坂本龍馬

生年が天保6(1835)年10月とする説もある。父は高知藩の郷士。嘉永6(1853)年江戸の北辰一刀流千葉定吉に師事。剣士として知られる。文久元(1861)年武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加。2年脱藩して江戸へ出、勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所建設に尽力。慶応元(1865)年長崎の亀山に社中(のちの海援隊)を開く。薩長連合締結に努力し、2年西郷隆盛木戸孝允の盟約に立ち会った。3年6月後藤象二郎と長崎から海路上京する船中で、独自の国家構想である「船中八策」をまとめた。同年11月中岡慎太郎と共に京都で暗殺された。(写真と文:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

 

 先日お知らせしました岡田幹彦先生のご著書「維新の先駆者」をこのホームページで公開することをご承諾いただきましたので、初めに第一章「坂本龍馬 困難に立ち向かった志士の気概」を7回に分けてご紹介します。

 

 なお、本講演録は、平成二十二年三月十三日、日本政策研究センター大阪中ビジョンの会における歴史講座「坂本龍馬」の記録を、整理・原稿化したものです。

 


坂本龍馬 困難に立ち向った志士の気概 (1)

 

 「龍馬伝」では分からない坂本龍馬

 

皆さん、 こんばんは。 今日はいま人気の高い坂本龍馬についてお話させていただきます 。

 

皆さんもご覧になっているかと思いますが、 今放映されている 「龍馬伝」、 私も何回か見ました。 しかし、 あれはものすごく脚色されております。 もっとはっきり言いますと、 捏造ねつぞうですね。 例えば、 岩崎弥太郎が副主人公のようになっていますが、 実際には若い頃の弥太郎は龍馬とつきあいはありません。 それから、 龍馬が吉田松陰しょういんと会った場面もありましたが、 実際には会っておりません。 また松陰と金子重輔しげのすけが殴り合って気合いを入れる場面もありましたが、 あれも作り話です。 ひどいものです。

 

今はテレビを見て楽しんで、 そのあと本を読むという時代ですから、 まず映画やテレビ、 漫画など、 そういうものをきっかけに龍馬のことを知ろうというのは、 結構なことだと思います。 しかし、 あれがすべてだと思わないように気を付けなければなりません。

 

一方、 坂本龍馬をここまで有名にしたのは、 司馬遼太郎が書いた 『竜馬がゆく』  です。 司馬さんの小説はことごとくベストセラーになりましたが、 一番読まれたのは 『竜馬がゆく』 です。 私も若い頃に三回ぐらい読みました。 ものすごくおもしろいですね。 司馬さんは龍馬と同じ時代に生きてさも龍馬を見てきたかのように描いております。 だから、 あれを読んだ人は男も女も老いも若きもみんな龍馬が大好きになる。 京都の寺田屋に行くと、 若い男女でいっぱいです。

 

しかし、 『竜馬がゆく』 をはじめ坂本龍馬の伝記、 物語は山ほど出ておりますが、 実はそのほとんどが龍馬の真面目しんめんもく、 真骨頂しんこっちょうを伝えておりません。 龍馬があの世で  「それではいかんぜよ」 と言いそうです。 それゆえ、 私はこれまで二十年以上にわたって声を大にして龍馬の真の姿というものを語り続けてきました。 いったい本当の坂本龍馬というのはどういう人物だったのでしょうか。

 

 劣等生だった竜馬

 

言うまでもなく、 龍馬は人気だけでなく実力もありました。 薩長同盟の成立に力を尽くすなど明治維新を成就させる上で大変重要な役割を果たしました。 しかし、 小さいときから優秀だったのかというと、 そうではありません。 大変な劣等児です。 ものすごく気が弱く、 けんかしては泣かされる。 それから十二歳ぐらいまで寝小便をたれていた。 弱虫、 泣き虫、 寝小便たれで、 塾へ行ってもいじめられ、 からかわれる。 だから、 お父さんは 「龍馬はすたれ者になる」 と言って心配しました。 廃れ者とは、 到底一人前の人間たり得ない、 一人前の社会生活を送れない人間のことです。 そこまで心配していました。

 

しかし、 その龍馬が立派な人間になります。 彼は日本人の一典型です。 三十二年の生涯で多くのすぐれた人物に出会いますが、 みな一見して龍馬の素晴しい人格、 人間性にれ込み、 強い敬愛の情を抱きました。 よくよくのことです。 龍馬はどうしてかくも立派な人間になれたのでしょう。 私が思いますのに、 龍馬はいじめられ、 悔しく泣いた経験の持ち主です。 小さいときに挫折、 失敗を経験しております。 この体験が龍馬の人間を作ったと思います。 弱虫で劣等生であったがゆえに、 人の痛みや苦しみや悲しみのわかる、 相手のことを深く思いやることのできる謙虚な人間になることができたのです。

 

また龍馬は非常に愛情の深い家庭に育っております。 龍馬の家庭はみんな温かい人です。 十二歳のときにお母さんが亡くなりましたが、 次のお母さんが来ます。 このお母さんもいい人だったそうです。 しかし、 誰よりも龍馬のことを一心に愛情をもって育て上げたのは、 三つ年上の乙女おとめ姉さんです。 「あなたはやればできる力があるんだ」。 乙女は龍馬をこう励ましながら、 剣道から水泳から、 何から何まで全部教えてやった。 龍馬と乙女は強い絆で結ばれ龍馬はこの姉を敬慕してやみませんでした。 そのうち十四歳から始めた剣道がどうやらものになり始めた。 他は何の取り柄もなさそうに見えた龍馬が、 剣道だけは素質がありました。 それから四、五年、 高知の町道場で励んだ結果、 誰も相手になる人間がいないぐらいに上達するのです。

 

 「ペリー来航」を機に志を立てる

 

お父さんは 「龍馬はどうやら廃れ者にならずに済みそうだ」 とすっかり喜び、 龍馬の家は裕福でしたから、 「では、 江戸に出そう。 高知にいてもこれ以上は腕が上がらん」 ということで、 龍馬は江戸に出て、 北辰ほくしん一刀流の創始者である千葉周作の弟、 千葉定吉さだきちに入門します。 これが十九歳のときです。 約一年ちょっとおりました。 定吉先生にものすごくかわいがられました。 人間がよかったからです。 頭の方はともかく、 人間がすばらしい。 剣道の腕も非常に見所がある。 ぐんぐん腕を上げまして、 一回、 高知に戻ります。 そして、 二十二歳のとき、 再び江戸に出て、 さらに二年間修行を積み、 北辰一刀流の免許皆伝をもらう。 長男坊の跡継ぎが千葉重太郎じゅうたろうで、 これとも親友になった。 娘が千葉佐那子さなこでこれが免許皆伝の腕前です。 この佐那子から好かれまして、 佐那子は生涯、 「私は龍馬の許婚いいなずけでした」 と言っていました。

千葉定吉は龍馬を佐那子の婿にしようとしていた。 そして千葉道場の塾頭にまでなった。 塾頭というのは腕が立つだけではだめです。 腕のみならず門弟の中で人間が最も立派なのを塾頭にした。 龍馬はその塾頭に選ばれたわけです。 このようにして、 龍馬はその才能を徐々に開花させて行くわけですが、 龍馬がこの日本の国のために立ち上がろうという志を持つに至ったのは、 十九歳で江戸にいたときに起こった大事件、 ペリーの来航によります。 ペリーの来航に、 龍馬をはじめ日本の心ある侍は目覚めました。 このままでは日本は欧米列強の植民地、 属国になるという深い危機感です。

 

今はペリーのことを 「開国の恩人」 と思っているのんきな人がおりますが、 とんでもない。 ペリーは強大な軍事力を以て威嚇しアメリカの要求を日本に突きつけました。 もし開国要求を拒絶したときに、 ペリーはどうしようとしていたか。 ここに持ってきましたのは 『ペルリ提督日本遠征記』 (岩波文庫全四巻)です。 彼が日本を開国させてアメリカに戻ってから自慢たらたら、 「おれはこうやつて日本を屈服せしめたのだ」 と言って出した本です。 その中でこう言っております。 「もしも日本政府が協定を拒絶すれば、日本帝国の属国たる大琉球島をアメリカ国旗の管理のもとに置こうと用意していた」 。日本が開国しなかったら、 沖縄を奪い取るつもりでいたのです。 ペリーは日本に対して真に友好、 親善を求め、 礼節をもってのぞんだのではないことを知らねばなりません。

 

このペリーの砲艦外交に、 当時の徳川幕府は何ら毅然たる反応を示すことなく屈します。 独立国にあるまじき土下座外交でした。 この時、 武士としての誇りある人はみんな涙を流して悔しがりました。

それ以来、 龍馬は剣術だけではなく学問にも真剣に打ち込みます。 一心不乱に勉強する。  佐久間象山しょうざんに入門して西洋砲術の稽古も始めました。 そして高知に帰って仲間と切磋琢磨し、 二十七歳のときに武市たけち半平太はんぺいたを首領とする土佐勤王党とさきんのうとうが結成されます。 目的は尊皇攘夷そんのうじょういです。 武市半平太という人は、 長州でいうと吉田松陰に当たるような立派な人です。 龍馬の親友でした。 龍馬はこの土佐勤王党に加盟します。 土佐勤王党の仲間は、 みな下士かし、 郷士ごうし、 昔からいた長曽我部ちょうそかべ系の武士たちです。

 


坂本龍馬 困難に立ち向った志士の気概 (2)

 

 脱藩

 

 ところが、 土佐藩を支配する山内やまのうち家は、 関ヶ原の戦いで徳川に味方して、 掛川かけがわ六万石から土佐二十四万石の大大名 (幕末期は五十万石) になったものですから、 幕府に恩義を感じ外様とざま大名なのに心は譜代ふだいでした。 ですから、 土佐勤王党の運動をおさえつけました。

それで土佐にいたのではどうしようもないというので、 命懸けの脱藩をする人が出てきます。 土佐勤王党の四天王してんのうと言われたのが、 武市半平太、 坂本龍馬、 吉村虎太郎、 中岡慎太郎です。 この四天王のうちの三名が脱藩します。 武市は 「あくまでも藩全体を尊皇攘夷の藩に変えるのだ」 ということで居残りますが、 最後に山内やまのうち容堂ようどうから切腹を命ぜられます。 龍馬たちはさっさと見切りをつけて、 文久ぶんきゅう二、三年(一八六二〜三)に脱藩しました。

 

脱藩というと物語の中では格好よく見えますが、 当時の侍にとっては大変なことでした。 当時、 武士は藩から自分勝手に去ったら生きることができない。 そもそも藩を離脱するなどということは考えられません。 たとえていうと、 この地球から抜け出るようなものです。 それほどの覚悟が要ります。 しかも、 捕まつたら悪くすると死刑です。 家族もどんなとがめを受けるかしれない。 当然、 坂本家の当主である龍馬のお兄さん (父はすでに死去) は猛反対しました。 お兄さんや家族から見れば龍馬のやることは狂気の沙汰さた以外の何物でもない。 しかし、 龍馬は土佐を抜け出します。 いかに彼の国を思う志が高かったか。 龍馬は土佐の上士じょうしから見るならば虫けらの如き扱いを受ける吹けば飛ぶような存在にすぎませんが、 自分が今立ち上がらなければ、 この日本の国は本当に滅亡してしまうという切実な危機感を持って脱藩するのです。 まず私たちが志士たちから学ばなければならないのは、 この志ではないかと思います。

 

 勝海舟に弟子入り

 

当時、 脱藩した志士たちの多くは長州へ走りました。 尊皇攘夷運動の総本山が長州でした。 ところが龍馬はどこへ行ったのかというと、 勝海舟の弟子になります。 この頃、 尊皇攘夷運動は頂点に達し、 それは倒幕運動へと進展しますが、 その打倒すべき幕府の高級役人に弟子入りしたのです。 だから、 尊皇攘夷派の志士たちからは最初は理解されませんでした。 「あいつは一体何を考えているのだ」 と。 その頃の龍馬の気持ちがよく分かるのが、次の歌です。

 

 世の人はわれをなにともいはばいへわが為すことはわれのみぞ知る

 

 それにしても、 なぜ龍馬は勝海舟のところへ弟子入りしたのでしょうか。 『竜馬がゆく』 では、 勝海舟のところに千葉重太郎と一緒に行ったことになっています。 「もし勝がおかしなことを言うなら一刀両断にしてくれる」 というつもりで行ったけれども、 「お前さんたち、 おれを斬りに来たのか。 斬る前におれの話を聞け。 話を聞いて不都合があったら斬れ」 と勝が言って、 龍馬が目を開かされるというあの話です。

 

 しかし、 龍馬は勝を斬るつもりで行ったのではありません。 龍馬は勝という人物、 また海軍というものに深い関心があったのです。 この時、海舟は次のようなことを語りました。

日本はこのままいけば、 間違いなくインド、 しんの二の舞になる。 欧米列強の植民地、 属国になる。 そうしないためにはどうしたらいいのか。 挙国一致の統一的日本を作らなくてはいけない。 日本人同士がお互いに争い合っているようでは、 それこそ彼らの思う壺だ。 そうならないためには統一的日本を作って、 外国に狙われない国防力を持たなければいけない。 そのためには海軍を早急に強くし、この海軍をもって日本を狙う欧米を打ち払う。 お前さん方の言う攘夷のために海軍が必要なのだ、と。

勝は徳川幕府の海軍をつくり上げた第一人者で、 当時軍艦奉行なみでした。

 

それは龍馬の目指すところでした。 海舟の言葉をきいて即座に 「先生、私を弟子に加えてください」 とその場で弟子入りしました。 こうして勝と坂本龍馬の師弟関係が始まります。 幕末における最も見事な師弟関係の一つです。

勝も一見して坂本龍馬の人物に惚れ込みます。 数ある弟子の中でも龍馬を最も認めて、 その後、 神戸海軍操練所の塾頭にします。 勝が遺した日記を見ますと、 龍馬のことを 「龍馬」 と敬称をつけて書いています。 ほかの人物についてはそのような敬称はつけておりません。 いかに勝が龍馬を傑出した人物と認め敬愛したかが分かります。

 

龍馬はそのころの自分の気持ちを、 乙女姉さんに宛てた手紙に書いています。

 

さてもさても、 人間の一生はがてん (合点) の行かぬは元よりの事、 うん (運) のわるいものは風呂より出でんとしてきんたまをつめわりて死ぬるものあり。 それとくらべて私などは運がつよく、 なにほど死ぬる場へ出ても死なれず、 自分で死のうと思うても、 又生きねばならん事になり、 今にては日本第一の人物勝麟太郎りんたろうという人の弟子になり日々兼ねて思いつくる所を精と致しそうろう

それゆえ私四十歳になるころまでは家に帰らんように致すつもりにて兄さんにも相談致し候ところ、 この頃は大きに御機嫌よろしくなり、 そのお許しが出で申し候。国のため天下のため力を尽し居り申し候。 どうぞおんよろこび願い上げ候。

かしく

  

寝ても覚めても自分のことを心配しているであろうお姉さんに、 脱藩してから初めて出した手紙です。 ここに書いてある通り、 死ぬような目にも遭ったのでしょう。 「しかし、自分は今生きて、 日本第一の人物、勝海舟先生のもとで海軍の稽古をしております。 どうか喜んでください。 安心してください」 という有名な手紙です。

 


坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概(3)

 

 「違勅調印」の不平等契約

 

 このように龍馬は他の尊皇攘夷派の志士たちとは違った道を歩みますが、 それでは尊皇攘夷の志士としての精神は忘れていたのでしょうか。

 『竜馬がゆく』 を読みますと、 坂本龍馬は尊皇も攘夷も関係がなかったような錯覚に陥ります。 龍馬は開明的で、 なにか今日流の民主主義者、 平和主義者のように描かれており、 攘夷派とは反対の立場にいたような印象を受けてしまいます。 戦後民主主義に迎合しているのです。 それはとんでもない間違いです。 龍馬は尊皇攘夷の精神をしっかりと持ち続けていました。 こんにち攘夷といえば未開野蛮、 頑迷固陋がんめいころうの排外的行為と思っている人が多いのですが、 しかしこれもとんでもない勘違いです。 攘夷とは、 日本を侵略、 支配せんとする欧米に対する民族の自立、 独立の精神です。 民族の健全な防衛本能です。 日本はこの攘夷の精神を持ち、 敢然と実行した。 だから、 非西洋中唯一、 欧米列強の植民地にならずに済んだのです。

 

 特に尊皇攘夷運動に真剣に取り組んだのは、 長州藩と薩摩藩でした。 薩摩は薩英戦争を、 長州は馬関ばかん戦争 (馬関とは下関のこと) を断行します。 これには深い理由がありますが、 簡潔に言います。

 最大の問題は、 幕府が諸外国と結んだ不平等条約 (通商条約) です。 まず関税自主権が日本にありません。 独立国家は外国から入ってくる物品に対して関税を自由に設定できます。 ところが、 日本の関税は一五パーセント。 それ以上課すことを認めないとされました。 もう一つは、 治外法権ちがいほうけん(領事裁判権)を認めさせられたことです。 外国人が日本で悪事を働けば、 日本の法律で日本の裁判所で裁く。 これが当然です。 ところがアメリカは、 日本のような未開野蛮の国がアメリカ人を裁くことは認めないとして、 アメリカの領事がアメリカの法律で裁くとした。 幕府はこの二つの致命的な欠陥のある不平等条約を、 威圧に屈して調印してしまいました。 この不平等条約をようやく改正できたのは明治四十四年、 小村寿太郎外務大臣の時で、 それまで日本は半世紀以上もこの不平等条約に苦しめられます。 

 徳川幕府は条約を結ぶ時、 自分たちのご都合主義で反対派を抑えつけるために、 孝明こうめい天皇に条約調印を許可していただくようお伺いを立てました。 しかし、 孝明天皇は反対されました。 このような条約を結んだら日本の国体こくたいに致命的な傷が入り、 いずれ日本は亡国の憂き目を見ると考えられました。 その判断洞察は実に正しかったのです。 ところが、 大老井伊いい直弼なおすけはハリスの脅しに屈服し、 天皇の詔勅しょうちょくに違反して条約を結びます。 これを 「違勅いちょく調印」 と言います。 

 当然、尊皇攘夷派はその条約は無効であるとして幕府を責め立てました。 それに対して幕府は反論できず、 条約を廃棄することを約束します。 さらに、 幕府は文久三年五月十日を期して攘夷戦争を断行することを決定します。 これを 「破約はやく攘夷」と言います。  この幕府の決定に従って、 長州藩は下関沖を通る外国の軍艦や商船に対して砲撃、 戦争を開始しました。 つまり、 長州藩の行った攘夷戦争は幕府の決定に従った大義名分たいぎめいぶんのある行為であり、 勝手にやったわけでも何でもありません。

 

 語られない龍馬の「攘夷の精神」

 

 龍馬はこの長州の断行した攘夷戦争に深く共感、 同情したのです。 このことをほとんどの人が知らないのです。

 

  方今ほうこん(現在)、 天下の形勢を察するに、 長防ちょうぼう二州(長州藩)の地につい異国いこくの有に帰すべきか。一旦いったん、 異国の有に帰する時は、 再びこれを挽回ばんかいするは難しかるべし。 されば今日は有志者の傍観して止むべき時にあらず。 宜しく談判を遂げ、 外人をして内地を退去せしめ、 もっぱらら国内を整理すべきなり。

 

 このままでは長州は欧米列強に奪い取られてしまう、 長州を見殺しにするな。 欧米諸国と談判して不平等な通商条約を破棄し、 日本にいる外国人を全部自国に帰せ、 と龍馬は言っているのです。 これこそまさに尊皇攘夷派の主張そのものです。 そして「長州藩は無謀な事をやったのだ。 自業自得だ」と言う知人との討論で、龍馬はこう反論しています。

 

 さる条理もあるべけれども、 長(長州)は国の為死を決せしなり。 その気節きせつ (気概と節操せっそう、 日本人としての深い自覚と烈々たる気魄きはく、 勇気) 称賛すべし。 ゆえに援けざるべからず。 かつ空しく傍観してあらんには、 彼の二州 (長州藩) の地を外人の有に帰せしむるのみならず……国難はさらに数層加うるに至るべし。 とにかく今日は幕吏ばくり (徳川幕の役人) を処置し、 また外人へ退去の談判を開くべきなり。

 談判に服せずして別に為す所あらんとするに迫りなば (欧米が通商条約の破棄に応ぜず日本に戦争をしかけてくるならば) 、 全国一致の力をもって防戦すべし。

 

 ここで重ねて龍馬は言っています。 このままいけば、 長州は欧米に奪われてしまう。 国難はさらに一層深まる。 だから何としても直ちにこの通商条約を破棄しなければいけない。 そして、日本一国あげて、 欧米と戦えと言っているのです。 これは長州の主張とどこが違いますか。 吉田松陰なき後、 久坂くさか玄瑞げんずい、 高杉たかすぎ晋作しんさくがこの長州の尊皇攘夷運動を引っ張ってゆきますが、久坂や高杉の主張とどこが違うのか。 全く同じです。 そんな龍馬だから、四境しきょう 戦争(第二次長州征伐)の時、軍艦一隻をひっさげて高杉の応援に駆けつけています。 では、龍馬はいつまでも欧米とつきあうなと言っているのか。 それは違います。 欧米の侵略から日本を守る為にはどうしても欧米のすぐれた科学技術、軍事力を導入しなければなりません。 「敵」 のもつ武器 (大砲、 軍艦) を身につける為には欧米とのつきあい、 貿易は不可欠です。 しかし、 それはあくまでも自主的に対等の関係でなければならないということです。

 

 以上はすべて 『坂本龍馬全集』 にありますが、 このような文章にふれることは、 これまで恐らくなかったかと思います。 戦後、 龍馬の伝記、 物語は 『竜馬がゆく』  をはじめ何十冊も出ています。 しかし、 これを引用している本は、 ほとんどありません。 尊皇攘夷の志士としての龍馬を決して書こうとしない。 だから全国の数多くの龍馬の心酔者たちも、 龍馬が攘夷の精神の持ち主とは知りません。 知らないどころか 「龍馬は頑迷固陋の攘夷派とは違う」 などと思い込んでいる。 しかし、 それでどうして真実の龍馬が分かるのか。 分かるわけがないでしょう。 さらに、 龍馬はこう言っています。

 

 誠になげくべき事は長門ながとの国にいくさ初まり、 五月より六度のいくさに (長州藩は六回欧米と戦った)日本はなはだ利すくなく、 あきれはてたる事は、 その長州で戦いたる船 (欧米の軍艦) を江戸で修復いたし、 また長州で戦い申しそうろう。 これ皆姦吏かんり (徳川幕府) の夷人いじん (欧米列強) と内通ないつういたし候ものにて候。 朝廷より先ず神州しんしゅう (日本) を保つの大本たいほんをたて、 それより江戸の同志と心を合はせ、 右申すところの姦吏を一事いちじいくさいたし打殺し、 日本を今一度洗濯いたし申しそうろうことにいたすべくとの神願しんがんにて候。

 

長州が外国にやられたのを、幕府はザマを見ろと内心手をたたいて喜んでいたわけです。 それに対して龍馬は心から憤慨しました。 こんな幕府は一日も早く倒さなくてはいけないと思いました。

龍馬だけではありません。 例えば、 吉田松陰は危機感が最も深かった人ですが、 「徳川存するうち神州陸沈のほかなし」 とまで言っています。 徳川幕府が存在する限り、 神州、 日本は沈没する、 滅亡するしかない。 ペリーに屈し、 ハリスに屈し、 不平等条約を呑まされ、 このままいくならば日本は滅亡するしかないという危機感です。

その切実な危機感を志士たちは全部共有している。 だから、 龍馬は 「直ちに徳川幕府を打ち倒して、 京都の天皇を中心としてこの日本を立て直すのだ。 日本を今ひとたび洗濯して甦らせるのだ。 それが私の神願だ」と言っているのです。

 

 「日本を今一度洗濯いたし申し候」 という言葉は最近はよく聞くようになりましたが、 今の日本の指導者に最も足りないものはこの願いです。 志士たちのように天皇を仰いで日本を国難から救い、 何としても立て直すという命懸けの願い、 神願を持った指導者が残念ながら今の日本には少ない。そこにこんにちの日本の深刻な低迷状況がある。私はそう思います。

 


坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概()

 

 尊皇の志士・坂本龍馬

 

 龍馬の攘夷の精神について述べました。 さらに、 龍馬の尊皇の精神についてお話します。 龍馬は尊皇と無縁の人間であったのか。 とんでもないです。 龍馬は心の底からの尊皇、 勤皇の士です。

 

 この数ならぬ我々なりと 、 何とぞして今上きんじょう様 (孝明天皇)の御心みこころを安めたてまつらんとの事、 御案内の通り朝廷というものは国 (土佐藩) よりも父母よりも大事にせんならんというはきまりものなり。

 

池 内蔵太くらたという同志のお母さん宛の手紙です。 天皇、 朝廷あっての日本だ。 だから、 天皇、 朝廷は自分の親よりも大事だ。 また当時武士にとって藩というのは自分のすむ世界のすべてです。 その藩よりももっと大事なのが朝廷だ、 天皇陛下だ、 皇室だと言っているのです。

 

 新葉集しんようしゅうとて南朝なんちょう――楠木正成公くすのきまさしげこうなどの頃、 吉野にて出来し歌の本なり――にて出来し本あり。 これがほしくて京都にて色々求めそうらえども、 一向に手に入らずそうろうあいだ、 かの吉村よりお借り求めなされ、 おまえのだんなさんにおん写させ、 おん願いなされ、 何卒なにとぞ急におこし下さるべく候。

 

 ここに 『新葉和歌集』 (岩波文庫) を持って参りました。 後醜醐ごだいご天皇をはじめ南朝の天皇と南朝に忠誠を尽くした人たちの歌を千何百首も集めたもので、 維新の志士たちの座右の書の一つでした。 龍馬はこの 『新葉集』 が欲しくて欲しくてたまらなくて、 京都じゅう探し回った。 しかし、 入手できない。 高知の吉村という家にあることを思い出し、 龍馬の家で長年奉公していたお手伝いさんに、 吉村の家にある 『新葉集』 を 「おまえのだんなさん」 に写してもらつて、 私に送ってくれと言うのです。 それほどこの歌集を求めたのです。 その新『葉集』を代表する歌が、 後醍醐 天皇の皇子みこで編者の宗良むねなが親王しんのうの歌です。

 

君のため世のためなにか惜しからんすててかひある命なりせば

 

 天皇のため、 この日本の国のため、 自分の命を捧げることこそ、 自分の本望、 本懐であるという尊皇の心を詠んだ名歌、 万代ばんだいに伝うべき絶唱です。 この歌こそ龍馬ら志士たちの心の奥底にある思いです。 こうした歌を拝誦はいしょうして龍馬は尊皇愛国の心をみがいたのです。 ですから龍馬が大好きな人は、 龍馬のこの深い尊皇の心を理解していただきたいのです。 この歌を聴いて、 しみじみ共感できる人は本当の日本人の心の持ち主ですね。

 

 いったい龍馬はこの尊皇の心をどこで学んだのでしょうか。 実は坂本家は代々和歌、 国学、 神道を学ぶ伝統がずっと続いてきた家です。 お父さんは万葉学者で有名な高知の鹿持かもち雅澄まさずみの弟子です。 龍馬は当時の武士の必須とされた儒教、 漢学の勉強は他の人よりおくれましたので、 「龍馬は学問がない」 といわれましたが、 和歌、 国学、 神道の方は他の人よりずっと深かったのです。 坂本家ではみな和歌を詠みました。 龍馬も歌作りに励み、 同好者とよく歌会も開きました。 この坂本家の和歌、 国学を学ぶ家風、 伝統が坂本龍馬の傑出した人格、 人品をつくり上げる元でした。

 

 月と日のむかしをしのぶ湊川みなとがわ流れて清き菊の下水したみず

 

 これは龍馬が神戸の湊川にある 「鳴呼ああ忠臣ちゅうしん楠子なんしはか」 を訪れて作った歌です。 明治維新の志士たちはすべて楠木正成を最高の日本人と高く仰ぎ、 手本としました。 龍馬もまたそうでした。 有名な龍馬の立ち姿の写真があるでしょう。 革靴を履いて、 短刀だけ差している例の写真。 あの短刀のつかもんはどういう紋だと思いますか。 菊水きくすいの紋です。 上半分が菊、 そして下に水が流れている。 この菊水の紋を楠木正成は後醍醐天皇から賜ったわけですが、 それを龍馬は短刀の柄につけて、 自分も楠木正成たらんとしました。 龍馬のみならず多くの志士が 「鳴呼忠臣楠子之墓」 を訪れ、 歌や詩を詠みました。 そもそも 「志士」 とは尊皇攘夷の精神を持った人のことを言います。 龍馬がこのような篤い尊皇心の持ち主であることは、 『竜馬がゆく』 をはじめ従来の龍馬伝ではほとんど触れていません。 しかし、 この精神が分からなかったら、 本当の坂本龍馬も明治維新も、 絶対に理解することはできません。

 


坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概()

 

志士が立ち上った原動力

 

 なぜなら、 この尊皇心、 天皇を深く思う心、 これこそ維新を成就せしめた根本だからです。 龍馬だけではありません。 ご存じの方は少ないと思いますが、 真木まき保臣やすおみという立派な志士がいます。 「今楠公いまなんこう」 とまで言われた久留米の神職で、 禁門きんもんの変で久坂くさか玄瑞げんずいらとともに亡くなりました。 真本は十項目を挙げて日本と欧米を比較し、 もし戦 った場合、 日本は到底彼らにかなわないと言っています。 まず将帥しょうすい。 将帥を比べたら向こうの方がよほど優れている。 兵隊も同じ。 彼らはいつも戦争して鍛えられているからです。 大砲も軍艦も向こうが上。 戦法もそう。 人材育成、 登用も彼らが上。 国家指導者も幕府の老中よりも彼らが断然優れている。 政治のやり方も同様。 それから、 宗教も彼らはキリスト教で国内を統一している。 日本は仏教があるけれども、 さっぱり役に立っていない。 十項目ずらっと挙げて、 冷静に比較検討して、 日本は勝算が一つもないと言うのです。 これではまさに日本は滅亡するしかないという深い危機感を表明します。 しかし、 たった一つだけ彼らにはない優れたもの、 十の不利を補って欧米に打ち勝つことができるものがあると真木は言います。

 

 その一つと申すもの何ぞと申すに、 恐れながら至尊しそん (孝明天皇) の聡明、 叡智えいち、 英烈えいれつ (きわめてすぐれていること)、 勇武ゆうぶらせられそうろう御事おんこと御座ござそうろう。 方今ほうこん (現在)、 気脈きみゃく衰弱、 世運せうん陵夷りょうい (もう日本の国はがたがたになり、 国民の精神も衰弱している)、 人心罷弊ひへい (疲れ弱ること) の中に至り候て、 かくのごとき明天子めいてんし (すぐれた天皇) 世に出現あそばせられそうろうこと、 いかがのわけ御座ござあるべくや。 天照あまてらす大神、 神武じんむ天皇はもちろん天地神明しんめい、 いまだ神州を捨て給わずいま一度いにしえの隆盛りゅうせいに返さんとの御事おんこと御座ござあるべく、 誠に有り難き御事に御座候。

 

 この思いです。 日本の救いはただ一つ、 皇室の御存在であると。 当時の志士は、 孝明天皇の国家国民を深く思われる御心を知っていました。 国家が衰退し人心が弱まった今、 かくも優れた天皇がいらっしゃることは誠に有難きことである。 そもそも日本は万世ばんせい一系いっけいの天皇をいただく誇るべき立派な国である。 この立派な国体を有する日本が、 不正非道の威嚇をもって日本を屈服せしめようとする欧米に唯々いい諾々だくだくと従ってよいのかと。 志士たちはこの日本の国体に対る絶対的な確信があればこそ欧米列強に抵抗する力、 立ち上がる力が出てきたのです。 では、 龍馬たち志士が 「今上様の御心を安めたてまつらん」 とした孝明天皇とは、 どのようなお方だったのでしょうか。

 

 あさふゆにたみやすかれと思ふのこころにかかる異国ことくにの船

 

 御歴代の天皇は 「国安かれ、 民安かれ」 の祭祀さいしをなさっています。 国家の安泰と国民の幸せ、 安寧を三百六十五日、 一日も欠かすことなく祈り続けられているのです。 この皇祖、 神々に対する祭祀こそ天皇、 皇室の最も大切なおつとめ、 責務であります。 この御製 ぎょせい(天皇の詠まれるお歌) は、 そうやって祈り続けられている孝明天皇が、日本に差し迫った外国の脅威を深く憂慮されているお歌です。

 

  ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民くにたみ

 

 これは、 孝明天皇が未曾有みぞううの国難を憂えられ、 自分の命を投げ出しても、 国民を救いたい、 助けたい、 と願っていらつしやる御製です。

 

 ほことりて守れ宮人みやびと九重ここのえのみはしのさくら風そよぐなり

 

「宮人」とは天皇に仕える人、 つまり日本国民のことで、 「九重」 とは皇居のことを指します。 心ある日本人よ、 風前の灯のような日本を守るため立ち上がって下さいという御製です。 孝明天皇は誰よりも日本の国の危機を憂えられている。 無私の心をもって国安かれ、 民安かれの祈りをなされている。 その孝明天皇の御心が日伝えで伝わっていく。 それを聞いて、 志士たちは感泣、 感奮して、 次々に立ち上がって行ったのです。 その結果が明治維新で 、 まさに奇蹟きせきの歴史です。 国力、 経済力、 軍事力、 科学技術、 どれをとってみても比較の段ではなく、 絶対に彼らに勝てない。 有色人種はみな欧米の植民地、 属国にされるのが世界史の必然的流れとされた時代です。 そうならなかった唯一の理由は、 この皇室の御存在であり、 この皇室を仰ぐ志士たちの熱い思いでした。

 

 龍馬と西郷

 

 さてその後、 龍馬はどうなるかというと、 勝海舟のつくった神戸の海軍操練そうれん所が閉鎖になってしまい、 龍馬たちは行くところがなくなって、海舟の口利くちききで薩摩藩に頼ることになります。 そこで長崎に行き、 亀山社中しゃちゅうが作られる。後にそれが海 援隊になるということで、薩摩と行動をともにするようになります。

 神戸の海軍操練所が閉鎖になるちょっと前、 勝海舟は親愛する龍馬を何とか世に出してやりたいと思い、 今、 薩長側の最大人物は西郷隆盛だから、 その西郷に会わ せてやろうというので、 龍馬は西郷に会いに行きました。 帰ってきて 「どうだった」 とたずねたら、 よく知られる言葉を言いました。 「西郷は釣り鐘のやうな男で、 小さくたたけば小さく響き、 大きくたたけば大きく響く。 もし馬鹿なら大きな馬鹿で、 利口りこうなら大きな利口です」 と答えたら、 「そう評される西郷も人物、 評する坂本もまた人物、 西郷も坂本も大した人間だ」 と勝海舟が褒めたという有名な話です。 ここより西郷との深い人間関係が生まれ、 西郷も龍馬の人物を深く認めます。

 

 龍馬がそのころ真剣に考えたのは、 幕府を倒すためにいま何が一番必要かということでした。 朝廷を仰いで日本を立て直すために何より大事なことは、 尊皇倒幕運動の双璧そうへきである薩摩と長州を結びつけなければいけない。 同盟させなければならないということです。 薩摩と長州はいろいろな理由で喧嘩をし憎しみ合っていました。 そうしている限りは明治維新は絶対成就しない。 尊皇攘夷の精神を持つ最有力のこの両藩を結合させなければならないということを強く思うようになります。 そこで、 薩摩に行き、 西郷といろいろ話し合ってますますその気持ちを強くしました。 また誰より西郷自身が薩長同盟の必要を痛感しておりました。 西郷は龍馬を親愛し、 龍馬もまた西郷を敬愛しました。 師匠の勝を別として龍馬が最も尊敬した人物は西郷です。 

 

 これは鹿児島での逸話です。 西郷の家に泊めてもらいました。 そのとき龍馬は下着がなくて、 西郷の奥さんに 「西郷さんの一番古いふんどしを下さい」 と頼みました。 そうしますと奥さんは言われた通り、 西郷の古ふんどし、 もちろん洗濯したのをあげました。 帰ってきて 「龍馬さんがそう言いますから、 お古をさしあげました」  と言ったら 、 西郷はあのでかい目玉をさらに大きくして 「お国のために命を捨てようという人だと知らないのか。 早速新しいのにかえてあげろ」 と。 結婚してあんなに叱られたのは初めてだと、 奥さんが後年回想しています。 お互いに信じ合う肝胆かんたん相照あいてらす龍馬に対して奥さんが失礼なことをしたものですから、 西郷がこうして怒 った。 そういう人間関係の中で、 龍馬は薩長同盟の仕事に全力を挙げます。

 


坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概()

 

 薩長同盟

 

文久三年(一八六三)の八・一八政変で、 公武合体派の会津藩と薩摩藩が提携して長州藩を追い落としたのですから、 長州は薩摩を深く恨みました。 その翌年の元治げんぢ元年、 禁門の変で薩摩と長州は戦って敗れたものですから、 長州としては薩摩は許しがたい仇敵きゅうてきです。

 双方とも薩摩と長州が協力し合わない限り、 幕府は倒れないというのは、 理屈ではわかっていますが、 そう簡単には感情が許さなかったのです。 いずれは同盟が結 ばれたでしょう。 しかし、 慶応二年一月二十二日のあの早い時点で同盟が結ばれたのは、こ とに坂本龍馬の働きが大きかったのです。 この薩長同盟の仕事をしたのは龍馬だけではありません。 盟友の中岡慎太郎も脱藩して長州へ走り、 久坂や高杉や木戸きど孝允たかよしと付き合っているうちに、 長州と薩摩を結びつけなければいけないと痛感して、 彼も彼なりに考え尽力します。 それから、 福岡藩の志士も同様のことを考えました。 ですから、 薩長同盟は坂本龍馬一人でやったのではない。 しかし、 仲介役 として龍馬が一番大きな働きをしたことは否定できません。

 

 とにかく 、 そこに辿たどり着くまでいろいろ行き違いがありました。 下関で西郷に待 ちぼうけを食わされて、 木戸がかんかんに怒ったこともありました。 木戸は薩摩を恨んでいるから 「またおれたちをだました」 となるわけです。 「まあ、 まあ」 と龍馬と中岡がなだめて、 「ここは私たちが何とかするから、 木戸さん、 そう怒らないでくれ」。 木戸は 「そんなに言うなら、 薩摩の名義で西洋式の小銃と蒸気船を購入してくれないか」。 長州ではどうしても武器が必要で買いたいのはやまやまだけれども、 長州藩は第一次長州征伐でひどい目に遭い、 その後、 第二次長州征伐を受け ようとする直前、 いわば天下のおたずねものなので、 自由に長崎で買い物ができなかった。 それで、 木戸は龍馬に頼んだ。 「まかせてくれ」。 そこで、 西郷に 「木戸が こう言っています」 と頼みます。 承諾した西郷は 「京都に薩摩の兵を入れるため、 兵糧米が欲しい。 長州から兵糧米を買いたい。 これを木戸に話してくれるか」。 そこで 、 長州から薩摩に兵糧米を売る。 そういうふうにだんだん歩み寄りをして、 ついに慶応二年一月二十二日、 坂本龍馬が仲介役となり、 西郷と長州藩代表の木戸が談判して、 六ヶ条の薩長同盟が成立しました。

 

 この薩長同盟が、 結局、王政復古を導き、 明治維新を成就させる礎となります。 ここに坂本龍馬の果した役割があります。 龍馬という適当な仲介者がいなかったら話が進まないわけです。 当事者同士ではどうしてもいろいろな感情がからみますから、 薩長両方から信頼されるに足る仲介者が必要で、 龍馬は最も適当な人だったのです。  の六ヶ条の盟約(口頭の約束で文書にしてなかった)について木戸は覚書を記し龍馬に証明を求めますが、 その内容に間違いないという裏書きを龍馬が朱墨でこう記しています。

 

 おもて御記おしるしなされそうろう六條 (薩長同盟の盟約) は、小 (小松帯刀たてわき、 薩摩藩の家老)、 西 (西郷隆盛) 両氏及び老兄 (木戸孝允たかよし)、 龍等も御同席にて談論せし所にて、 すこしも相違これなき候。 後来こうらいといへども決して変り候事これなきは、 神明しんめい (神) の知る所にござ候。

 

 これは明治維新史の超一級史料で、 宮内庁に保存 (維新後、 木戸が朝廷に献上) されております。 これは龍馬の存在、 役割の大きさを証明する何よりの証拠です。 もし龍馬がただの薩摩の使い走り、 あるいは手先のような存在に過ぎないとすれば、 木戸は盟約を証明する裏書きを求めるでしょうか。 求めないでしょう。 その意味で、 これは龍馬が木戸からも西郷からも深く信頼された、 天下の人物であったという何よりの証拠です。

 こういう龍馬ですから、 一般に 「維新の三傑」 といえば、 西郷隆盛、 大久保利通、 木戸孝允ですが、 同時代人は、 西郷隆盛、 高杉晋作、 坂本龍馬が 「明治維新の真の三傑」 だと見ていたほどです。

 

 「一生の晴にてこれあり候」

 

 むろん、 これほどの働きをすれば、 幕府側から狙われるのは当然です。 同盟を結んだ翌々日の二十四日、 龍馬は寺田屋に泊まっていました。 そこで、 徳川幕府の伏見奉行所の奉行以下百数十人に取り巻かれます。 妻のおりょうさんが風呂から駆け上が ったという例の場面です。 襲われて手傷を負いますが、 お龍さんが伏見の薩摩屋敷に走り救いを求めたので、 かろうじて助かりました。 龍馬は薩摩の京都屋敷で傷の手当てから何から大変な厚遇を受け 、 西郷からしばらくお龍さんと一緒に薩摩まで来て休養したらと勧められ、 霧島温泉などに行きます。 日本で最初の新婚旅行と言われています。 そしてその頃、 お兄さん宛てにこんな手紙を書いています。

 

 この時うれしきは、 西郷吉之助きちのすけ (隆盛)  薩州政府第一の人、 当時国中にては鬼神きしんと云はれる人なりは伏見の屋敷よりの早使はやづかいより大気遣おおきづかいにて、 自ら短銃を玉込たまごめし立ち出でんとせしを、 一同押し留めてとうとう京留守居るすい (役) 吉井よしい幸助こうすけ (輔)、 馬上にて士六拾人ばかり引き連れ迎いに参りたり。 この時、 伏見奉行よりも打取れなどののしりよしなれども、 大乱に及ぶべしとてそのまゝに相成り候よし。 実に盛んなる事にこれあり候。 私はこれより少々かたわにはなりたれども、 一生の晴にてこれあり候。

 

 自分は幕府から命を狙われ手が多少不自由になったけれども、 天下の人物西郷が自ら兵を率いて助けに行こうとしてくれた。 「あの寝小便たれの弱虫だった龍馬、 これまでお兄さんやお姉さんにさんざん心配かけてきた私も、 いまや薩長の指導者から下にも置かぬ扱いを受けるような人間になり、 国の為に精一杯尽しています。 これもみなお兄さん、 乙女姉さんたちのおかげです。 お兄さん、 喜んでください」  と言っているのです。 「一生の晴にてこれあり候」 とはそういう意味です。

 


坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概()

 

 大政奉還と龍馬

 

 さて、 薩長同盟ができた後、 龍馬が考えたことは、 その同盟に土佐を入れたいということでした。 当時、 ほとんど全ての人は幕府が倒れるなんて思ってもみませんでした。 尊皇倒幕を叫んでいるのは、 薩摩と長州だけです。 これでは力が足りないので、 龍馬は土佐を引き入れようとしました。 幕府べったりの土佐を何とかしようと、 龍馬は土佐藩家老の後藤象二郎しょうじろうを説得します。 土佐藩を倒幕陣営に引き入れるための暫定ざんてい措置として考えたのが大政奉還たいせいほうかん策です。 土佐藩から幕府に対して、 大政奉還を申し入れる。 それに対して、 幕府はもってのほかと拒絶するだろう。 それで土佐藩の幕府に対する義理は帳消しになる。 そうすれば土佐は倒幕陣営に転じるだろう、 というのが龍馬の考えでした。 ところが、 あにはからんや徳川慶喜よしのぶは大政奉還すべしとの土佐の提案を受け入れたのです。

 

 この時の慶喜は一体どういう考えだったのでしょうか。 それは薩長倒幕派より倒幕の名目を奪い、 奉還後の朝廷政府における諸侯会議の主導権を握り、 徳川家の支配的地位を実質的に確保しよう、 というものでした。 奉還後、 征夷大将軍は返上しても、 内大臣は辞さず、 四百万石を有する国内随一の大名でした。 実質的に天皇政府の最高実力者として君臨し続けようとしたのです。

そうした慶喜の策謀、 不純なる動機、 野心を薩摩長州の首脳部は見抜いていました。 そこで、 政権を朝廷に返すならば実を示すべきだとし、 慶喜に内大臣の辞任と徳川家の石高を半分朝廷に差し出すように迫ったのです。

そうした動きの中で、 鳥羽とば伏見ふしみの戦いを迎えます。 この時、 西郷が優れた決断力と指導力を発揮し、 新政府軍が勝利を収めます。 そのあと西郷と勝が談判し、 江戸無血開城となり、 明治維新の成就となります。 しかしながら、 その半年前の十一月十五日、 三十二歳の誕生日に、 龍馬は幕府見廻組みまわりぐみにより中岡慎太郎とともに暗殺されます。 日本の夜明けを見ることなしにあの世へ逝ってしまったわけです。

 

 龍馬の本心

 

 大政奉還策を推進した龍馬の本心はどこにあったのでしょうか。 従来の龍馬の伝記、 物語では、 龍馬は大政奉還にもとづく話し合いによる平和的政権交代論者で、 薩長の武力討幕路線の対立者であるとの見方がほとんどです。 しかし、 それは大間違いです。 龍馬はこう言っています。

 

 つらつら将来を推考すいこうするに、 開戦は到底避くべからず。 かつ今の大政奉還もあるいは一時の策略たるも期し難し (実際、 野心を秘めた慶喜の策謀であった) 。しかれども西郷、 木戸、 大久保の如きは計略に乗るものにあらず。 戦争の大小は確言し難きも必ず開戦となることは確言す。

 

 これが龍馬の本音、 本心です。 ですから龍馬は長崎で西洋式小銃千挺せんちょうを買い入れて、 汽船で高知まで運び、 土佐藩の重役に手紙を書きます。 いよいよ薩長両藩は挙兵して討幕に立ち上る。 この千挺の鉄砲を買い、 薩長に遅れず直ちに立ち上るべしという内容です。 土佐は龍馬の言に従いこの鉄砲を買い入れます。

これが龍馬の心底です。 明々白々です。 龍馬はいわゆる平和革命派ではなく、 薩長討幕派といつにしています。 源頼朝以来七百年近く続いた幕府政治がなくなり王政が復古するという歴史的大転換期において、 単なる話し合いや小手先の交渉では決して世の中は変りません。 ことに幕府の主流派は大政奉還そのものに反対し、 徳川幕府をもっと強化し永久に存続させようとしておりましたから、 平和的話し合いなど成り立ちようがありません。 当時は選挙による政権交代という便利な方法はありません。 どうしても最後はやむをえずして一戦を交えなければなりません。  要するに、 天皇を仰いで日本を再生するか、 旧来の幕府体制のままでいくかという最後の決は戦争にならざるを得ないというのが龍馬の考えであり覚悟でした。

ついでにいいますと、 龍馬の暗殺の背後に 「黒幕」 がいるという説がありますが、 ありえません。 黒幕説は、 龍馬が薩長倒幕派の反対派という前提に立っており、 それゆえ薩長の邪魔になった、 黒幕は薩摩であり西郷だというのです。 そもそも前提が誤っています。 黒幕説は成り立ちません。 龍馬と西郷の深い人間関係から見てもそれは絶対にありえません。

 

では、大政奉還策は無益、 無意味だったのでしょうか。 龍馬が推進した大政奉還は、 大局的にみて三つの大きな意義がありました。

一つは、 徳川慶喜の朝廷への絶対恭順きょうじゅん (慎んで命令に従うこと) を導いたこと。 もう一つは、 それが西郷隆盛と勝海舟の談判を成立させ、 江戸無血開城となり、 明治維新を成就せしめたこと。 さらにもう一つは、 官軍と旧幕府側の対立、 憎悪、 闘争を緩和し、 犠牲を少なくし、 最後に両者の和解、 融和を導いたことです。 諸外国の革命の歴史と比較すると、 明治維新はほとんど無血で成し遂げられました。

維新から三十年経った明治三十一年、 謹慎同様の生活をしていた徳川慶喜が皇居に参内さんだいし、 明治天皇から特別の謁見えっけんたまわって懇篤こんとくなお言葉を頂きます。 「慶喜が大政奉還し恭順を貫いたことが、 結局、 明治維新の成就となり、 新生日本の誕生をもたらした。 よくやつてくれた」 ということです。 皇后陛下からも 「御苦労さまでした」 と盃をいただき、 慶喜は涙ながらに感激しました。 これを陰で取り仕切ったのは勝海舟です。 新政府と旧幕府との対立、 闘争、 憎悪、 怨恨えんこんの歴史を最終的に水に流すためには、 こうした「和解融和の儀式」 がどうしても必要だという執念で、勝海舟は維新後も三十一年間生き抜きました。そしてこれを見届けて私の役目はこれで終ったとばかりに翌年、勝は七十七歳で亡くなりました。勝という人は実にとてつもない人物です。

 

 龍馬に学ぶもの

 

最後に私が言いたいのは、 龍馬と海舟、 龍馬と西郷、 西郷と海舟、 この偉大なる三者の互いの人間を認め合い、 信じ合った同志的信頼と連帯が、 世界史の奇蹟たる明治維新を成就させ、 近代日本の興起と躍進を導いたということです。 ここに坂本龍馬の日本歴史における不朽不滅の功績があります。 薩長同盟の仲介役となり、 そして大政奉還策の一手を打って日本の夜明けを見ることなしにあの世に旅立ったわけですが、 龍馬は実に重大な働きをしました。 龍馬こそ志士の一典型、 日本人の一典型であり、 明治維新の大功労者の一人です。

 

龍馬は決してとび抜けた秀才ではありませんでした。 まわりからは  「龍馬は学問がない」  と言われました。 しかし深い尊皇心と強い信念、 気魄、 胆力をもち何より人柄、 人格、 人品がすぐれていました。 天真、 純朴で飾りのない誠の人でした。 少年時、 劣等生、 挫折の体験をしていますから決して威張らず、 高ぶらず、 驕らず、 慎みと謙虚さをもって他の人を深く思いやる寛大な心の持ち主でした。 古来日本人が最も大切にした 「あかきよなおき誠の心」 の持ち主でした。 このような人柄が生涯出会った多くの人々から敬愛されたのです。 龍馬の人柄にみな本当の日本人らしさを感じたのです。

 

われわれは龍馬から何を学ぶべきか。

国家、 民族の危機、 国難を真に憂いて、 祖国を何としても救わんとしたその気高い志、 不屈の気概、 自己放棄の無私の姿勢、 深い熱情、 悲願、 神願に基づく行動実践、 これこそこんにちの私たちが学ばなければならないものではないかと思います。

 

 

土佐の弱虫が天下の志士となって日本を動かしたその感動的生涯を顧み、 我々は龍馬を始め、 偉大な先人を仰ぎ、 日本人の誇りと自信を取り戻して、 この祖国を立て直すために、 力を合わせて頑張ってまいりたいと思います。ご清聴感謝いたします。