第四章 藤原機関とインド独立(二)
瀕死の重傷から立ち直る ― 部下の過失を咎めず
藤原岩市は明治四十一年三月一日、 兵庫県多可郡黒田町の農家に生まれた。 天衣無縫の元気溌剌たる腕白少年で山野を駆け回って戦ごっこの毎日を過ごした。 両親には素直で農作業や家の手伝いはよくしたが、 小学校四年生ごろまでは勉強嫌いで成績も良くなかった。 家計は決して楽ではなかったが、 両親は中学進学を奨めてくれた。 藤原は心を入れ替えて勉学に励み県立篠山中学に進んだ。 家から十キロの道を五年間自転車で通学した。 母は毎朝四時半に起き弁当を作ってくれた。 両親の愛情と期待に応えて一心に学んだ藤原は常に学年一、 二番の成績だった。 両親は高等学校から大学へ行かせてやりたかったが、 そこまでの経済的余裕はなかった。 そこでやむなく学費のいらない陸軍士官学校か海軍兵学校への進学を勧めた。 こうして藤原は軍人になる決意をし、 昭和二年、 陸軍士官学校に入学した。
昭和六年、 優秀な成績で卒業、 少尉となり中尉に進んだが、 勤務においても申し分なかったので昭和十年春、 連隊長から命じられて陸軍大学校を受験した。 陸軍大学校は優秀な中・少尉だけが受験できる狭き門で卒業生は将来陸軍の高級幹部となる。 藤原は第一次の筆記試験に通った。 その後第二次の口頭試験がある。 その間、 藤原は豊橋の陸軍教導学校で下士官の教育に当っていたが、 ここで瀕死の重傷を負った。 野営訓練で二隊に分れての攻防演習が行われた夜中のこと、 すぐ近くでマッチを摺る音がした。 誰かが煙草を吸おうとしていると思った藤原は注意しようと走り寄った。 その刹那、 藤原は顎が砕けたような衝撃を受けて昏倒した。 直径十センチ余りの球型の照明弾が口を直撃したのだ。
大騒ぎとなり演習は中止、 藤原は直ちに陸軍病院に運ばれ応急手当を受けた。 上下八本の歯が吹き飛び、 歯茎の骨が砕け、 下唇が左端の皮一枚でぶら下っていた。 舌だけは事なきを得たが一言も口をきくことはできず、 とめどなく血が流れた。 藤原は出血多量で命はもつまいと覚悟した。 たとえ助かっても軍人としてやってゆけぬ体になると観念せざるを得なかった。 これまで自分を育て大きな期待をかけてくれた父母のことを思うと涙が流れ落ちた。
そこに中隊長が一人の下士官を連れて見舞にやってきて事故の事情をのべた。 この下士官が斥候長となって制限線内に進入し、 照明弾の筒の導火掌に点火した。 藤原から咎められたのはその瞬間である。 制限違反を恐れた下士官があわてて逃げ出したため、 筒が直立せず事故に至ったのであった。 下士官は悄然として詫びた。 口のきけない藤原は看護婦長に用紙と鉛筆を求めてこう記した。
「自分が生徒の喫煙と早合点し、 叱声をあげて走り寄った動作が悪かった。 下士官に責任を問わないでほしい」
中隊長は一読して深くうなずきこれを下士官に渡した。 彼は涙を浮かべて謝意をのベ重ねて詫び入った。 藤原はこの傷で陸軍を去ることになってもそれは自分の宿命である。 若い下士官を傷つけたくないと願ったのである。
当たり所がもう少し上方なら命取りになっていただろう重傷は、 陸軍病院の手厚い治療によって軍医らが驚くほど急速に回復に向った。 また下唇が皮一枚で残ったため軍務に耐えぬ体になることを免れた。 まことに不幸中の幸いであった。 約二ヵ月の治療の末、 義歯を入れた藤原は不自由ながら口がきけるようになり、 軽い食事もとれるようになった。 軍医は順調な回復を喜び、 この分なら十二月の陸大の第二次試験が受けられそうだと言ってくれた。 軍人廃業まで覚悟していた藤原に希望が蘇った。
こうして藤原は第二次試験を受けた。 いまだ自由に口がきけなかったから十日間の口頭試験は難儀そのものだったが、 見事に合格した。 一度は死を覚悟した身だから三年間猛然と学び、 最優等生数名に次ぐ好成績で陸大を終えた。 そのとき在校中特に目をかけてくれた大学校幹事塚田攻少将に呼ばれた。 塚田は温顔をほころばせてこう語った。
「藤原大尉、 よく勉強したね。 素晴らしい成績だ。 恩賜受賞(最優秀の数名は天皇より軍刀を下賜される)候補者に挙げられたが全教官一致の推挙が得られなかったよ、 準恩賜組だ。 君は屈託のない荒削りのまま伸びて行け、 大成するよ」
藤原は塚田の恩言に感涙し終生これを守ることを誓った。 以後、 中隊長、 第二十一軍参謀を経て昭和十四年、 参謀本部兼大本営参謀をつとめ、 開戦直前、 対イギリス及びインド工作という重大任務が与えられたのである。
インド兵の投降
同年十月、 藤原は部下を伴いタイのバンコックに赴き、 この地においてインド独立連盟書記長プリタムシンとひそかに会見し互いの協力を約し合った。 藤原機関の対インド人工作の主眼は、 開戦と同時にインド独立連盟の同志を支援し敵戦線内に進み入り、 直接イギリス軍内のインド兵を投降させ同志を獲得せしめることであった。
十二月八日、 米英に宣戦布告をすると同時に山下奉文中将の率いるわが第二十五軍はマレー半島に上陸、 怒濤の進撃を開始し約一千キロの半島を破竹の勢いで南下、 至る所でイギリス軍をなぎ倒した。 藤原機関はこの第二十五軍とともに進み工作を開始したが、 開戦間もないある時イギリス軍の一大隊が退路を断たれ孤立しているとの情報が藤原のもとに届いた。 その大隊はイギリス人の大隊長を除き中隊長以下すべてインド人であった。
そこで藤原は好機来れりと部下の一大尉と通訳一名並びにインド独立連盟書記長プリタムシンを伴い、 軍刀のほか一切武器を持たず現地に向った。 到着するや藤原は英人大隊長に椅子を与え温いコーヒーをすすめた上で、 随所に日本軍がイギリス軍を圧倒している戦況を述べ、 この上は無益の抵抗を行い部下を犠牲にせざることを強調するとともに投降を勧告、 武士道精神にもとづき投降将兵を処遇することを申し入れたところ、 英人大隊長はしばらく考えた末これを受諾した。 こうして約二百名のインド兵が投降したが、 この中にやがてインド国民軍の創設者たる栄誉を担うモハンシン大尉がいた。
この時の藤原の態度はインド兵を驚かさずにはおかなかった。 藤原はたった二人の部下と共に敵中にのりこみ、 インド兵に対して厳然とした中にも誠意あふれる姿勢で接したことがインド兵に少からぬ感銘を与えたのである。 投降兵は直ちにアロルスターという町に収容されたが、 この時日本軍はイギリス軍を追撃してこの町をあとにしていた。 そのため町を警備する者がなく一部のマレー人やインド人が自昼町を荒し略奪や強盗を働き始めた。 そこで藤原はこの投降兵に梶棒と手錠を持たせ治安の任につかせたところ、 一時間足らずでたちまち混乱がおさまり平生の秩序に復したのである。 捕虜をもって町の警備に当たらせるというこうした藤原のやり方は、 インド兵にとり全く思いも寄らぬことであった。だが藤原はインド兵を信じてあえてこの措置をとったのである。