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親日はかくして生まれた 第四章 藤原機関とインド独立(一)

 皆さんは、インドが親日国家であることをご存じでしょうか。ご存じない方も多いと思うのですが、インドの人々がインド独立という思いを持ったのは、日露戦争で日本が大国ロシアに勝利したことと、藤原岩市少佐が率いた藤原機関によりインド独立に向けての基盤作りにあったのです。

 

 インドは世界有数の親日国である。その理由はインドの独立に日本が絶大な貢献をしたからだ。大東亜戦争開始後、対インド・マレー工作を担当したのが藤原機関だが、日本軍がマレー半島を進撃中、機関長の藤原岩市陸軍少佐はイギリス軍内のインド兵に投降を働きかけインド国民軍を結成させた。これがインド独立の(いしづえ)となるのである。(岡田幹彦先生ご著書「日本の誇り 103人」より)

 


第四章 藤原機関とインド独立(一)

 

インドはなぜ日本を親愛するのか

 

世界で最も親日的な国の一つがインドであることは、 今日多くの人々の知るところである。 インド人に 「一番好きな国はどこか」 との調査を行うと必ず日本が第一位になる。 平成十二年、  駐日インド大使として赴任したアフターブ ・ セット氏は大の親日家だが、 翌年、 『象は痩せても象である』 という自著を出している。 氏は二十代の時にわが国に留学、 その後インド外務省に入り間もなく駐日大使館に勤務後、 三十年ぶりに日本の土を踏んだ。 彼は 「日本を慕って」 やまず 「日本は第二の故郷」 と言い、 駐日大使になったことを 「さしずめ故郷に錦を飾るという思い」 とまでのべている。

 

氏はなぜかくも日本を親愛するのか。 その最大の理由が日露戦争と大東亜(だいとうあ)戦争にある。 日露戦争によリインド人は独立への希望と勇気を与えられ、 大東亜戦争によってインドは独立を達成し得たからである。 氏がこの本を著したのは敬愛してやまぬ日本及び日本人が今日悲観的になり自信を失っていることを憂慮して、 「日本人よ、 自信を取り戻せ」 と激励するためであつた。 日本は幕末、 明治維新以来近代百数十年の歴史において幾度も難局、 危機に直面してきたが、 いつも見事に乗り越えてきたではないか。 世界に比類なき歴史、 伝統、 文化を有する優秀な日本民族が現在の難局を打開できない筈はないと氏は鼓舞(こぶ)鞭励(べんれい)してやまないのである。 本書の題名はインドの(ことわざ)だが、 氏は日本を象にたとえている。 巨大で強い力を持つ象は少々痩せたところで依然として巨象であることに変りなく、 いささかもたじろぐことはないというのだ。 アジアの国家民族にとり手本となりうるのは決して欧米ではなくそれは日本なのだから、 どうか我々の先頭に立って進んでほしいという内容である。

 

インド人が民族自立に目覚めた最大の契機は何といっても日露戦争である。 それはインド人だけではなく植民地、 属国として支配されたあらゆる国家民族に深甚の衝撃と影響を与えずにおかなかった。 この戦争こそ欧米白人種の非西洋諸国に対する抜き難い人種偏見に基づく長年の植民地支配を打破する出発となった世界史を根本から変える一大事件であった。

 

 日本の勝利にインド人がいかに感激、 興奮したか一例をあげよう。 インドの初代首相ネールは昭和三十二年、 岸信介が日本の首相としてはじめてインドを訪問したときその歓迎大会で次の様にのべている。

 「このとき私はまだ十六歳の少年であった。 しかし私はその頃起った日露戦争、 そしてこの戦争における日本の勝利に非常な感激を受けた。 私は当時は日本とロシアの双方について多くを知るところがなかったが、 しかし少年の私の胸にもヨーロッパのアジアに対する侵略の波を阻上した日本の姿が、 アジアの英雄のごとくに映った。 アジアを隷属化せんとするヨーロッパの侵略的勢力に対して、 当時の日本はアジアの決意の象徴のごとく起ち上ったのである。

この時の感激が私の胸裡(きょうり)にアジアに対する感情をよびさまし、 やがてインドも独立を達成して他のアジア民族を助けて、 ヨーロッパの桎梏(しっこく)から解放せねばならぬという自覚を抱くに至ったのである。 この時以来、 私は常に日本に対して大きな尊敬を払うようになった」

 

 藤原機関の誕生 ― アジア解放の思想戦

 

 大東亜戦争は日本の自衛の戦いであつたが、同時に欧米に植民地、属国として支配さ れてきた東亜諸民族を解放、独立させる戦いでもあつた。わが国は緒戦においてアメリ ヵ 、 イギリス、オランダ軍を打倒し、フィリピン、マレー、シンガポール、ビルマ、イ ンドネシアに対する彼らの長年の植民地支配を遂に打ち破った。それはイギリスの宝庫 とされたインド及びインド人に甚大な影響を与えずにおかなかったのである。日本軍は マレloシンガポールのイギリス軍と戦闘中、降伏したイギリス軍中のインド人将兵に 呼びかけインド国民軍を結成せしめることに成功するが、これに尽力したのが藤原岩市 少佐を長とする藤原機関である。

 

 日米交渉が行詰り対米戦争がもはや避け難い状況となった昭和十六年九月、 大本営参謀藤原岩市陸軍少佐は杉山(はじめ)参謀総長より、 対米英戦争が勃発した場合マレー半島方面においてイギリス軍内のインド兵に対し投降工作を行い将来のインド独立の基盤を作ること、 並びにマレー人民との親善協力を促進することを命ぜられた。 それは想うだに困難に満ちた重大任務であったから、 この任を受けるに当り藤原は非常に悩んだ。

 

藤原は陸軍士官学校を経てやがて陸軍大学校に進んだ俊秀ではあったが、 こうした特殊任務の訓練は一切受けてなく、 異民族を相手とする工作において必須の英語もマレー語もインド語も出来なかった。 一時はこれを辞退せんとしたが、 考え抜いた末藤原はこれを受けた。 こうして対英及びインド工作の機関として 「藤原機関」 が発足、 藤原には五名の将校が部下としてつけられた。

 

藤原はこの困難極まる重大任務にいかに取組まんとしたのであろうか。 五人の部下に対して彼はその基本的姿勢につき次の様に語った。

「敵味方を超越した広大な陛下の御仁慈(ごじんじ)を拝察し、 これを戦地の住民の敵、 特に捕虜に身をもって伝えることだ。 そして敵にも住民にも大御心(おおみごころ)に感銘させ、 日本軍と協力して硝煙の中に新しい友情と平和の基礎を打ち建てねばならない。 ……日本の戦いは住民と捕虜を真に自由にし幸福にし、 また民族の念願を達成させる正義の戦いであることを感得させ、 彼らの共鳴を得るのでなくてはならぬ。

武力戦で勝ってもこの思想戦に破れたのでは戦勝を完うし得ないし、 戦争の意義がなくなる。  なおこの種の仕事に携わる者は諸民族の独立運動者以上にその運動に情熱と信念をもたねばならぬ。 そしておたがいは最も謙虚でつつましやかでなくてはならぬ。 ……我々はあくまでも縁の下の力持で甘んずべきだ。 我々は武器をもって戦う代りに、 高い道義をもって戦うのである。我々に大切なものは力ではなく信念と至誠と情熱と仁愛である」

 

藤原の言葉に五名の部下は心より共鳴しこのあと打ち揃って明治神宮に参拝、 その誓いを神前に捧げた。 藤原らはこの誓いに(そむ)かず重大なる任務の遂行に成功するのである。