第四章 藤原機関とインド独立(三)
敵味方を越えた誠意
さらにインド兵が降伏してから三日目、 藤原はインド兵との親睦を深める為、 将校及び下士官らとの会食を企て、 彼らの好むインド料理を彼らに作らせた。 かくして戦争のさなか藤原ら日本人将校と捕虜であるインド人将校下士官との会食という前代未間のことが行われたのである。 食事中かき集められた雑多な楽器によるインド音楽の演奏も藤原により許された。
藤原が日印両国人の親善の一助にと軽い気持ちで行ったこの会食は、 インド人の間に多大の感激をもたらさずにおかなかった。 会食が始められるにあたりインド人将校を代表してモハンシン大尉は、 次の様に藤原の厚意に深甚の謝意を表した。
「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が一昨日投降したばかりの敗戦軍のインド兵捕虜、 それも下士官まで加えて同じ食卓でインド料理の会食をするなどということは、 英軍の中ではなにびとも夢想だにできないことであった。 英軍の中では同じ部隊の戦友でありながら、 英人将校がインド兵と食を共にしたことはなかった。 インド人将校の熱意にもかかわらず、 将校集会所でときにインド料理を用いてほしいと願う我らの提案さえ容れられなかった。 藤原少佐のこの敵味方、 勝者敗者、 民族の相違を超えた温い催しこそは、 一昨日来我々に示されつつある友愛の実践とともに、 日本のインドに対する誠意の千万言に優る実証である。 インド兵一同の感激は表現の言葉もないほどである」
インドを植民地として長年支配したイギリスはインド人を徹底的に差別した。 ところが日本軍は敗者であり捕虜であるインド兵に対して、 かくも思いやりある扱いをほどこした。 それに対する彼らの名状につくしがたい感激がここに率直に語られている。
藤原らは初めて口にする舌のしびれるような辛いインド料理を、 インド人同様手づかみで食べたのである。 こうして藤原とインド投降兵は、三日もたたぬ間に心を通わし合い親密さを深めていった。 インド兵は敬愛をこめた眼差しで藤原に敬礼し、 藤原はかつての隊付将校時代に親愛した部下を見るが如き思いに陥り答礼を返したのである。 藤原はインド兵を注意深く観察したが、 その中心に立っていたモハンシン大尉のすぐれた人格を確認した。
インド国民軍の誕生
モハンシン大尉の人物を見込んだ藤原は毎夜遅くまで大尉と意見を交した。 藤原は大東亜戦争が長年欧米に支配されてきた東亜の解放、 民族の独立の為に唯一絶好の機会であること、 インド民族がこの機に独立を自らかちとらねばならぬこと、 日本は協力を惜しまぬこと、 そしてインド独立の為にはインド投降兵を以てインド国民軍を組織することが必須の要件であることを諄々と説いた。 さらに藤原はモハンシン大尉とプリタムシンインド独立連盟書記長を、 山下第二十五軍司令官に会わせた。 山下は彼らの来訪を喜び日本軍がインド独立を強く支援することを表明するとともに、 「藤原少佐を心友とし立て、 一心同体アジアの興隆、 インド独立の為に戦って下さい」 と激励した。
かくして昭和十六年十二月末、 モハンシン大尉は仲間の将校と熟議を重ねた結果、 ついに日本軍の全幅の支援を条件にインド国民軍を結成することを決意した。 インド国民軍はモハンシンを司令官としイギリス軍内のインド投降兵を以てここに成立を見たのである。 このインド国民軍の設立こそインドの光栄ある独立にとって、 その基礎を打ち固める最も重大な第一歩であったのである。
以後藤原機関とインド国民軍はインド兵投降工作をいかに推進したであろうか。 それは決して容易なことではなかった。 日英両軍が対陣し弾丸が飛びかう中にこれを行わねばならなかったからである。 まず藤原機関の連絡班がインド国民軍の宣伝班を最前線に誘導したあと、 宣伝班が巧みにイギリス軍内に潜入してイギリス人将校に見つからぬ様注意しつつインド兵に接触して投降を勧誘するのだが、 まさにそれは命がけの困難な任務であった。 しかしこの投降工作は見事に成功し、 昭和十七年一月中旬、 投降兵は二千五百名に達し、 二月のシンガポール陥落直前には五千名を超えた。
一方、 山下軍はわずか二ヶ月余りでマレー半島を突破し、 昭和十七年二月十五日、 イギリスのアジア侵略の牙城たる難攻不落の要塞とされたシンガポールを陥落せしめた。 この時降伏したイギリス軍は十万を超えたが、 そのうち約五万名がインド兵であった。 藤原は軍司令部よりこのインド兵捕虜の接収を命ぜられたのである。
藤原の獅子叱 ― 五万のインド兵への演説
二月十七日、 藤原はイギリス軍より正式にインド兵捕虜を接収した後、 シンガポールの競馬場に集められた五万のインド兵に対して演説を行い、 彼らにインド国民軍への参加をよびかけたのである。
壇上に立った藤原はインド兵の注視の中、 直立不動、 誠意をこめて挙手の敬礼をした。 座って見上げていたインド兵の多くが反射的に挙手の敬礼をしたり、 頭を下げたり手を合わせたりした。 捕虜に対して敬礼する戦勝軍など世界のどこにもないが、 こうした立派な武士道精神を体した軍人が藤原であった。 藤原は全身の血をたぎらせて力強く語りかけた。
「親愛なるインド兵諸君、 私は日本軍を代表してイギリス軍当局からインド兵諸君を接収し、 諸君と日本軍、 インド国民と日本国民との友愛を取り結ぶ為に参った藤原機関長・藤原少佐であります」
藤原の言葉が部下により英語に訳されると、 前列のインド人将校が領く。 次いでインド国民軍将校によりヒンズー語に訳されると、 後ろのインド兵たちが一斉に領いた。
藤原は日本の戦争目的の一つは東亜民族の解放にあり 、 日本はインドの独立達成を強く願いその運動を誠意をもって援助する用意があること、 そしてシンガポールが陥落した今こそ、 イギリス始め欧米列強の支配下にある東亜諸民族がその鉄の鎖を断ち切って 解放・独立 を実現する歴史的契機であることを強く訴えた。 火を吐くような熱弁にインド将兵は次第に熱狂状態となり満場は拍手と歓声でどよめいた。 藤原は最後を次の言葉で結んだ。
「そもそも民族の光輝ある自由と独立とはその民族自ら蹶起して自らの力をもって闘い取られたものでなければならない。 日本軍はインド兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の為に忠誠を誓い、 インド国民軍に参加を希望するならば日本軍捕虜としての扱いを停止し諸君の闘争の自由を認めまた全面的支援を与えんとするものである」
四十分にわたる藤原の演説が終るや、 全インド将兵は総立ちとなって狂喜歓呼し幾千の帽子が空を舞った。
かくしてここに一万数千名のインド兵捕虜がインド国民軍に参加し、 やがて三個師団の軍容を備えるに至る。 この時モハンシンは少将に昇進、 引続きインド国民軍を統率することになった。 翌年インド国民軍はドイツに亡命していたチャンドラ・ボースを総帥に迎えインド独立に向い邁進するが、 このインド国民軍創設に最大の寄与をした人物こそ藤原岩市少佐にほかならなかったのである。