吉田松陰 日本救国の天使(6)
井伊の暴政に一人立ち上がる
幕府の弾圧が始まると諸藩は震え上がってしまいました。 当時第一の勤皇藩と言われた長州藩も同様の有様です。 誰も井伊の独裁専制に抵抗することはできなかっ たのです。
この我が国最大の危機に際し、 命をかけて立ち上がったのが吉田松陰でした。 松陰は松下村塾で教育する以外、 政治的な活動は一切禁止されていましたが、 日本が自滅していくのを黙って見ていることはできませんでした。
勅答を無視した幕府を許す道理はない。 長州藩は今こそ立ち上がるべきであると松陰は藩政府に訴えました。 しかし幕府を恐れる長州藩は、 とてもそんなことはできません。 松陰は藩がやらないのであれば自分がやると決断し、 直ちに行動せんとします。 京都に乗りこむ間部詮勝を討つべく、 藩に対し武器弾薬の提供を求めました。 これに対し長州藩は、 松陰を乱心者扱いし、 再び野山獄に幽閉しその行動を束縛しました。
その少し後の安政六年 (一八五九) 四月、 幕府が吉田松陰を江戸に檻送するように命じてきました。 これに対し長州藩は何の抵抗もできませんでした。 江戸に送られた松陰は伝馬町の獄につながれ、 十月に処刑されます。
吉田松陰が死刑にされるまでの最後の一年は、 松陰のひたすら国家を憂いてやまぬ精神と行動が凝縮されています。 断崖絶壁に追いつめられた日本を救わんとする松陰の血の叫びがそこにあります。 この間の松陰の心の奥底を知らなければ、 松陰の本当の偉大さが分かったとは言えません。
幕府が違勅調印を強行したとき、 松陰は何と言っているか。
墨夷 (アメリカ)の脅嚇、 幕府おそれてこれを聴き、 また国体を顧みず。
幕府はアメリカの脅迫に屈服して言いなりになり、 日本の国体を護りぬくことを怠っている。 なぜ幕府はこのような腑甲斐なき土下座外交を行うのか。
何となれば征夷 (大将軍) 死をおそれ候ゆえ、 違勅して虜 (欧米) に和し候。 諸侯死をおそれ候ゆえ、 違勅して幕に阿り候。
違勅調印したのは徳川幕府と将軍がその本来の任務である夷狄を打ち払う戦いを恐れ、 死を恐れたからである。 また藩主たちも同様戦いを恐れ死を恐れ自藩が取り 潰されることを恐れたから、 勅答に背いて幕府に阿諛迎合したのである。 このように松陰は言っているのです。 しかし、 一人松陰はそうではありません。
只今吾が輩のみ死をおそれざるゆえ、 政府 (長州藩) へ抗論致し候。
私は死を恐れないから、 勅答に従わぬ幕府にへつらう藩に対して抗議するのである。 松陰はなぜ長州藩は立ち上がり幕府の過ちを正さないのだと言って抗議します。 しかし、 幕府を恐れる長州藩は全く動こうとしません。 藩が動かないのであれば自分が立つと言って松陰は行動に出ようとします。
孝明天皇の御深慮を想えばこそ
人々が井伊の弾圧と暴政におびえていた中で、 なぜ松陰は一人でも立ち上がろう としたのか。
元来、 皇太神 (天照大御神) の神勅無になり候ことをお嘆き思召せばこそ、 主上 (孝明天皇) の御苦労遊ばされ候事にて、 その御苦労を体し候えばこそ、 吾が輩かくまで精神をこらし候ことに候 。
日嗣 (天皇) の隆えまさんこと天壌と窮りなしと申すは神勅なり。 只今幕府の処置にては日嗣の滅亡に至るなり。 天子様 (天皇) ここにお気が付き候。 恐れながら吾々もここに気が付き候
※神勅
豊葦原千五百秋之瑞穂国 (日本) は是れ吾が子孫の王たるべき地なり。 宜しく爾(なんじ) 皇孫就きて治せ。 行くませ。 宝祚 (天津日嗣・天皇) の隆えまさんこと、 当に天壌 (天地) と窮り無かるべし。 (『日本書紀』)
アメリカに屈服し続けた末、 こうした不平等の通商条約を結べば、 やがて天照大御神の天壌無窮の神勅が無になり、 天皇国日本は滅亡する。 孝明天皇はこれを深く憂慮されたからこそ条約締結に反対されたのである。 その孝明天皇の御心を体せばこそ自分はここまで心を尽くすのだ。 孝明天皇の御深憂、 御苦悩を思い、 何としても天皇国日本を守るために、 松陰は身を捨てて立ち上ろうとしたのです。
天皇国日本は永遠であるというのはいとも尊い神勅であるけれども、 今の幕府のやり方のままでは日本は滅亡してしまう。 孝明天皇はそこに気付かれ、 私もまたそれにはっきりと気づいた。 だからこそ松陰は長州藩が立たないのであれば自分が立つと言うのです。 このままでは日本は必ず滅びてしまう。 この絶体絶命の危機感。 これがわからなければ吉田松陰の真の姿と、 なぜ明治維新がおこったか決して理解できません。 ここに松陰の肺腑の底からの血の叫びがあるのです。