第四章 藤原機関とインド独立(四)
チャンドラ・ボースと自由インド仮政府
インド独立に不滅の功績を残した人物こそチャンドラ・ボースである。 この人物をおいてインドの独立を語ることは空しい。 日本人の多くはインドといえばガンジーとネールしか知らないが、 この二人以上に重大な貢献をしたのがチャンドラ・ボースであった。
かねてより独立運動に挺身していたチャンドラ・ボースは当時イギリス官憲の弾圧を逃れてドイツにいたが、 大東亜戦争開始後急転したアジア情勢を見てこれをインド独立の絶好の機会と捉え、 昭和十八年五月、 日本へ来たり東條英機首相を始め政府及び軍部首脳と会見をとげた。 この時東條首相はチャンドラ・ボースが非凡なる人物であることを認め、 インド独立に全面的支援を与えることを約束した。
ボースは日本を立つ時、日本国民に次の言葉を残した。
「日本の皆さん、今から約四十年前、私がようやく小学校に通い始めた頃、 一東洋民族である日本が世界の強大国ロシアと戦いこれを大敗させました。 この知らせが全インドに伝わり興奮の波がインドを覆いました。 いたる所で旅順攻撃や奉天大会戦や日本海海戦の勇壮な話で持ちきりでした。 私たちインドの子供たちは東郷元帥や乃木大将を敬慕し尊敬しました。 元帥や大将の写真を手に入れようとしてもそれができず、 その代りに市場から日本の品物を買ってきて日本の象徴として家に飾ったものでした。
日本はこのたびインドの仇敵イギリスに対して宣戦しました。 日本は私たちインド人に対して独立のための〝絶好の機会″を与えました。 私たちはそれを自覚して感謝しています。 一度この機会を逃せば今後百年以上訪れることはないでしょう。 勝利は我々のものであり、 インドは独立することを確信しています」
このあと同年七月、 ボースは日本占領下のシンガポールに来り、 インド国民軍総帥となった。同時に自由インド仮政府の設立準備を始め十月二十一日、 自由インド仮政府を樹立、 政府首相に就任した。 日本は二十三日、 同政府を承認するとともに、 イギリス軍との戦いにおいて占領していたマレー半島西方海域にあるアンダマン諸島とニコバル諸島を同政府に返還した。 十月二十四日、 ボースの自由インド仮政府はイギリス、 アメリカに宣戦布告した。 仮政府の領土は二諸島のみ、 インド国民軍は一万数千名にすぎなかったが、 この時をインド独立唯一の機会として英米に対して敢然と立ち上ったチャンドラ・ボースは類い稀な英傑であった。
政府樹立に先立つ七月五日、 チャンドラ・ボースはシンガポール市庁前の広場でインド国民軍の閲兵式を行い、 一万五千の将兵に対し次の如き歴史的演説を行った。
「今日は私の生涯を通じて最も誇りとする日である。 インド国民軍の結成を世界に宣明する光栄の日である。 終生の希望を達成した私は心から神に感謝したい。 この軍は単にイギリスの桎梏からインドを解放するだけの軍隊ではない。 事の成就した暁には将来の自由インドの国軍となるべきものである。 この軍隊がかつてイギリスの牙城たりしシンガポールの地に編成されたことは最も意義が深い。 今この壇上に立つとイギリス帝国すでになしとの感が深い。
同志諸君! わが兵士諸君! 諸君の雄叫びは、 『デリーへ』 『デリーへ』 である。 われらの中に果して何名がこの戦いに生き残り得るかわからぬ。 しかし我々が最後の勝利を獲得することは間違いない。 我々の任務はあの古都デリーの赤城に入城式を行うまで終らないのである。
長い間の抗英闘争中インドがあらゆる闘争手段を持っていたが、 唯一持ち得なかったもの、そして最も重要なるもの、それは軍隊であった。私はこの軍隊のないことに切歯してきた。 それが現在ここにかくも精強な軍隊が現出したのである。 この歴史的軍隊に真先に挺身参加したのは諸君の特権であり名誉である。 今や諸君は独立獲得への過程における最後の障害を除去したのである。 かかる崇高への開拓者であり急先鋒であることは諸君の誇りである。
重ねて言おう。 かつて日本軍はこの大要塞シンガポールを落とすため怒濤のようにマレーに進撃し、 日々に叫んだ雄叫びは 『シンガポールヘ』、 『シンガポールヘ』 であった。 この雄叫びは見事に実現された。 我々はこの例にならって再び叫ぼう。 『チェロ、 デリー』 (デリーヘ)、 『チェロ、 デリー』 と。 デリーが再びわれらがものとなる日まで。
……兵士諸君! 自由獲得のためこの軍隊の最初の一兵士となることほど大きな名誉はない。しかし名誉には常に責任をともなうのである。 私自身私自身も深く自覚している。 私は諸君に暗黒にも光明にも悲しみにも喜びにも又受難のときにも勝利のときにも、 常に諸君とともにあることを誓う。
現在私が諸君に呈上し得るものは飢渇、 欠乏その上に進軍また進軍そして死以外のなにものでもない。 しかし諸君が生死を私に托して従うならば私は必ずや諸君を勝利と自由に導き得ると確信する。 我々の中幾人が生きて自由インドを見るかは問題ではない。 我々の母なる国インドが自由になること、 インドを自由にするため我々の全部を捧げること、 それで十分なのである」
感激の対面
その頃藤原機関は一応の目的を達したため解散し、 藤原はビルマにあった第十五軍参謀に転じていたが、 昭和十八年八月、 シンガポールでチャンドラ・ボースと感激的対面を行った。 藤原は南方総軍の会議のためにきたが、 両者はともにこの日の来るのを待ちわびていた。 その対面がいかなるものであったかは、 藤原自身の言葉を聴くにしくはない。
「半歳ぶりにラーマン中佐をはじめ知己の将校が、 遠来の肉親を迎える喜びを満面に待っていた。 私達はラーマン中佐に導かれて広い応接間に通った。 そこには一団の知己の高級将校が温い眼差しを私達に注ぎつつ並んでいた。
その中央から軍服に身を固め巨躯群を抜き気品と威厳ひときわ見事な偉丈夫が私達の前に進み出た。 いともにこやかに、 気軽に。 ラーマン中佐の紹介を待つまでもなく、 私はそれがネタージ・ボース(岡田註・ネタージは統帥の意でチャンドラ・ボースの愛称)と見てとった。 満面に十年の知己いな盟友を待つ信頼と期待と親しみが溢れていた。 哲人を思わせる純潔高貴な相貌、 その中に秘められた鋼鉄の意志と烈火の闘魂が偲ばれる。 高邁な英智と洗練された国際的教養がうかがわれる。 一見して非凡の傑士であることが感得された。
ネタージ・ボースは千田翁の紹介で、 まず久野村参謀長と挨拶を交わした後、 私の前に進み寄って私の掌をしかと握りしめた。 万斛 (非常に多いこと) の温情をこめた眼差しと、 メージャー (少佐) ・フジワラと呼ぶその声に、 彼の知遇と友情とが電流のように私の全身に流れた。 やゝあって彼は私の肩に手をかけ抱くようにして私をソファに招いた。 取巻く知己のINA (インド国民軍) 将校が無量の思いで私を見守っていた。
一同席についてからネタージは私のために千金の言葉を次々と話しかけてくれた。 中でも血盟の友プ氏 (プリタムシン) とモ将軍 (モハンシン) に対する深い愛情と高い評価が私の感動を誘った。
『メージャー・フジワラ、 私は今の対面をベルリン以来待望していた (プリタムシン氏の通信連絡で承知していたらしい) 。 ほんとうに嬉しい。 貴官のINAに対する不滅の寄与については、 モ将軍 (既に流誦のモ将軍と会って、 INA創設以来の経緯を聞いているようであった) や、 IIL (インド独立連盟)、 INAの同志や国塚少尉 (藤原機関メンバーで光機関長の通訳将校) 、 千田氏から承っている。 我々が生涯望み焦がれて得られなかった革命軍を組織して私の手に授けてくれた貴官とプ氏、 モ将軍こそINA産みの親である。 インド国民に代って心から御礼を申上げる。 プ氏 (岡田註・既に死去) とモ将軍が今日この席にいないことは真に残念である。 しかし私はプ氏と将軍の志と功業を高く評価し感謝している』」
かくのごとくチャンドラ・ボースは藤原に対し 「十年の盟友」 の如き信頼と 「万斛の温情」 を以て迎えた。 チャンドラ・ボースの藤原への思いの深さと、 これに対する藤原の言い知れぬ感銘がよくわかる。