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親日はかくして生まれた 第四章 藤原機関とインド独立(五)

第四章 藤原機関とインド独立(五)

 

インド独立の契機を与えた日本

 

日本軍のシンガポール攻略にともなうインド国民軍の創設と自由インド仮政府樹立という歴史的背景のもとに行われたのが、 昭和十九年のインド進攻作戦いわゆるインパール作戦である。  この時チャンドラ・ボースの率いるインド国民軍第一師団は日本軍とともにインドのインパールに向って進撃を行いイギリス軍と戦ったのである。 その際藤原はインド進攻を担った第十五軍参謀としてインド国民軍とともに数ヶ月間戦う運命にめぐり合わせた。

 

チャンドラ・ボースはインパール作戦に全てをかけ、 この戦いこそインドの解放並びに独立をもたらす為の絶対的なものととらえた。 インド国民軍は 「チェロ、 デリー (デ リーヘ)」 を合言葉についに武器をとつてイギリス軍に対して立上ったのである。

だが、 このインパール作戦は周知のごとくイギリス軍が日本軍に数倍する兵力を有していたため惨惜たる敗北に終った。 また軍司令官の統率が不首尾(ふしゅび)であった為、 今日拙劣極まる戦いとして非難の対象となっている。 しかし惨敗であったにもかかわらず、 この戦いはインド独立のためはかり知れぬ重大な意義を有した。

 

約四ヶ月間劣勢の日本軍は悪戦苦闘を続けた。 この間インド国民軍の奮戦と辛苦は決して日本軍に劣らなかった。 イギリス軍に追撃され退却する際の困難さは言語に絶するものがあったが、 国民軍は最後まで士気と団結を堅持して崩れなかったことは特筆に値する。 結果的には敗北したが、 チャンドラ・ボースとインド国民軍が死を賭して敢然とイギリス軍と戦ったそのことこそ、 インド独立を導く基礎となったのである。 

イギリスの著名な一歴史学者はこうのべている。 「インドの独立をもたらしたものはガンジーやネールなどが率いたインド国民会議による独立運動ではなく、 日本軍がインド国民軍とともにインドに進攻したインパール作戦によるものだった」

 

日本が敗戦した昭和二十年秋、 イギリスは英軍と戦った約二万名のインド国民軍将兵を国家への反逆という罪名を以て代表者の将校数名を軍事裁判にかけた。 イギリス政府はインド国民軍将兵を厳刑に処し、 インドに対する植民地支配を更に強固に永久化せんとしたのである。 この時チャンドラ・ボースは昭和二十年八月、 飛行機事故のため既に亡くなっていた。 だが、 ガンジー、 ネールを始めとするインド国民会議派はこの軍事裁判を不当なものとして認めず、 「インド国民軍将兵はインド独立の為に戦った愛国者であり、 即時釈放されるべきである」 として、今こそインド独立の天与の機会であると見なし反英運動に立上った。

 

かくして反英運動はインド全土に巻き起り、 各地で集会、 行進等の抗議運動が繰り広げられた。 チャンドラ・ボースの生誕地カルカッタでは十万の大衆が、 「インド国民軍 愛国の英雄を救え」 「インド国民軍の裁判を即時中止して釈放せよ」 「イギリスはインドから即時去れ」 「インドの統治権をインド人に返せ」 と叫んで集会、 行進、 罷業(ひぎょう)などの大示威行動を展開した。  こうしたインドあげての反英運動に対しイギリス官憲は徹底的に弾圧し死傷者は数千名に達した。しかしインドは独立をかちとるまで断じて反英運動を放棄しなかった。

 

かくして挙国の反英運動が約二年間続いた結果、 ついにイギリスは昭和二十二年八月十五日、 軍事裁判を中止し将校を釈放するとともにインドの独立を認めたのである。

 

インドの独立を成就せしめた根本的要因は、 チャンドラ・ボースの率いるインド国民軍が立上り対英戦を断行したことにある。 そしてチャンドラ・ボースとインド国民軍がイギリスに立向うことが出来たのは、 ひとえに日本軍がマレー ・ シンガポールにおいてイギリス軍を打破り完全に屈服せしめたからであり、 かつ藤原機関がインド国民軍を創設せしめたからにほかならない。

 

藤原は終戦後連合国軍総司令部の命令でインドで行われている既述の軍事裁判の弁護側証人としてデリーヘ赴いた。 この時首席弁護士のデザイは藤原に深い親愛の情をこめて次の様にのべている。

「日本がこのたびの大戦に敗れたことはまことに(いた)ましい。 ……日本は初めて敗戦の痛苦を()めることになりお気の毒である。 しかしどの民族でも幾度もこの悲運を経験している。 一旦の敗戦の如き必ずしも失望落胆するに当らない。 殊に優秀な貴国国民においておやである。 私は日本が極めて近い将来に必ずアジアの大国として再び復興繁栄することを信じて疑わない。  

インドはほどなく(まっと)うするその独立の契機を与えたのは日本である。 インドの独立は日本のお蔭で三十年早まった。 これはビルマ、 インドネシア、 ベトナムはじめ東南アジア諸民族共通である。 インド四億の国民はこれを深く肝銘している」

 

インドの独立は大東亜戦争における日本の蹶起に基づいている。 その他のアジア諸国も同様である。 インドの独立において藤原少佐と同機関の果した役割がいかに甚大なものであったかを知るべきである

 

 投獄

 

 デリーの軍事法廷へ証人として出向いた後藤原を待ちうけていたのはイギリスであった。 藤原はイギリスより戦犯容疑者として捕えられ、 カルカッタ、 ラングーン、 シンガポールにおいて約一年有余忍苦に満ちた牢獄生活を送った。

 

アメリカ、 イギリス、 オランダ、 中華民国等の戦勝国は戦後戦争裁判を行い、 数多くの罪なき日本軍人、 軍属、 一般日本人を戦犯として厳刑に処しそのうち約一千人を死刑にした。 それはインドのパール判事のいう如く全く無法不正の極みともいうべき勝者の敗者に対する 「儀式化された復讐」 にほかならなかった。

 

藤原らは在獄中イギリス側より容赦ない苛酷な扱いをうけた。 在獄の日本人はしばらくの間一日朝と昼の二回しか食事を与えられず、 しかも朝がビスケット三枚にスープ一椀と砂糖なしの紅茶一杯、 昼は野菜を煮こんだ雑炊一椀と紅茶一杯だけであった。 やせ衰えさせて早く死ねと言わんばかりのイギリスの虐待であった。 その上イギリス当局は藤原らを外に出しては駈足やひじ立て体操を強要した。 五十代の将官や佐官は一、 二回の駈足ですぐ疲労困憊(こんぱい)、 へたばってしまうが、 イギリス兵はそれを面白がり彼らを足蹴(あしげ)にして続行せしめた。

 

アメリカやイギリスなど戦勝国は東京裁判において原告は 「文明」 であるとして正義と人道の名において日本を裁いた。 その彼らは日本人戦犯容疑者に食物をまともに与えず、 老齢の将校を虐待して喜んだのである。 欧米人がいかに非道で残忍でしかも偽善のかたまりの人種であるかを藤原らは身をもって思い知らされた。 藤原らは老将官を助けおこしその足腰をさすりつつ悲憤の涙を流したのである。