやがて高雄の第二期築港工事に採用されるのである。

 

大正三年、 二十八歳の時技師に進み、 土木課衛生工事係となった。 主要都市に上下水道を整備する仕事である。 後藤新平民政長官の時代からマラリヤ、 赤痢、 コレラ、 ペス ト等の風土病、 伝染病の撲滅に力が注がれていたが、 それは長い年月を要した。 衛生思想の普及、  医療の充実、 そして上水道の整備による清浄な飲料水の確保と下水道の整備は、 尚一層推進されなければならなかった。 台湾の上下水道を整備する上で最も貢献した人物が、 「台湾上下水道育ての親」 といわれた総督府技師、 浜野弥四郎(よしろう)である。 浜野は明治二十九年の東京帝大土木工学科卒で八田の先輩である。 浜野は 「日本上下水道育ての親」 といわれたお雇い外国人、 東京帝大工科大学教授バルトンに師事した。 バルトンが後藤新平の懇請で台湾に来たとき浜野が随行する。 バルトンは台湾の上下水道整備に尽力するが、 三年後病没した。 浜野はその後をひき継ぐのである。

 

八田は上司かつ帝大の先輩である浜野を深く尊敬し心から慕い、 その指導のもと上下水道工事に全力で従事した。 ことに台南上水道工事においては、その水源は()文渓(ぶんけい)から取り入れられたが、 その際、 八田は台南各地を踏査し地形に精通するとともに、 水路の引き方、 暗渠(あんきょ) (地下用水路) や開渠(かいきょ) (地上用水路) をはじめとする水利工事の工法を実地につき深く学ぶ経験を積み重ねた。 それがその後の 「嘉南大圳」の工事に大いに役立つのである。 大正五年、  海外の用水施設の視察を命ぜられ、 ジャワ、 ボルネオ、 セレベス、 シンガポール、 フィリピン、 アモイ、 香港を見て回った。

 

 そのあと八田は土木課監査係に移り、 発電灌漑(かんがい) (田畑に水を注ぎうるおすこと) 工事を担当した。 当時、 総督府では米の増産のため水田の適地を求め灌漑工事を企画していた。 そこで選ばれたのが台北の南、 新竹(しんちく)(しゅう)桃園(とうえん)である。 八田は若手の技師とともにこの地に入り調査を行い、 基本設計書を短期間で作り上げた。 これに従い大正五年春、 工事が開始され、 暗渠、 開渠、 多くの貯水池が作られて九年後に完成をみる。 その結果、 二万三千町歩の土地が灌漑され良水田が出来上った。 この水路と貯水池は 「桃園埤圳(ひしゅう)」 とよばれた。 「埤」 とは農業用貯水池、 「圳」 とは水路のことである。八田が設計、 監督を行った桃園埤圳工事は高い評価を受けた。

 

八田は大正六年、 三十一歳の時結婚した。 仲の良い兄で医師の智證は弟が三十を過ぎてまだ身を固めていないことを心配し、 花嫁を見つけてくれた。 金沢の医師米村吉太郎の娘外代樹(とよき)である。 日頃、 医者同士のつきあいで親しくしたことがこの良縁を結ばせた。 新婦は十六歳、 県立第一高等女学校を最優秀で卒業している。 年は離れていたが、 二人は仲睦まじかった。 外代樹は公務に尽痒する典一をよく支えて八人の子供を育て上げた。 外代樹は台湾を第二の故郷として深く愛し、 昭和二十年九月、 この地に骨を埋めるのである。



台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(3)

 

 良き上司に恵まれる

 

 桃園埤圳の灌漑工事を担当して一躍、 水利建設事業の第一人者として認められた八田は、  いよいよ生涯の大事業、 嘉南平野における灌漑工事に取り組むことになった。 嘉南平野は台湾の西南部、 海に面した南北九二キロ・東西三二キロの台湾最大の平原だが、 洪水と早魃 (日照り) と塩害の三重苦が支配する不毛の大地であった。 この地は五月から九月までが雨期で、 集中豪雨に見舞われ洪水をひきおこし田畑は水浸みずびたしになる。 秋冬期はほとんど雨は降らず日照りで土地は乾燥し、 飲料水の確保すらままならぬ状態となる。 また海岸に近い地域は塩分を含んだ水により植物は育たず、 土地の表面は塩が積もって白くなる。 ここには六十万の農民がいたがそれを運命とあきらめ、 長年この三重苦にあえぎつつ悲惨な生活をしてきた。

 

八田はこの広大な平原に適切な灌漑工事を施すならば肥沃な大地に生まれ変ると思った。 つまりこの地に大規模な灌漑用貯水池 (ダム) を築き平野を縦横に走る給排水路を敷くなら、 洪水も水不足も塩害も一挙に解決して米の大増産が可能と考えたのである。 八田は現地に分けいり入念な調査の末、 綿密な計画書を作り上げ山形要助土木局長に提出した。 それは 「八田の大風呂敷」 とよばれるにふさわしい桃園埤圳とは比較にならぬ気宇壮大な企画であった。 経費も莫大である。 しかし今や誰もそれを実現不可能の無謀な計画と笑う者はなかった。 八田なら出来るに違いないと思わせたのである。 八田の人物、 手腕を高く評価する山形局長はこの計画を認め、 下村宏民政長官に上申した。 下村は八田を呼んで尋ねた。

 

「八田君、 このような大規模な灌漑工事が日本内地で行われた例はあるのかね」

「いや、 ありません。 この工事が完成した暁には、 日本ではおろか東洋でも例を見ないものになるでしょう」

「君、 できるかね。 『やるとすれば八田君にやってもらうしかないだろう』 と山形君も言っていたが、 自信はあるかね」

「自信はあります。 あるからこそ計画書を出したのです。 ただ資金の問題については技術屋の私にはわかりませんが」

 「分った。 金の問題は私の仕事だ。 日月潭(にちげつたん)の件 (日月渾水力発電所の建設、 大正八年 着工・昭和九年完成) もあるし、 色々障害もあるだろうがなんとかやってみようじゃないか。 東洋一の土木工事が二つも台湾にできるのは気持の良いものだ」

こうして大正七年、 完成後 「嘉南大圳」 とよばれる大事業の着工が決定される。 その最終の決断を下したのは第七代総督明石(あかし)元二郎(もとじろう)陸軍大将である。

 

明石の在任は大正七・八年のわずか一年余りだつたが、 その間、 台湾電力株式会社創設、  日月渾水力発電所工事の着工、 台湾教育令の公布、 地方自治制度の制定、 縦貫鉄道中部 海岸線の開通、 華南銀行の設立、 台北高等商業学校設立、 司法制度改革 (二審制を内地 と同じ三審制に)、 そして嘉南大圳着工の決定と有能な下村民政長官を深く信任して短期間に大仕事を次々に推進した。 明石は過労のため五十六歳で亡くなるが、 遺言により遺骨は台湾の地に埋葬された。 明石は台湾をかくも愛してやまなかったのである。 明石・下村の台湾統治は期間こそ短かかったが、 児玉・後藤時代に次ぐ立派な輝かしいものであった。 明石・下村・山形らすぐれた上司に恵まれ、 手腕を存分に奮うことができた八田は実に幸運であった。 八田がよき上司に恵まれ、 認められ、 可愛がられたのは、 何より人物がすぐれ人柄が良かったからである。

 

とてつもない一大灌漑事業

 

嘉南平野全域十五万町歩 (香川県の広さに相当、 台湾全耕地の五分の一) に(くま)なく水をゆきわたらせ肥沃な大地とする灌漑工事の中心となるのは貯水池と灌漑給排水路の建設である。

まず貯水池につき八田は次のように企画した。 台南市の北側を流れる()文渓(ぶんけい)という川の支流(かん)田渓(でんけい)の上流に人跡未踏の鳥山頭(うざんとう)とよばれる谷あいがあるが、 この烏山頭に大堰堤(えんてい) (水を堰きとめる堤) を築き大人造湖をつくる。 ここに大量の水を貯える為には官田渓の水だけでは不足なので曽文渓から導水する必要がある。 人造湖と曽文渓の間には 鳥山嶺という山がある。 そこで鳥山嶺をくり抜き(ずい)(どう) (トンネル) を造る。 その長さ約三千メートル。

 

曽文渓から分水された水と官田渓の水を貯える人造湖の堰堤は全長一二七三メートル、 底部幅三〇三メートル、 頂部幅九メートル、 高さ五六メートルという巨大なものである。 当時日本で最も高いダムでも三十数メートルしかない。 五十メートルをこえるものなどダム先進国のアメリカでも数例しかなかつた時代である。 しかも堰堤の長さがすごい。 八田がこの設計図を示した時、 他の技師はみなど肝を抜かれ唯々 「八田の大風呂敷」 に脱帽するしかなかった。

 

もう一つはこの貯水池から嘉南平野全体に給水する為の給水路及び排水路の工事である。 給水路は十五万町歩の平野に網の目の様に張りめぐらせる。 総延長一万キロ。 桃園埤圳の給水路の五十倍である。

 

さらに排水路を必要とした。 排水により土地の塩分を洗い流し地力を取り戻さねばならないからである。 大きな排水路は幅一〇〇メートルもあつた。 この総延長が六〇〇〇キロ。 給排水路合わせて一六〇〇〇キロ (これがいかに長いかは、 東京―稚内一〇〇〇キロと比較するとわかりやすい)。

 

これだけにとどまらない。 給排水路にともなう給水門、 分水門、 放水門、 水路橋、 鉄道橋、  歩道橋、 車道橋、 暗渠(あんきょ)潮止(しおどめ)堤防 (九六キロ)、排水門等三千九百ヶ所もの付属建造物の工事がある。

 

さらにもう一つ十五万町歩に水をゆきわたらせる為にはダムからの放水だけでは足りず、 平野の北側の濁水渓(だくすいけい)からの導水工事が必要だった。 総工費約五千四百万円 (今の金額で約一兆円)、 工期十年(大正九〜昭和五年)というかつてない一大灌漑事業である。

 

 渡米してダムを視察

 

大正九年九月一日、 工事が開始された。 無論、 総責任者は鳥山頭出張所長に任命された八田である。 時に三十四歳。 完成までの十年間、 八田は心血を注ぎ肝胆を砕き、 台湾にとつてこの世紀の大事業にすべてを捧げ尽くすのである。

 

工事は大きく四つに分けられる。 貯水池の堰堤築造、 曽文渓導水隧道、 濁水渓導水及び給排水路の各工事である。 そしてこれらの本工事にとりかかるまでには、 種々の予備工事があった。 大きなものとしては工事の資材を運ぶための鉄道や道路の建設である。 ことに鉄道は大型工事機械、 材料、 堰堤に要する大量の土石等の運搬に不可欠であつた。 そのため縦貫鉄道の通る番子田駅 (現在の隆田駅) から烏山頭まで一二キロの鉄道が敷かれた。 さらに烏山頭から南へ二〇キロ、 土石運搬用の複線の鉄道が設けられた。 堰堤や隧道工事がいまだ始らない大正十一年、 八田はアメリカに出張した。 ダム先進国アメリカのダムをこの日で見て研究し万全を期したかったからである。 八田が使用せんとする工法はわが国で始めてのものであった。

 

八田はまずアメリカ土木学会を訪問しダムの設計図を示して米人技術者と意見を交換した。  そのあとアメリカのみならずカナダ、 メキシコの主なダムを視察したが、 自分の設計及び使用する工法が決して誤っていないことを確信しえた。 またこの際、 工事に必要な大型機械をアメリカから購入した。 エアーダンプカー百両、 パワーショベル七台、 ジャイアントポンプ五台、 ドイツ製機関車十二両、 コンクリートミキサー四台、 大型削岩機等これら大量の機械は堰堤や隧道の工事に大きな働きをする ことになる 。

 

 


台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(4)

 

 試練に次ぐ試練

 

八田がアメリカから戻った大正十一年六月、 曽文渓から導水する為の鳥山嶺隧道工事が始まった。 三千メートルもの隧道を掘り抜く工事は堰堤築造とともに最も難しい工事であった。 地下九〇メートルの中での作業であり、 灼熱(しゃくねつ)地獄と高い湿度の中での汗みどろの仕事であった。

 

開始後間もない同年十二月、 不慮の事故が起きた。 掘り進んでいた時、 地中より石油ガスが噴出、 それが引火して大爆発をおこし五十余名もの死者を出す大惨事をひきおこした。 八田が最も懸念したのは工事中、 犠牲者を出すことだったが、 最初の事故にかくも多くの死者を出したことに気が動顛(どうてん)し打ちのめされた。 あまりの惨事に非難の声が上がり、 工事は中止すべしとの意見すら出たのである。 八田は犠牲者の家々をまわり心から詫びた。 その時台湾人犠牲者の家族がこう語った。 「決して工事から手を引かないでほしい。 今工事を中止したら、 嘉南の農民は水のない生活を続けることになる。 死んだ者の為にもぜひ工事を完成させてほしい」

 

八田は涙をうかべて工事の完成を誓った。 八田はここで挫けてはならじと己れに鞭打ち心を奮い立たせた。 以後、 難工事の為少なからぬ犠牲者 (全部で百三十四名) を出したが、 八田はこの苦難に耐え抜くのである。

 

もう一つの試練は資金難である。 経費の半分は日本政府の補助金であったが、 大正十二年におきた関東大震災の為それが大幅に削減された。 そのため八田は工事を一時縮小し従業員の半数を解雇せざるを得なくなった。 そのとき八田は誰をやめさせるかに苦しんだが、 より有能な者からそうした。 幹部らは有能な者を残すべきではないかと異を唱えたが、 八田はこう答えた。

「私もいろいろ考えた。 確かに力ある者を残しておきたい。 しかし能力ある者は他でもすぐ雇ってくれるだろうが、 そうでない者が再就職するのはなかなか難しい。 今これらの者の首を切れば家族共々路頭に迷うことになる。 だからあえて惜しいと思われる者に辞めてもらうことにした。 その穴埋めは君たちが残った者を教育して補ってくれ。 辞めさせる以上、 辞めていく者の就職回は必ず私が見つける。 君たちも苦しいだろうが私 もつらいのだ」

 

八田は退職者たちにわずかだが賞与金を一人一人手渡しこれまでの労苦に感謝し、 目に涙をにじませてこうのべた。 「(しばら)く辛抱してくれ。 いつかまた工事が再開される時がくれば、 一番に君たちに帰ってもらう。 それまで辛抱してくれ」

八田はそのあと職場探しに奔走し、 以前よりも高い給料でみな再就職させた。 彼らは 「八田所長を信じてついてゆきさえすれば、 私たちのような者でも決して見捨てられたりはしない」 と感泣した。 翌年工事が元通り再開されたが、 八田は約束通りみな復職させた。

 

 烏山頭家族の大親分

 

鳥山頭の工事場はひとつの町であった。 八田の家族始め千人以上がここに居を構え生活していた。 幹部、 職員用宿舎が三百戸以上もあつた。 この人々を含め常時二千人近い人々が出入りしていた。 職員家族のために小学校があり市場や商店もできた。

 

八田は従業員が長期間安心して働ける為に慰安・衛生施設づくりに心を注いだ。 病院のほか水泳場、 弓道場、 庭球場、 購売部、 クラブなどを設けた。 また台北から巡回映画をよび毎月上映させた。 クラブには舞台が備えられ時折、 芝居が催された。 ここでは将棋、 囲碁 、花札 、 麻雀、 玉突きなど自由にできた。 八田もよくここに出入りし部下と楽しみをともにした。八田が現われるとその場は一段とにぎやかになり活気に満ちた。 小学校の校庭では運動会、 野球大会、 盆踊りなど家族総出で行われた。

 

工夫・人夫(にんぷ)といわれた作業員の大半は台湾人だが、 彼らの楽しみの一つは博打であった。  博打を禁止すると彼らはやる気を失ない工事が(はかど)らないから、 八田はこれだけは許してやった。 ただし博打につきものの喧嘩は厳禁した。 八田は緩めるところと締めるところを心得ていた。 十年間の鳥山頭での集団生活において従業員の間に忌まわしい事故はなかった。 それは八田が真に部下思いの人であり人々から深く畏敬され親愛され、 人々が八田に心服したからである。 八田は土木技術者として最もすぐれていたが、 同時に組織をたばねまとめあげ衆心一致して事にあたる経営能力においても抜群の統率力の持主であった。 八田は鳥山頭大家族、 八田一家の大親分として人々の絶対的信頼をかちえていたことが、 この一大事業を成就せしめた要因であった。

 

 堰堤築造

 

一大灌漑工事の中心は一・三キロに及ぶ長大な堰堤(えんてい)築造である。 その本工事は事業開始六年目の大正十五年に始まった。 準備に長い年月を要したのである。

 

この大堰堤は日本及び東洋においていまだかつて試みられたことのないセミ・ハイドロリックフイル工法が採用された。 この工法による堰堤はダム先進国のアメリカでも二、 三あるのみで、 しかも烏山頭ダムとは比較にならぬ小さなダムである。 従ってわが国の権威ある土木技師でもこの工法に熟知している者は皆無であり、 八田の独創的工事といってよかった。 ダムの堰堤といえば普通コンクリートの高い壁を思いうかべるが、 コンクリートを打つのに適した固い地盤がない場合、 土や石を主材料とする工法が使用される。

 

八田の用いたセミ・ハイドロリックフィル工法は粘土と砂と石を主体としているが、 堰堤の中心部にコンクリートを据えた。 セメントの使用量はダム全体のわずか〇・〇五%である。 そのまわりを粘土、 砂、 石の順に積み重ね築堤する。 この粘土・砂・石を固定させてゆく時、 ジャイアントポンプによる射水を行う。 土砂・石を突き固めて築く乾式(かんしき)方法ではなく、 水の力によって築く湿式(しっしき)方法である。 中心部のコンクリートのまわりは大量の粘土が覆うが、 これが強力な水圧の射水によって固まりコンクリートに優る強固なものになるという。 堰堤の底部は三〇三メートルもある。 莫大な量の土砂と石を五六メートルもの高さに積み上げ五台のジャイアントポンプにより射水を続けて、 一・ 三キロに及ぶ堰堤を築く工事がこうして始まるのである。

 

この堰堤の設計図の作成に八田は長い時間をかけ神経を注いだ。 莫大な水量に耐え、 水圧により決して崩壊することのない堅固な堰堤を築かなければならない。 それは大型ダムとして世界初めての試みであった。 以後六年間毎日、 土砂と石の運搬と積み上げ、 そして射水の作業が続いた。 土砂と石は二〇キロ離れた採取場から鉄道を使って運ばれた。

 



台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(5)

 

 「嘉南大圳」の完成

 

一方、 堰堤造りと併行して給排水路工事及び付属工事並びに濁水渓(だくすいけい)導水工事は大工事ではあったが大きな事故もなく進捗、 昭和四年にはほとんど竣工した。 最大の犠牲者を出した烏山(うざん)(れい)(ずい)(どう)工事は、 七年半の年月をかけて同年完了した。

昭和五年春、 ついに堰堤が竣工した。 こうして十年の歳月を費して全ての工事が完了した。烏山頭(うざんとう)ダムに()文渓(ぶんけい)(かん)田渓(でんけい)から放水された。 満水量は一億五〇〇〇万トン、 満水面積は一〇平方キロである。 一・三キロの堰堤は満々たる湖水をしつかりと湛えた。 堰堤の上からこれを見る八田は万感無量この上ない感激に身を打ちふるわせた。

「天が造らせてくれたのだ。 天の力なくしてこれだけの工事がやり遂げられるはずがない。  自分は運が良かっただけだ。 自分の生涯で三度と再びこのような人事業を行うことはないだろう」

この大人造湖は「烏山頭(うざんとう)ダム」と名づけられ、 ダムと給排水路を含めてこの一大灌漑施設は「()(なん)(たいしゅう)とよばれた。

 

 嘉南大圳の完成は世界の土木界を驚嘆させた。 鳥山頭ダムは東洋唯一の湿式土堰堤であり、  その規模において世界に例のない巨大ダムであった。 それゆえアメリカ土木学会は鳥山頭ダムを特に 「八田ダム」 と命名し、 八田の功績を高く賞讃した。 それは日本の灌漑土木技術の優秀さを世界に証明した一大金字塔であった。

烏山頭ダムは既に下村宏民政長官により 「珊瑚潭(さんごだん) (潭とは湖)」 と命名されていた。 貯水池の形が上からみると珊瑚の樹に似ているからである。

 

五月十日、 嘉南大圳の竣正式典がこの珊瑚渾を見下す丘の上で、 三千六百人が参加し盛大に行われた。 祝賀会は三日続き、 屋台が出て、 芝居や映画それに花火、 提灯行列等が行われ人々は歓喜に(ひた)った。

五月十五日、 通水式が行われた。 烏山頭ダムから嘉南平野の縦横に走る給水路への放水である。 放水門から水しぶきをあげ轟音を立てて一斉に放水される光景に、 全員から拍手がわき上った。 人々の目に涙があふれ頬を伝って流れ落ちた。

 

嘉南の人々の喜びは到底筆舌に尽し難い。 人々は口々に 「神の恵みだ。 神の水だ。 神の与え賜うた水だ」 と叫んだ。 こうして数百年間、 三重苦に泣かされた不毛の地は台湾最大の穀倉地帯へと生まれ変るのである。 以後、 八田は 「嘉南大圳の父」 として敬愛、 仰慕され、 死後もなお嘉南の人々にとり永遠に忘れがたき恩人となるのである。

 

 殉工碑・交友会・銅像

 

 八田は竣工式に先立ち同年三月、 「殉工碑」 を建立し、 この大事業における尊い犠牲者の慰霊祭を行った。 工事中の事故、 風土病等で亡くなった人々は百三十四人、 日本人四十一名、  台湾人九十二名である。 八田は亡くなった順に日本人台湾人の区別なく姓名を石碑に刻んだ。  

 

人々が解散するにあたり、 技師、 職員、 従業員の間から長年労苦を共にしてきたその断ち難い絆をいつまでも保つ為に会を作ろうという声が上り 「烏山頭交友会」 が結成され、 八田は会長に推された。

竣正式と通水式終了後、 八田は部下の再就職の為に奔走したが、 どこでも 「八田技師が推薦するなら間違いない」 と優遇してくれた。

 

 交友会の人々は八日の功績を永久に讃えるため、 銅像を造ることを決議した。 八田は感激したが固辞した。 だが交友会の総代らは 「交友会の象徴として私たち全従業員の心の糧として造りたいのです。 それは所長のためというより私たち従業員の為なのです」 と懇願した。 八田は了承して言った。

「分った。 造ってくれるならお願いがある。 よく見かける正装し威厳に満ちた顔つきで高い台に立つような銅像にだけはしないで欲しい。 私はこの十数年間というもの毎日作業服に地下足袋(たび)、 それにゲートル (足首から膝までに巻く(きゃ)(はん)) 姿で烏山頭工事をしてきた一技術者であり 、 背広など着たことは一度もない。 できればそういうありのままの姿の像にして欲しい。 そして台の上に置いたりせず、 珊瑚潭を見下せる場所に直接置いて貰えるとありがたいのだが」

こうして八田の望む通り、 作業服姿で腰をおろし右指で頭髪をひねる姿(八田が何か考える時の癖) が銅像となった。 除幕式は昭和六年七月三十一日に行われた。 この時は台座はなく地面に固定された。

 

その後、 大東亜戦争中に金属製品は供出(きょうしゅつ)されたが、 八田の銅像は嘉南の人々によりひそかに隠され、 昭和五十六年一月 、人々は政府の許可を得ないまま元の場所に低い台座をつけて設置したのである。 三十七年間人々はこの銅像を守り抜いたのだ。 嘉南の農民民たちがいかに八田を仰慕し続けこの銅像を守護神としてきたかが思いやられる 。

 

 嘉南の人々の心に永遠に残る八田夫妻

 

嘉南の人々、 いな台湾人にとって永遠の人となった八日の思い出を、 当時烏山頭で働いていた一運転士が後年こう語っている。

「八田さんについては忘れられないことがあります。 八田さんと堰堤係長だった阿部 (貞壽)さんが私の汽車に乗って大内庄 (烏山頭から二十キロ南の土砂採取場) まで視察に行くんです。 その時他の人は寒いのでボイラーのある機関車に乗るんですが、 八田さんと阿部さんはいつも砂利を積む台車に乗って決して機関車に乗らなかった。 それを本島人の者はみんな知っていてね。 感服したものですよ」

「工事が遅れると夜遅くまで作業するようになり、 その時に八田さんは必ず出てきて、 作業している所を見回ってよく皆を激励しましたよ。 いつもですよ。 ちょっと普通できないな。 それでね、 本島人はみな八田技師は偉い人だと尊敬していましたよ」

 

また他の人々はこうのべている。

「八田さんがこの工事をしなかったら、 今でもこのあたりでは米は穫れなかっただろうな。 八田さんは私らにとってみたら大恩人ですよ」

「大恩人というより神様だな。 神様みたいに思っている人が嘉南に多いな」

 

八田はその後も灌漑土木工事の第一人者として大活躍、 昭和十五年、 総督府で唯一人の(ちょく)(にん)技師となった。 昭和十七年、 八田は綿作灌漑調査のためフィリピンヘ出張の途中、 乗船が米軍潜水艦に撃沈され五月八日、 東シナ海海域で亡くなった。 五十六歳である。 遺体は萩の漁民により発見され遺骨が台北に戻り、 台北及び烏山頭で葬儀が行われた。

 

外代樹(とよき)は夫の死後も台湾に残り、 終戦直後の昭和二十年九月一日、 烏山頭ダムの放 水口において投身自殺した。 四十五歳であった。 外代樹は男二人女六人を育て上げた。 家事と育児に明け暮れ、 夫によく尽した人である。 多くの子供たちを残して外代樹はなぜ死を選んだのであろうか。 外代樹にとり台湾は第二の故郷、 いやまことの故郷であった。 彼女は結婚後、 一度も郷里に帰ることはなかった。 ことに夫、 子供らと苦楽を共にしたこの烏山頭こそ外代樹にとりかけがえのない永久に忘れ難き魂の故郷となったことであろう。 珊瑚潭ともよばれたこの地の景観は美しく、 ことに湖面に映る夕陽は絶景といわれた。 外代樹はこよなく烏山頭を愛してやまなかった。 ダム完成後台北に戻ったが、 しばしばここを訪れた。 夫の死後疎開したところもここである。 ここから離れて私はない、 その思いがいまだ年少の娘たちをおいて、  夫の生涯の大事業の地、 夫の魂が鎮まるこの烏山頭に自らの骨を埋めさせたのだろうか。 嘉南の人々は八田に続く夫人の死にみな泣いた。 夫人について人々は後にこう語っている。

「八田さんもいい方だったが、 奥さんはもっと皆から好かれていたな」

「奥さんはね、 頭の低い、 誰にも親切な、 偉そうなところのないいい人でした。 奥さんが亡くなった時にはね、 みんなが悲しんだものでね。 私も火葬の時は手伝いました」

 

「誰にも親切なきれいな人だったな」

 


台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(6)

 

 李登輝・蔡焜燦両氏の八田礼賛

 

『台湾人と日本精神 日本人よ胸を張りなさい』 (小学館文庫) を著した蔡焜燦氏はこうのべている。

「嘉南平野の人々はこの地のために生涯を捧げてくれた夫妻の死を悲しみ、 戦争が終った翌年の十二月十五日、 地元の人々によって八田與一と外代樹夫人の墓が建立された。

私は日本からの訪問客をこの地に案内するとき、 しみじみ思うことがある。 それは、 もし日本の統治がなかったらこんな立派なダムもなく、 おそらく台湾は中国の海南島のような貧しい島になっていただろうということだ。 これは単なる私個人の推量ではなく、 その後の中国人による台湾支配を経験した多くの台湾人が確信していることでもある」

 

元台湾総統李登輝氏はこう語る。

「八田氏は技術者として優れていたばかりでなく、 人間としても優れていました。 台湾人だから労働者だからといって、 肩書きや民族の違いによって差別しなかった。 例えば嘉南大圳の完成までに百三十四人もの人が犠牲になりました。 その殉工碑には犠牲者の名前が台湾人、 日本人の区別なく刻まれています。

また関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、 従業員を退職させる必要に迫られました。  そのとき 『優秀な者を退職させると工事に支障が出るので退職させないでほしい』 という幹部に対し八田氏は、 『大きな工事では優秀な少数の者より平凡な多数の者が仕事をなす。 優秀な者は再就職できるがそうでない者は失業してしまい、 生活できなくなるではないか』 といって、 優秀な者から解雇しました。 この優れた人間性は八田氏の天性といえるかもしれませんが、 氏を育んだ日本という国でなければこのような精神はなかったと思います」

「八田氏夫妻が今でも台湾の人々によって尊敬され大事にされている理由に、 義を重んじ誠をもって率先垂範、 実践躬行する日本精神が脈々と存在しているからです。 日本精神の良さは口先だけじゃなくて実際に行う、 真心をもって行うというところにこそあるのだということを忘れてはなりません。 『公に奉ずる』 精神こそが、 日本および日本人本来の精神的価値観であると言わなければなりません」

 

 台湾に残した八田與一の事業と精神がいかに不減の価値を有しているか、 両氏の言葉に明かであろう。 八田興一・外代樹夫妻は生涯を捧げた台湾、 烏山頭の地に骨を(うず)魂魄(こんぱく)を留めた。 二人は明石元二郎第七代総督とともに永遠に台湾の守り神となったのである。

 

 

〈初出・『明日への選択』 平成二十四年九月号~十一月号/一部加筆・修正〉