第四章 藤原機関とインド独立(六)
イギリス人の復讐
多くの日本人が次々に無実の罪を着せられ死刑その他の重罪に処せられた。 死刑にされる戦友たちの有様につき藤原は次の様に述べている。
「午前九時頃戦友の教誨僧が英軍警備将兵に伴われて執行される戦友の独房に来訪する。 生仏にお経を献ずるのである。 未決の我々は悄然とうなだれしわぶき一つも発する者がない。全監獄が琴線のように緊張し、 針一本落ちても聞えるほどに静まり返る。 教誨僧の読経が終ると第一陣の三戦友が 『お先に旅立ちます』 または 『一番機突込みます』 と、 第二陣の戦友に大声で挨拶して十三階段を昇って行く。 その足の響きが聞えるほどの緊張である。 その息詰る緊迫の中、 『天皇陛下万歳』 の絶唱が響く。 第三回目の絶唱が終らんとする瞬間、 ドーンと轟音が全監獄を震撼する。 絞首台の踏み板が落下 したのである。
約三十分後、 第二陣の戦友が十三階段を昇り同じ順序で刑が執行される。 無念痛恨と言うほかない。 ……処刑が終ると即日我々未決囚に絞首台の清掃を命ずる無神経さ、 残酷さである。 武士の情のかけらもない非情さである。
処刑された戦友の遺言や教誨僧その他の戦友に托した言葉は共通している。 まず両親、 妻子に 『自分はお国のため献身敢闘してきた。 日本軍軍人 (男児) として一点恥ずるところはない。 このたび復讐裁判の理不尽にあって無念敵手に散ることとなったが、 いささかも恥ずるところはない。 それを信じて強く生き抜いてほしい』 また 『日本の悠久を信じている。 泉下で祖国の復興と隆昌を祈り続ける』 と。
こうしてこの刑務所だけでも約三百人の日本人が絞首台に上り無念の最期を遂げた。 戦後日本は東京裁判により侵略国の烙印を押され、 今日 「謝罪」 や 「反省」 の声が世間にとびかっている。 だがしかし、 真に謝罪や反省をすべきは非西洋人をかくの如く残酷に扱ってきた欧米諸国そのものである
戦争裁判
藤原はイギリス側より厳重な取調べをうけた。 イギリス当局としてはインド人の解放に重大な役割を果した藤原を何としても重罪に処したかったのである。 藤原を尋問したのはシンガポール陥落時イギリス軍司令官パーシバルの参謀をしていたワイルドという陸軍大佐であった。 ワイルドは山下奉文第二十五軍司令官とパーシバルとの降伏談判の時に同席しており、 藤原もまたこの席にあった。 ワイルドはこの降伏の屈辱と恨みを晴らす思いで藤原に相対し、 藤原機関に強盗殺人の罪をなすりつけ何が何でも藤原を処罰せんとした。
だが、 藤原及び機関員は一点の不正も働いておらず、 藤原がその潔白を証明し得たためワイルドは藤原に罪をかぶせることができず、 いまいましげに尋間を打ち切らざるを得なかった。結局、 昭和二十二年春、 藤原は不起訴釈放される。
ワイルドに尋問された時のことである。 尋間は朝から夕方まで続いたが、 ワイルドらが昼食のため休息をとった。 ところが藤原には昼食はおろか水一杯さえ与えられない。 空腹と疲労と暑さで藤原は目がくらみそうになったが、 その時一人のマレー人巡査が鉄格子の中の藤原に近づき、 「メージャー・フジワラか」 と問うた。 藤原がうなずくと巡査はその場を去りすぐに妻とともに大皿に山盛りのカレーライスとコップ一杯の水を持ち来り、 「メージャー、早く食べてくれ、 イギリス人が帰ってこないうちに」 と哀願するように促した。 このときのことにつき藤原は次の様に述べている。
「夫婦の顔が地獄の仏に見えた。 ……その私の手に山盛の飯がのせられた。 彼は機関のことを聞き知っていたらしいが、 私は彼を見知らないのである。 私はおし戴いて夫婦に感謝の意を表した。
私は餓鬼のようにその厚意をむさぼり食った。 夫婦はその間見張っていてくれた。 涙が出るほどにその情が有難く嬉しかった。 戦争間に育まれた日本と東南アジア両民族のこの心の結合を英人は知っているだろうか」
藤原と同機関の存在がマレー人にいかにうけとめられていたかを示す一挿話である。 マレー人が大東亜戦争をいかに見たかもう一例をあげよう。 この戦争中マレー南方留学生として陸軍士官学校に学び、戦後マレーシアにおいて知事や上下院議員を歴任したラジャー・ダト・ノンチツクはこう述べている。
「私たちアジアの多くの国は、 日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。 日本軍は永い問アジア各国を植民地としていた西欧の勢力を追い払い、 とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に、 驚異と感動と自信を与えてくれました。 永い問眠っていた自分たちの祖国を自分たちの国にしようという心を目醒めさせてくれたのです。
私たちはマレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。 敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、 今まで感じたことのない興奮を覚えました。 しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで、 将来のそれぞれの国の独立と発展のためにそれぞれの国語を普及させ青少年の教育を行ってくれたのです。 私もあの時にマラヤの一少年として、 アジア民族の戦勝に興奮し日本人から教育と訓練を受けた一人です」
かつて村山首相がマレーシア訪間の際、 マハテイール首相が村山首相の謝罪発言を強くたしなめたのはかかる背景が存するからである。