これから4回にわたって、岡田幹彦先生の「親日はかくして生まれた 第二章 ポーランド孤児の救済」をご紹介します。
この著書を読む前に皆さんに持っていてほしい知識です。
私たちの意識下にある「ヨーロッパという進んだ国が集まっているエリア」においての、「ポーランド」という国の悲しい過去の歴史です。
10世紀後半に建国。14~16世紀、ポーランドはヨーロッパ有数の大国でしたが、18世紀、ロシア・プロシア・オーストリアという周辺大国によって分割され、1793年、ポーランド国家は消滅しました。
第一次世界大戦後の1918年、ロシア・ドイツ・オーストリア、三帝国の崩壊によりポーランドは独立を回復しましたが、1939年、共産国家ソ連とナチス・ドイツによって全土を二国に占領され再度の亡国となってしまいました。結果的にソ連に全土を占領され、第二次世界大戦後の1948年、ソ連の衛星国「ポーランド人民共和国」が誕生しました。
1980年に共産党の支配を受けない全国的な労働者活動「自主管理労働者組合 連帯(ワレサ議長)」が発足し、反共産主義活動が活発となり、1989年に非共産主義国「ポーランド共和国」が成立し、現在に至ります。
この歴史の中で、1918年にポーランドが独立を回復した折、過去、ロシアによってシベリアに送られていたポーランド人は祖国への帰還を目指しましたが、それができなかったのが孤児たちです。
その孤児たちを救済するために日本人が行った友愛の物語が「ポーランド孤児の救済」です。
これも大切な日本の歴史です。ぜひ、お読みください。
【おまけ】
実は昨年2024年が「ポーランド孤児来日100年」だったようで、その記念式典の産経新聞記事です。
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〇🔗ポーランド孤児救出100年、記念レリーフ除幕式に久子さまご臨席
〝1920~22年、シベリアで過酷な生活を強いられていたポーランドの孤児を、日本が救出して100年が経過したことを記念する式典とレリーフの除幕式が31日、東京都渋谷区の社会福祉法人「福田会」で行われた。”
〝18世紀後半、ロシアなどによって分割されたポーランド。第一次世界大戦後に独立を果たしたが、シベリアに送られ、飢餓や病に苦しむ孤児が多数いた。
ポーランドは各国に孤児の救出を要請。日本は官民が連携し、計765人を救出した。
このうち計375人を受け入れたのが、福田会が運営していた福田会育児院だった。健康を取り戻した孤児らはその後、無事、帰国した。”
ポーランド孤児の救済(1)
ヨーロッパ随ーの親日国
今日、世界の国々の大半の人々が親日感情を抱いていることは、多くの日本人の知るところとなった。それは有色人種の国家だけではなく、欧米白人国家においても変りはない。ヨーロツパ随一の親日国はポーランドである。ポーランド人がいかに日本人を親愛してやまないかにつき、『日本人になりたいヨーロッパ人』の著者片野優・須貝典子両氏はこうのべている。
「ヨーロッパ 一の親日国ポーランド。いやポーランドは世界一の親日国かもしれない。
なにしろ地理的に日本と遠く離れていても、心の距離は『ロシアをはさんだ隣国』であり、『日いずる国』『桜の咲く国』と憧れ、『来世は日本人に生まれたい』『日本人になりたい』と願うポーランド人は結構な数にのぼる」
ポーランド人はこれほどの熱い思いを日本人に抱いているが、日本人はほとんどポーランドを知らず関心は無きに等しい。日本人が知っているポーランド人は、ショパン、コペルニクス、キュリー夫人、ローマ法王ヨハネ。パウロニ世、ワレサぐらいである。いまポーランドには「寿司バー」が百軒以上もある。柔道・剣道・空手・合気道・居合道連盟及び相撲協会まである。そのほか将棋・囲碁・麻雀連盟もある。また日本語熱が高く、四つの国立大学と四つの私立大学に日本語学科がある。二〇〇六年のワルシャワ大学の日本語学科の倍率は、国内最高の三十倍を記録したそうである。この学科の学生は授業以外に毎日五・六時間も費し二〜三年で約二千の常用漢字を習得するほか、日本史・日本文学・和歌・俳句・歌舞伎・仏教等も学ぶという。著者いわく。「ひょっとすると最近の日本の大学生以上に漢字が書け、古来の日本文化に精通しているかもしれない」
これが世界の新しい潮流である。今は英語よりも日本語が旬なのだ。日本文明が世界の中心的文明になろうとしている今世紀において、日本語熱は高まる一方である。
日露戦争の衝撃
ポーランド人の親日の理由は二つあるが、 一つは日露戦争である。日本がロシアを打ち破ったことがいかにポーランド人を驚嘆させ感激させ、彼らの愛国心を鼓舞したかはかりしれない。初代国連大使をつとめた外交官加瀬俊一氏は、昭和三十年代ポーランドを自動車旅行し、ある教会に立ち寄った時のことをこうのべている。
「年配の上品な神父が出てきて日本人だと言うと、〝ああいらっしゃい、日本の車があちこち走っていると聞いていました"そういってお茶を出してくれたんです。そうしたらかたわらに小さな男の子が来てそれで私は、君の名は何て言うのと聞くと、〝ノギ"というの。〝えっ、ノギ"すると神父さんが言うのです。〝ノギというのは乃木大将のノギですよ。ノギとかトーゴーとかこの辺はたくさんいましてね。ノギ集れ、トーゴー集れと言ったら、この教会からはみ出しますよ"トーゴーとはもちろん東郷平八郎にちなんでのことです。ポーランドではロシアの悪政に反抗して独立闘争に多くの血を流した歴史を持っているんです。そのロシアを打倒した英雄にちなんで名前をつけるわけです。日本人はね、日露戦争の日本海海戦がいつか知らないでしょう。しかしポーランドの少年たち少女たちは日本海海戦や奉天会戦がいつだったかよく知っているのですよ。皮肉ですね」
日露戦争時、ポーランドはロシア・ドイツ・オーストリアにより国土を分割支配され、亡国の憂目をみてから既に百年を経ていた。ポーランドはことにロシアに最も迫害を受けてきたから、日本の勝利に驚喜し民族独立。国家回復の悲願をこめて、次代を担うべき子供らに「ノギ」「トーゴー」の名をつけたのである。ここで知るべきは日露戦争の果した世界的史意義である。日露戦争こそ近代世界史の一大分水嶺であった。日本の勝利が全有色民族及び被圧迫民族を強く覚醒させた。日本は彼らの希望と勇気の源泉となったのである。
もう一つの理由は第一次大戦後、シベリアで苦難に陥ったポーランド孤児七百余人をわが国が救済したことである。この歴史は日本ではほとんど知られていないが、ポーランドでは全国民が感激、感涙した日本の素晴らしい人道的行為であった。以上の二つがポーランド人の親日を決定的にし、今日まで日本及び日本人に対して心底から熱い敬愛の念を抱き続けてきたのである。しかし多くの日本人はそのポーランドに無関心であった。それでよいのだろうか。これほど思ってくれるポーランド人に対して、我々もまたこの国についてよく理解するつとめがある。
第一次〜三次分割・亡国の悲劇
ポーランドほど苦難の歴史を経てきた国はそう多くない。ポーランドは北はバルト海に面し、西はドイツ、東はロシア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、南はチェコ、スロバキアに囲まれた平原の国で、面積は日本よりやや狭い三十二万平方キロ、人口約四千万、自国語たるポーランド語を有するカトリックの国で人々の信仰は極めて厚い。国民の人種的構成はポーランド人がほとんどだが、他にウクライナ人・ベラルーシ人・リトアニア人・ドイツ人等がいる。
日本と日本人を敬愛しているポーランド人はどんな民族であろうか。数々の苦難を経てきたが、ポーランド人はおおらかで寛容、とても気のいい人が多く話好きである。ポーランド人の性格は「スラブの中のラテン系」ともいわれる。ポーランド人は西スラブ語族だが、アングロサクソン系やラテン系の人々とは異る柔らかで線の細い感じの人が多く、男は優しく女は美しい顔立ちの人が多いといわれている。カトリックの信仰の深いポーランド人が、「聖人」として尊敬するのがヨハネ・パウロニ世である。ポーランドから出た初めてのローマ法王であった。ポーランドがソ連の東縛から脱出する際、ポーランド国民を精神的に支える上にはかり知れない役割を果した人物である。 一言を以てするなら二度の亡国から再起し得たポーランドは「不屈と寛容の国」である。
ポーランド人が国家を形成したのは、十世紀後半である。この国がキリスト教化したのは十二、三世紀である。ポーランドは有為転変の波乱に満ちた歴史をたどり再度亡国の悲劇を味わうが、ポーランド社会が崩壊に陥らず統合を維持しえたのはカトリックが存在したからであった。ポーランドはヤギェウォ王朝(十四〜十六世紀)時代、勢力を伸ばし、当時の領土はフランスの二倍もある中欧の大国として発展した。クラクフ大学を拠点としたポーランド文化が開花し、ポーランド文学の黄金時代を迎えたのが十六世紀であった。
ヨーロッパ有数の大国・強国として栄えた王国であったが、十八世紀に入り衰退し始め、 一七一七年、ピョートルによリロシアの保護国と化した。この時代、それまで後進国であったロシアとプロシアが台頭し、 一七七二年、ポーランドはロシア・プロシア・オーストリアにより国土の三分の一を奪われた(第一次ポーランド分割)。次いで一七九三年に第二次分割が行われ、 一七九五年、第三次分割により国土全てが三国に奪われ、ここにポーランド国家は消滅した。この時、コシチューシコが立上り祖国防衛の為に奮戦したが空しく失敗した。かくして以後一九一八年まで百二十三年間、ポーランド人は亡国の民として呻吟した。しかしポーランド人はこの苦難に耐え自国の誇るべき伝統・文化の価値観とカトリックの信仰を堅持するのである。この間ポーランド人を慰め励ましたのはショパンの音楽であった。故郷ポーランドヘの慕情の表現であるショパンの数々の名曲が、ポーランド人を常に慰撫し鼓舞したのである。今もなおショパンは「神聖な国民的象徴」として国民から深く敬愛されている。
福島安正の同情
初めてポーランドの土を踏んだ日本人は、陸軍将校の福島安正少佐である。明治二十年代前半、ドイツ駐在武官時代しばしばポーランドに足を運び、ポーランド亡国の歴史を調べたが報告書の中でこうのべている。
「ああ二百年前のポーランドは実に中央ヨーロッパの一大王国にして、その境域、北はバルト海より南は黒海に連なり、その面積はフランス・スペイン(を合わせた広さ)に相匹敵していた。当時はプロシアいまだ王国でなく、ロシアまた一小国にすぎなかった。すなわちポーランドは欧州の雄強にして列国に屹立し、その民は義にして勇、将士精鋭、天下みなその威力に威怖していた。しかしさすがの強国もまた栄枯盛衰の理にもれず、国勢盛大なる時において国家の秩序が次第にゆるみ、上は政権の争奪、下は選挙の紛争(岡田註・国王は世襲ではなく選挙で選ばれた)にふけり、国の運命を真剣にかえりみる者がなかった。ところがその間に北方にはロシア、西方にはプロシアが次第に台頭し来り、虎視眈々として機会をうかがっていたが、ついに一七七二年ロシアの女皇カザリン(エカテリーナニ世)を主唱とするロシア・プロシア・オーストリア三国の乗ずるところとなり、その豊沃なる平野の三分の一は三国に分割された。ポーランドの人士、いかにしてこの屈辱に甘んずることができようか。コシチューシコ等の義士、奮然立ちて独立の義兵を挙げ失地を回復し国運を挽回せんと努めたが果せず、幾多の志士はその愛国の熱血を故国の山野に流して空しく倒れ、第二回分割を経て三回にして全土が三国に奪われることになった。時に一七九五年であった」
福島は亡国の民となったポーランド人に無限の同情を注ぐとともに、祖国日本がポーランドの如き悲劇の運命を辿らないことを切に祈ったのである
ポーランド孤児の救済(2)
再度の亡国ーー 第四次分割
第一次世界大戦後の一九一八年、ポーランドは待望の独立を回復した。ポーランドを抑圧し続けたロシア・ドイツ・オーストリアの三帝国は崩壊した。国家再建の道は容易ではなかつた。百年以上も分断された各地域を統合し、国内の様々な勢力の対立を解消しなければならなかったが、このときも同国内のカトリック教会が大きな役割を果した。
しかしながら大戦後の欧州情勢は共産国家ソ連とナチス・ドイツの出現により一層緊迫の度を加え、 一九三九年八月、ヒトラーとスターリンは突如独ソ不可侵条約を結び、秘密協定でポーランドの分割を取り決めた。翌月、両国軍は東西より侵攻、一気に全土を占領・併合した。第四次分割であり再度の亡国であった。自国の目的・利益の為には平然と他国を蹂躙、支配するのが世界の歴史の厳然たる事実であり、今日もまた同じである。他国に邪な野望を抱かせずその侵略を阻止しうる確固とした実力・軍事力、そして他国の威嚇侵略に対して厳然と立ち向いこれを打ち払う独立国民としての国を守り抜く精神の堅持が、何より重要なことを我々に教えているのがポーランド亡国の悲史である。
カチンの森虐殺事件
この時、ポーランド国民にさらに悲劇が襲った。ソ連軍との戦いで敗れたポーランド軍将兵二十五万人がソ連の捕虜になったが、その中の約二万二千人の将校をソ連は一九四〇年四月から五月にかけて全員虐殺したのである。何力所かに分けて殺したが、その一つがソ連の旧ポーランド国境近くのカチンの森である。ここでは約四千名の将校が後手に縛られたまま銃殺され、いくつもの大きな穴に幾層にも重ねて埋められた。
捕虜を虐待してはいけないし、無論罪なくして処刑してはならない。いかなる戦争犯罪も犯していないポーランド軍捕虜を虐殺したのがソ連である。これを命じたのはスターリン、それを決定した日は一九四〇年三月五日。ソ連共産党政治局員スターリン以下七名全員が捕虜の処刑(銃殺)を承認し署名している。
スターリンはなぜこの様な残虐無比の蛮行を行ったのか。それはソ連がこのあとポーランドを「衛星国(従属国)」として支配する為に、ポーランド軍の愛国心強固な将校達が邪魔だったからである。殺された中には予備役将校が数多くいたが、彼らは政治家、判事、検事、弁護士、技師、大学教授、教師、経営者等各界の指導者であった。ソ連にとりこれらの人々は、ソ連に屈従しない「階級の敵」として抹殺されたのである。それは一つの階級を絶対とし、他の階級を劣等視し差別し排除・抹殺する「階級浄化」という共産主義の根本的思想であり、それはまさに悪魔の所業そのものであった。ソ連はこの犯罪をナチス・ドイツになすりつけていたが、五十年後の一九九〇年、ゴルバチョフはソ連の国家犯罪であることを正式に認めた。なお米英はこの虐殺事件の真相を掴んでいたが、第二次大戦後も長らくソ連の虚偽の主張を支持し続けた。
飢餓に泣くポーランド孤児
ロシア・プロシア・オーストリア三国によるポーランド分割後、ポーランド人は祖国復の為に幾度も蜂起した(一八三〇〜三一年、一八四八年、一八六三〜六四年)。ことに一八六三〜六四年の蜂起は十八ヵ月間も続いた。しかしポーランドに駐留する十万のロシア軍はこれを鎮圧、多くのポーランド人を殺すかシベリア送りにした。捕虜として送られた人は約八万名もいた。ロシア革命時(一九一七年)、シベリアにはなお五万のポーランド人が生活していた。第一次大戦、ロシア革命及びそれに続く内乱により、シベリアにはさらに多くのポーランド人が流れこみ、内乱が始まる頃シベリアには十五万から二十万ものポーランド人がいた。
革命と内戦によリロシア全土が大混乱に陥った時、シベリアのポーランド人たちは難民と化し各地を流浪し筆舌に尽しがたい苦難を嘗めた。戦乱・飢餓・酷寒の為多くの人々が亡くなった。なかでもあわれをとどめたのは親を失い飢餓に泣く孤児であった。その時ウラジオストックに住むポーランド人が難民救済に立ち上り、 一九一九年十月、「ポーランド救済委員会」を設立し、難民・罹災者の最低限の衣食住確保を目指した。
委員会は主に親を失った孤児の救護に全力を尽した。しかし頼りにしていたアメリカ赤十字社が本国に引き揚げた。また資金難にも陥った。さらに一九二〇年四月、ポーランドとソ連との戦争が始まり、シベリア鉄道を使って孤児をポーランドに送ることが出来なくなった。このままでは孤児がみな死んでしまう所にまで追い詰められ万策つきた委員会は、最後に残された手段として日本政府に援助を懇請したのである。
同年六月、救済委員会のアンナ・ビエルケヴィチ会長が来日、日本政府(原敬内閣)に嘆願した。日本は前年三月、ポーランドと国交を樹立していた。会長の訴えに深く同情した政府は日本赤十字社に救済事業を要請した。日赤社長石黒忠悳は七月五日、孤児救済を受諾した。ビエルケヴィチ会長はすぐにウラジオストックに戻ったが、その時の悦びをこうのべている。
「興奮と混乱、笑いと喜びの爆発だった。子供たちは私を絞め殺すかのようにきつくしがみつき、興奮のるつぼの中で『日本に行くんだ』の叫び声がひときわ高く響きわたった」
第一回孤児救済
大正九年(一九二〇)七月二十二日、ウラジオストック港から第一陣五十七名の孤児を乗せた陸軍輸送船筑前丸が敦賀港に到着した。その後翌年まで五回にわたり孤児が次々に送られてきた。総数三百七十五名である。
孤児は東京・渋谷にある「福田会育児所」に収容された。この育児所は明治九年、貧窮孤児を救う為、仏教関係有志(今川貞山・山岡鉄舟・高橋泥舟・渋沢栄一・益田孝等)によって設立されたが、孤児たちに宿舎を無料で提供した。
孤児は男子二百五人、女子百七十人。これに三十三人のポーランド人が付き添った。年齢は九歳が最も多く、次いで十二歳、十一歳、十歳、十三歳。最年長は十六歳、最年少は二歳である。
石黒社長始め日本赤十字社は孤児たちの為に真心を捧げ尽した。孤児たちは飢餓の生活が長らく続いたから、みなやせ衰え栄養失調にかかり半病人が少なくなかった。それゆえ日赤は食事・治療・衛生に細心の注意を払い、孤児たちの健康復に全力を傾注した。日本にやってきたとき孤児たちの衣服はみじめそのものであったが、日赤は衣服、肌着、帽子、靴下、靴をすべて新調して与えた。
孤児達の生活は規則正しく行われた。起床は夏は六時(冬は七時)、洗面後一室に集って朝のカトリックによる祈禱、午前八時に朝食、そのあと付き添いのポーランド人の指導で読書や算数の勉強、幼少児はおもちゃ遊び。昼食後もまた読書・勉強、夕食後、再び祈禱して午後八時就寝という毎日である。お菓子や果物のおやつも毎日一回支給された。食生活はじめ何一つ不足ない至れりつくせりの日々であつた。
朝野あげての同情ーー 貞明皇后の行啓
ポーランド孤児はわが国朝野あげての同情を集めた。各新聞が孤児たちのことを伝えたから衣服・靴・玩具・菓子などの寄贈品は百九十七件、金額にして五千八百八十五円(現在の約一億円程度)に達し、他に寄付金が千八百四十八円あった。また諸団体による慰問・慰安活動が相次いだ。いくつかあげると、福田会の慰安会、増上寺少女団の訪間、東京府慈善協会の招待、公教(日本人のカトリック青年信徒の集り)青年会による帝室博物館・上野動物園見学、日赤本社による日光見物等々である。
ことに毛利公爵母堂毛利安子は孤児たちに深い慈愛を注ぎ、孤児たちが福田会に到着するたびに芝高輪の毛利公爵邸に招待、広大な庭園で子供たちを楽しく遊ばせ、そのあと座敷で公爵とともに面会、茶菓の饗応をすることを常とした。孤児たちは母堂に花束を贈呈、そのあと両国国歌を斉唱した。
また芸妓達が百円と菓子や手拭いをもって慰問している。当時の芸妓たちは不幸な境遇に育った人々が多く親のない孤児出身の人達もいたから、彼女らはこの異国の孤児たちにいたく同情したのである。
不幸なポーランド孤児たちを誰よりも憐まれた方は貞明皇后である。皇后陛下は大正九年八月、お菓子料として二百五十円、十月に五百円、十一月に三百円、翌年三月に五百円、計千五百五十円を下賜された。さらに大正十年四月六日、日赤病院に行啓された。隣接する福田会からビエルケヴィチ会長以下全孤児が奉迎した。皇后陛下は子供らを近くに召され、四歳の女の子の頭を幾度も撫でられた。この女児の父は貴族だがシベリアでソ連軍に捕えられ、その時母は悲しみの余り自殺した。少女はそのあと四日間木の実を食べてさまよっていたところを、委員会により救出された。その為一週間ほど日赤病院に入院、やっと退院したばかりであった。陛下はこの少女の悲惨な身の上を聴かれており、ことのほか愛憐の情を注がれ「大事にして健かに生い立つように」と言葉をかけられた。少女は感激に身を震わせた。皇后陛下の行啓は直ちにポーランド本国に伝えられ、全国民を感泣させた。
ポーランド孤児の救済(3)
松沢フミ看護婦の殉職
シベリアで悲惨な生活を経験してきた孤児たちはいまだ健康を復していなかったので、大正十年四月下旬、二十二人が腸チフスに感染した。その後も感染者が続出した。日赤の医師と看護婦が治療と看護に尽した結果二週間ほどで終息、全員が治った。ところが献身的看護に当っていた看護婦松沢フミが腸チフスにかかり七月十一日、亡くなったのである。二十三歳であった。松沢フミは昼夜の別なく子供たちを看護した。あまりの激務にまわりが心配して、少し休むように言ってもやめなかった。彼女はこう言った。
「人は誰でも自分の子や弟や妹が病いに倒れたら、おのが身を犠牲にしても助けようとします。けれどこの子たちには、両親も兄弟姉妹もいないのです。誰かがその代りにならなければいけません。私は決めたのです。この子たちの姉になると」
松沢フミの死をきかされたとき、全ての孤児たちが号泣した。ことに不眠不体の看護を受けた子供たちは、声が枯れるほど泣き続けた。孤児らにとり彼女は真実のやさしい姉であり、まさしく神につかわされた白衣の天使であった。
涙の惜別
孤児は約二ヵ月間滞在した後、順次アメリカ経由で故国に帰った。第一陣の出発は大正九年九月二十八日、五十六人の孤児が横浜港から旅立った。港には平山成信日赤社長始め日赤病院の職員、医師、看護婦、福田会関係者、ポーランド公使館員、ビエルケヴィチ救済委員会会長らが万感の思いをこめて見送った。
孤児は横浜の埠頭から伏見丸に乗船したが、乗りこむのにかなり時間がかかった。それは一部の孤児たちがこのまま日本にいたいと懇願したからである。子供たちは見送りの人々にすがりつき、
「日本にいたい。日本に住んでいたい。もうどこにも行きたくない。日本のみなさんと一緒に暮らしたい」
と涙をぼろぼろ流しながら叫んだ。送るも送られるもただただ涙、涙の惜別であった。
最後は大正十年七月八日である。総計三百七十人、孤児はアメリカにしばらく滞在したあと祖国ポーランドに無事帰還した。帰国後、ポーランド政府は日赤に感謝状を贈った。
「ポーランド児童が横浜を出発するに際し、惜別と謝恩の涙を流したのは、児童に対する救護がいかに貴重だったかを証明する最良のものです」
欧米のキリスト教国に見放されどこにも頼るところがなくなったとき、異教国日本だけが孤児たちに救いの手を差しのべた。そして朝野をあげて思いやりと愛情を尽し殉職者まで出した。これほどの博愛心をもつ民族が日本人である。ロシアやドイツに徹底的に痛めつけられたポーランド人にとり、日本人のポーランド孤児救済の行為は、彼らの奉ずるキリスト教の説く報いを求めぬ無私の「神の愛」そのものの行為と受けとめられたのである。ここにポーランド人の日本と日本人に対する「来世は日本人に生まれたい」とまで願う絶対的な親愛感情が生まれたのである。
第二回孤児救済
ポーランド孤児の救済活動はこれで終ったのではなかった。シベリアにはなお二千人余りの孤児がいたのである。ポーランド救済委員会ではポーランド・ソ連戦争が一九二一年三月に終了していたから、シベリア鉄道を使って送還しようとした。ところがこの年ソ連国内に大飢饉が発生、三百万人が餓死した。そこでソ連は他国人に旅行中の食事調達を厳禁した為、シベリア鉄道経由の送還が不可能となり、再び日本に援助を要請したのである。大正十一年(一九二二)三月、ビエルケヴィチ会長は日本赤十字社に嘆願書を提出した。その要旨は次の通りである。
「先にシベリアに漂鼠(流浪の意)せし三百七十余名の不幸なる児童が日本赤十字社の慈恵によりてその生命を救われたる恩義は、彼等一同忘れんとしても忘る能わざる所なり。然るにシベリアにはなお二千余人の同一不幸なる児童が救助を叫びつつあり。・・・我が救済会は全く無援の地位にありといえども彼等児童をして空しく死を待たしむるに忍びず、この際日本を措きて他に頼るの途なきが故に、願わくば日本赤十字社の宏量無辺なる慈眼をもって照覧せられ、本国まで汽船輸送の高義仁侠に浴せしめられたし」
日赤では審議を重ねたが、問題は費用であった。第一救済は四十万円(約八十億)かかった。二千人の救済には百二十万円程必要になる。とてもその負担は無理だったので、緊急を要する児童約四百人を選んで救済することに決定した。平山社長がそれをポーランド駐日公使に伝達したところ、公使はこう応えた。
「かかる慶報がポーランド国内に伝播するや、 一人たりとも日本のために熱心なる謝意を表せざる者あらざるべく、また一人たりとも日本のために祝福の語辞を発せざる者なかるべし。はたまた送還せらるる児童が成長し国民となるに至るときは、これらの者は日本の高尚なる行動を伝播しポーランド国内に日本の光輝を 宣揚せしむるべし」
同年八月七日、第一陣の孤児百七人、付き添い十一人が敦賀港についた。敦賀では第一回目同様、町役場始め各機関が協力、翌日大阪に着いた。そのあと二回、合計三百九十名の孤児が大阪・天王寺の宿舎に収容された。最年長は十五歳、最年少が一歳である。前回同様、破れ汚れた衣服を着て、はだしの者も少なくなかった。宿舎に着くやとりあえず浴衣と靴を支給した。日本を出発する際には前と同じく洋服を一着ずつを新調するとともに毛糸のチョッキを与えた。
孤児たちの生活は第一回と同様である。多くの子供たちが栄養失調で顔色が悪く元気がなかったが、日が立つにつれめきめきと健康をとり戻して行った。子供たちに対する医療・衛生については日赤大阪支部病院小児科医長と二名の医師及び看護婦が担当し、毎週二医師が一人一人を診察して万全を期した。今回もまた日本国民は厚く同情して、寄付金総額は八千五百余円に達した。また衣服・日用品・玩具、食べ物などの贈り物が数多く寄せられた。
ここは天国だ
貞明皇后はこのときもまたお菓子料として千円を下賜された。孤児への慰安行事も前回同様次々に行われた。主なものをあげれば、天王寺公園・動物園見学、大阪城見学、大阪市内遊覧、市公会堂での慰安会、活動写真の映写会などである。中でも孤児たちが喜んだのは天王寺動物園である。特別なはからいで象が檻から出され孤児たちは象の背中に乗せてもらえた。帰るとき彼らはみな覚えたての「アリガト」を回々にしたが、動物園長はその言葉に涙をこぼした。
八月三十一日の天長節(大正天皇御誕生日)は宿舎で祝賀式が行われたが、孤児たちは前日「君が代」の練習をした。信愛高等女学校の教師が親切に指導したので三〜四時間で歌えるようになった。翌日、朝のお祈りをしたあと、一同前庭に整列、東方に向って遙拝、「君が代」とポーランド国歌を斉唱した。孤児たちは「君が代」を日本語で立派に歌うことができ大喜びだつた。
あちこちから慰間の人々が訪れたが、そのなかで二人の少女が、ぜひ洗濯の手伝いをしたいと申し出た。付き添いのポーランド人は遠慮して辞退しようとした。しかし少女はきかなかった。少女は毎日定刻に来て洗濯をした。日本人のこうした博愛・慈善の行為に心を打たれない孤児たちはいなかった。「ここは天国だ」と誰もが思った。
離別の日が来た。同年八月二十五日、第一陣が大阪駅から出発したが、駅は見送りの人々で埋った。孤児たちはみな泣いていた。前の横浜同様、「日本にいたい」と泣き叫ぶ子供が少なくなかった。人々は子供たちの手を握り、抱きしめ、頬ずりした。「日本におりたいんなら、おればええんや。わいが育てたる」と涙ながらに言う人もあった。
このあと孤児は神戸から出港、インド洋を経て故国に向う。午前十一時、汽笛が低く響く。孤児たちは甲板に鈴なりになって手を振った。子供たちは「君が代」とポーランド国歌を斉唱し、「日本、万歳」「ポーランド、万歳」「日赤、万歳」を叫んだ。
続いて九月、第二陣が神戸から出港、計三百九十名が無事祖国に帰還を果した。こうして第一回第二回合計七百六十五名の孤児が救済されたのである。
日本への「最も深き尊敬と感謝」
日本政府、日本赤十字社、日本国民の再度に及ぶこうした博愛の行為は、ポーランド国民に心の底からの感銘、感激を与えずにはおかなかった。ポーランドのジー・リツスキー大統領は大正天皇に次の親書を送り深甚の謝意を表した。
「陛下
ポーランドが過去一世紀にわたる長期間その解体を強いられ圧政を忍ばざるべからざりし迫害、並びにその国民の追放その他悲惨なる事態に原因する国民の移住等は、最近における世界戦争及び露国革命と相俟って多数のポーランド国民を全世界に散乱せしむるの原因をなしたり。そしてポーランドがその独立と自由とを回収せる時に際し、幼少にしてしかもその大部は戦争の結果孤児たる史的悲劇の廃残に過ぎざる児童の一大集団は、貴国沿岸に漂着するところとなりたり。彼らがこの地に漂流したるは彼らにとりて実に不幸中の幸福たりしなり。実に可憐なるポーランド児童は、慈悲に富みかつ慇懃極りなき歓待に浴したり。そしてこの恩遇は彼らの心肝に深く銘せしところなれば、将来貴我両国の親善なる関係をしてますます密接ならしむるに貢献するところ少なかるべし。・・・今やこれらの児童は貴国政府ならびに日本赤十字社の多大の援助によりて祖国に帰還することを得たるをもって、予はここに陛下及び皇后陛下に対して予及び全ポーランド国民の名において特に至深の謝意を表彰せんとす。
一九二二年十二月三日
陛下の誠実なる良友
ジー・リツスキー」
またポーランド救済委員会のユゼフ・ヤクブケヴィチ副会長はこうのべている。
「日本とポーランドとは全く縁の薄い異なる民族です。日本はポーランドとは全く異なる地球の反対側にある国です。しかしながら不運なるポーランドの子どもたちにかくも深い同情を寄せ、心からの憐憫の情を示してくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはありません。ポーランド国民は日本に対して、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感謝と報恩、最も温かき友情と愛情をもっていることをお伝えしたい。そして我らのこの最も大なる喜悦を言葉でなく、行為をもっていずれの日にか日本に酬いることあるべしと」
他国民からこれほどの尊敬と感謝の念を抱かれる国民はめったにあるものではない。日本人がかくも敬愛されるのは私たちの先祖が立派だったからである。日本人の国民性がいかなる国と比べてもすぐれていたからにほかならない。
ポーランド孤児の救済(4)
ポーランドの恩返し
平成七年、阪神淡路大震災がおきた時、その惨状にいたく同情したのが、駐日ポーランド大使館商務参事官スタニスワフ・フィリペック氏である。氏は、被災児童をポーランドに招いて慰めることを思い立ち方々に働きかけた結果、同年夏、小学校四年から中学校三年までの三十人をポーランドに招待した。この時ポーランド航空が航空券を無料で提供した。ポーランドではクラクフ市始め五つの市町村で三週間もの期間歓待してくれた。翌年夏にも三十人の被災児童が招待された。
二回目の接待のとき、ワルシャワでの「お別れパーティ」で四人の元孤児たちが子供らと対面した。みな高齢だったが、七十五年前日本に助けられた忘れがたい思い出を交々児童に語った。その一人ベロニカ・ブロピンスカさんは日本で貰った宝物のように大事にしていた桐の小箱とポーランド特産の琥珀の首飾りを当時の彼女と同じ十二歳の少女に贈り「日本の方に恩返しができて、こんなにうれしいことはない」と語った。
フィリペック氏は元はポーランド科学アカデミー物理学研究所の教授であり、ワルシャワ大学で日本語を学び東京工業大学に留学していた。父はドイツの強制収容所で殺された。祖母に育てられたが、祖母はことぁるたびに小さなヤポンスカ(日本)がロシアを打ち負かしたこと、シベリアにいたポーランドの孤児たちを救出してポーランドまで送り届けてくれたことを孫たちに聞かせた。それが氏の日本行きを決意させた。氏は大使館退職後帰国したが、平成十一年、ポーランドで最も古い伝統を誇る「ジェチ・プオッカ少年少女舞踊合唱団」の団長として再来日した。ジェチ・プオッカの公演は東京・高岡・広島・神戸などで行われたが、多くの日本人が公演を楽しんだ。神戸の公演では少し前ポーランドに招かれた子供らが駆けつけた。
さらに東日本大震災の時も同年夏、ポーランドは被災地の中高生三十数名を招待した。また被災した幼稚園の再建において多大な援助をしてくれた。尽力したツイル・コザチェフスキ駐日ポーランド大使もまた大の親日家だが、こうのべている。
「ポーランドでは昔から日本文化に対する憧れがあり、親日的な感情を国民の大多数が持っています。実は私は今、合気道や居合道を学んでいますが、ポーランドでも日本の武道はとても人気です。日本には『刀の文化』ともいうべき気高き精神が息づいています。 一方、ポーランドでも『剣の文化』ともいうべき騎士道精神が今でも尊重されています。また日本とポーランドは芸術的な感性が近いようにも感じます。ショパンの音楽を日本人がとりわけ愛して下さっていることは象徴的ですし、ポーランドから訪日した芸術家たちは『これだけ一体感を持って感激して下さる国民は日本以外にない』と口を揃えます。またポーランドの外食産業で今一番成長しているのが日本食であり、特に寿司の人気は目を見張るものがあります」
両陛下のご訪問
平成十四年七月、天皇皇后両陛下はポーランドをご訪問されたが、国を挙げての大歓迎を受けられた。最終日、日本大使公邸で答礼の会が催されクワシニエフ・ポーランド大統領夫妻ら数百人が招かれたが、その中に三名の元孤児たちがいた。男性一人(九十一歳)、女性二人(九十二歳・八十六歳)である。両陛下は一番初めに三人の老人のもとに歩み寄られ足の不自由な二人に坐るよう促され、 一人一人の手を取られ温かいお言葉をかけられた。対話が交されたが元孤児たちは感激して立上り、口々に「感激で胸が一杯です」「日本のおかげで今の私たちがあります」「日本での滞在はとても幸せでした」「日本はまるで天国のようなところでした」と語った。「自分たちを救い出してくれた」「日本はまるで天国のようなところでした」と語った。「自分たちを救い出してくれた美しく優しい国、日本にぜひともお礼を言いたい」「いつか恩返しがしたい」と八十年間思い続けてきた元孤児たちは、両陛下の前で思いが溢れ言葉が詰まりまぶたをにじませたのである。
両国民の回い絆
最後に両国民の深く固い絆につき二人のポーランド人の言葉を掲げよう。まずポーランドを代表する日本研究家であるワルシャワ大学東洋学部日本学科教授エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ氏はこうのべている。
「ポーランド・日本関係史を研究すれば、すぐに日本人もポーランド人もお互いに強い親近感を抱いていることに気がつきます。遠く離れた二つの国がなぜ親しい気持を持つに至ったのでしょぅか。いくつかの理由があると思います。特に大事なのは精神面にある民族としてのアイデンティティ(岡田註・国家民族の本質・個性)や伝統の遵守、勇気、家族などに対する価値観を両国の人々は同じように理解していたことでしょう。もう一つ重要な理由は、実践面・政治面にありました。とりわけ大きかったのが『共通の敵』ロシアの存在です」
もう一人はポーランドを代表する世界的な映画監督アンジェイ・ワイダ氏である。ワイダ氏の父はカチンの森で虐殺されたポーランド軍の将校でぁった。氏はこの虐殺事件を映画にしている(「カチンの森」二〇〇七年)。平成八年、第八回高松宮殿下記念世界文化賞の受賞者だが、日本及び日本の美術・文化をこよなく敬愛し、古都クラクフに「日本美術・技術博物館」を建立するのに最も尽力した人である。両陛下はここを訪問されたが、その時ワイダ氏夫妻が出迎えた。
ワイダ氏は日本についてこうのべている。
「どうして日本に特別な関心を抱いたのか、いくつもの可能性があったにもかかわらず、なぜこんな遠い国に興味を持つことになったのかと、よく聞かれます。答えは簡単です。日本では心から親しみを持てる人々と出会いました。言葉も分からず習慣もほんの少ししか知りませんが、日本のことがとてもよく理解できるのです。日本人は真面目で、責任感があり、誠実さを備え、伝統を守ります。それらはすべて私が自分の生涯において大事にしている精神です。日本と出会ったお陰でこのような美しい精神が、私の想像の中だけで存在しているわけではないことが分かりました。そのような精神が本当に存在するのです」
ワイダ氏は東日本大震災に際し次の一文を寄せている。
「日本の友人たちへ。
このたびの苦難の時に当たって心の底からご同情申し上げます。深く悲しみをともにすると同時に、称賛の思いも強くしています。恐るべき大災害に皆さんが立ち向う姿をみると、常に日本人に対して抱き続けてきた尊敬の念を新たにします。その姿は世界中が見習うべき模範です。
ポーランドのテレビに映し出される大地震と津波の恐るべき映像。・・・それを見て問わずにはいられません。『大自然が与えるこのような残酷非道に対し、人はどう応えたらいいのか』私はこう答えるのみです。『こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくでしょう』(中略)
日本は私にとって大切な国です。日本での仕事や日本への旅で出会い個人的に知遇を得た多くの人々。ポーランドの古都クラクフに日本美術・技術博物館を建設するのに協力し合った仲間たち。天皇、皇后両陛下に同行してクラクフを訪れた皆さんは、日本とその文化がポーランドでいかに尊敬の念をもって見られているか知っているに違いありません。二〇〇二年七月のあの忘れられないご訪間は、私たちにとって記念すべき出来事であり、以来毎年、私たちの日本美術・技術博物館では記念行事を行ってきました。
日本の皆さんへ。
私はあなたたちに思いをはせています。この悪夢が早く終って繰り返されないよう心から願っています。この至難の時を力強く決意をもって乗り越えられんことを」
父をカチンの森の虐殺で失い、その後ソ連の支配の下に苦難を嘗め尽したアンジェイ・ワイダ氏の肺腑の底からの日本人に対する同情と慰撫、敬愛と称賛そして熱い連帯の心情の吐露である。わが国に劣らぬ苦難と悲劇の歴史を乗り越えてきたポーランドは、日本民族同様不死鳥の民族である。
ポーランド民族よ、永遠なれ。
〈初出・『明日への選択』平成二十七年四月号〜六月号/ 一部加筆・修正〉
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