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親日はかくして生まれた 第四章 藤原機関とインド独立(七)

第四章 藤原機関とインド独立(七)

 

グローリアス・サクセス

 

 このあと藤原はクアラルンプールの刑務所へ転送され、 現地イギリス当局の探偵局長である一大佐により三日間にわたる尋間をうけた。 その探偵局長は藤原機関の行った対インド・マレー工作を重視し克明に尋問を続けた。 探偵局長には先のワイルド大佐の如き非礼傲慢の態度が見えず、 再び罪に陥れる意図が感じられなかったので藤原は及ぶ限り卒直に答えた。 長時間に及ぶ尋間が終って藤原に茶と煙草をすすめた探偵局長は、 そこで思いも寄らぬ言葉を発した。

 

「貴官の工作は真にグローリアス・サクセス (栄光に満ちた成功) であった。 敬意を表する」 こうのべてから探偵局長は、 藤原がこの種の秘密工作の特殊訓練を受けずまた経験もなくしかも現地語も英語もできないのに、 何ゆえかくの如き大成功を収め得たのかどうしても自分にわからない、 どうか私に納得できる説明をしてほしいと真剣に問いつめた。 当惑した藤原は説明の仕様がなく返答に窮したが、 しばらく考えた末誠意をこめてこう語った。

 

 「それは民族の相違と敵味方を超えた純粋な人間愛と誠意、 その実践躬行ではなかったかと思う。 私は開戦直前に何の用意もなく準備もなく、 貧弱極まる陣容でこの困難な任務に当面した時全く途方に暮れる思いに苦慮した。 そしてハタと気づいたことはこれであった。 英国もオランダもこの植民地域の産業の開発や立派な道路や学校や住居の整備に私達が目を見張るような業績を挙げている。

 

しかしそれは自分達のためのもので現住民の福祉を考えたものではない。 自分達が利用しようとするサルタン (マレー各州の王侯) やごく一部の特権階級を除く原住民に対しては、 むしろ故意に無知と貧困のまま放置する政策を用い、 圧迫と搾取を容易にしている疑いさえある。 ましてや民族本然の自由と独立への悲願に対しては、 一片の理解もなくむしろこれを抑制し骨抜きにする圧政がとられている。 絶対の優越感を(おご)って原住民に対する人間愛  愛の思いやりがない。

 

原住民やインド人将兵は人間、 民族本能の悲願  愛情に渇し自由に飢えている。 あたかも慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように。 私は私の部下とともに身をもってこの弱点を()き、 敵味方、 民族の相違を超えた愛情と誠意を硝煙(しょうえん)の中で彼らに実践体得させる以外に(みち)はないと誓い合った。 そして至誠と信念と愛情と情熱を方針に実践これを努めたのだ。 我らが慈母の愛を以て差し出した乳房に愛に飢えた原住民、 赤ん坊が一気にしがみついたのだ。 私はそれだと思う、 成功の原因は」 

 

 探偵局長はこれを熱心に聞き終え大きくうなずき、 「わかった。 貴官に敬意を表する。 自分はマレー、 インド等に二十数年勤務してきた。 しかし現地人に対して貴官のような愛情を持つことがついに出来なかった」 と語った。

英軍探偵局長が認めたように藤原及び同機関の働きは真に 「グローリアス・サクセス」 であったのである。 藤原らはインド人及びマレーの人の心を見事につかみついにその独立を促すのに絶大なる貢献をした。 日本は形においては痛苦なる敗北を喫したものの、 東亜諸民族を欧米の桎梏(しっこく)より解き放しその独立を成就せしめる道義の戦い、 思想戦に勝利することにおいて決定的役割を果したのである。

 

藤原はこのあと帰国、 昭和三十年、 陸上自衛隊に入り第十二師団長、 第一師団長を歴任した。 退官後はインド、 パキスタン、 バングラデシュ等から国賓待遇でしばしば迎えられ、 日本と東南アジア諸国の友好親善に余生を捧げた。

 

藤原と肝胆相照したチャンドラ・ボースは惜しくもインド独立を見ることなしに歿したが、 彼の貢献は不滅である。 従来インド国会議事堂の記念室にはガンジーとネールの写真が掲げられていたが、 昭和五十三年、 チャンドラ・ボースの肖像が二人の写真の間に高く掲げられるに至った。 今日のインド国民が彼をいかに見ているかが明かである。 チャンドラ・ボースこそインド独立第一の元勲として仰がれているのである。

 

彼がガンジー、ネールを凌ぐ英雄として讃えられている理由は、 彼が自由インド仮政府を樹立しインド国民軍を率いてイギリス軍と敢然と戦ったからである。 チャンドラ・ ボースがイギリスと戦い得たのは藤原機関が存在したためであり、 日本軍がイギリス軍を撃破し得たためである。 つまり日本軍の東アジアヘの軍事的な進出並びに貢献が東亜諸民族の解放と独立をもたらした決定的要因であったのである。

 

 末代まで日本の恩義を忘れず

 

 大東亜戦争なくしてインドの独立はありえなかったのである。 それゆえインド人は日本に対して我々の想像を超える深厚なる感謝と尊敬の念を今日まで持ち続けてきたのである。

 

平成九年、 インド独立五十周年式典が盛大に挙行された時、 在郷軍人会のヤダバ代表はこの時招かれた加瀬英明日印親善協会会長に対して、 日本国民への感謝の思いを記した次の文章を靖國神社に奉納してほしいと要請した。

 

「我々インド国民軍将兵はインドを解放するために共に戦った戦友としてインパール、 コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表します。 インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまで決して忘れません。 我々はこの勇士たちの霊を慰め御冥福をお祈り申し上げます」

 

さらに独立運動の闘士でインド法曹界の重鎮グランナース・レイキ法学博士はインパール作戦にふれてこう挨拶した。

「太陽が空を輝かし、 月光が大地をうるおし、 満天に星が瞬く限り、 インド国民は日本国民への恩義を忘れない」

 

また井上和彦氏は著書で日英両軍が戦ったインパールの激戦地にあるロトパン村には、 現地の人々によって建てられた日本兵の慰霊塔があり毎年供養が行われていることを紹介している。 モヘンドロ・シンハ村長はこう語っている。

「日本の兵隊さんたちは飢えの中でも実に勇敢に戦いました。 そしてこの村のあちこちで壮烈な戦死を遂げていきました。 この勇ましい行動のすべてはみんなインドの独立の為の戦いだったのです。 私たちはいつまでもこの壮絶な記憶を若い世代に残していこうと思っています。 そのためここに兵隊さんへのお礼と供養のため慰霊塔を建て、 独立インドのシンボルとしたのです」

 

インドの解放と独立の為日本軍がインパール、 コヒマまで進撃し数多くの将兵が命を捧げたことに対する恩義と感謝の念こそ、 全インド国民の日本への敬愛の心の根底にあるものである。 

 

日本人にとり忘れがたい人物にチャンドラ・ボースのほかもう一人、 パール判事がいる。 パールもまた日露戦争における日本の勝利に感銘した一人である。 十九歳の時の感動を次の様にのべている。

「同じ有色人種である日本が北方の強大なる白人帝国主義ロシアと戦ってついに勝利を得たという報道は我々の心をゆさぶった。 私たちは白人の目の前でわざと胸を張って歩いた。 先生や同僚とともに毎日のように旗行列や提灯行列に参加したことを記憶している。 私は日本に対する憧憬と祖国に対する自信とを同時に獲得し、 わななくような思いに胸一ぱいであった。 私はインドの独立について思いをいたすようになった」

 

 パール判事は大東亜戦争を日本の侵略戦争として断罪した東京裁判を 「儀式化された復讐」 であるとして日本の無罪を判決した人物である。 パールは日本と日本人をこよなく愛し続け何度も来日している。 最後の来日は昭和四十一年である。 パールは 「もし日本が私の住むところを提供してくれるならば、私は日本に永住したい」 とさえ言った。 離日の際、 見送る人々が 「さようなら」 といったら、 「さようならという言葉は聞きたくない。 私はこの日本を愛している。 この日本に私の骨を埋めたいんだ」 と語った。

 

 長男のプロサンド・パールは平成七年、 来日してこうのべた。

「それが父の最後の望みでした。 ですから私は父の魂は今なお日本にあると信じています。 今日、 靖国神社にお参りしましたが、 私はお参りして父の精神的なふるさとに来たと感じました」 

 

日本に対してかくの如き思いを抱くインド及びインド人だから、 昭和天皇が崩御された時深厚なる哀悼の意を表明し、 インド政府は三日間の服喪(ふくも)を行った。 この時日本における服喪期間は二日である。 インドが日本に示した至上の誠意である。 大東亜戦争なくしてインドの独立はありえなかったとして、 この戦争を遂行した最高指導者たる昭和天皇に至深の弔意を表明したのである。 当時これを知った私はインド政府の措置に言い知れぬ感銘を受けた。

 

さらに平成七年の阪神・淡路大震災の時である。 諸外国より温かい援助が寄せられたが、大半が数百万円単位、 多い方で千万、 二千万程度の中にあって桁違いの最高額二億円もの義捐金を贈ってくれたのがインドであつた。 全て大東亜戦争においてインドの独立の為に貢献した日本の絶大なる恩義に対するインド国民の誠意に満ちたお返しであった。

 

 

〈『明日への選択』平成七年二月号〜四月号・平成十四年十月号を基に加筆。再構成〉