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吉田松陰 日本救国の天使 (5)

吉田松陰 日本救国の天使(5)

 

松陰の深い祈りと至誠

 

ところで、 吉田松陰が獄を出ることを許され自宅謹慎処分となったとき、 父の杉 百合之(ゆりの)(すけ)は 「家で孟子(もうし)の講義を続けなさい。 私達が聞く」 と言って、 杉家で孟子の 講義が行われました。 松陰を先生として、 父や兄、 そして親戚の人達が講義を聞い たのです。 実に立派な家庭でした。 その中で最も大切な松陰の言葉がこれです。

 

 ()ず一心を正し、 人倫の重きを思い、 皇国の尊きを思い、 夷狄(いてき)() (日本を侵略せんとする欧米諸国のわざわい) を思い、 事に()き類に()(あい)(とも)切磋(せっさ)講究(こうきゅう) (磨き合い学び合うこと) し、 死に致るまで()(ねん)なく、 片言(へんげん)隻語(せきご)(これ)を離るることなくんば、 縦令(たとい)幽囚(ゆうしゅう)に死すと(いえど)も、 天下後世必ず吾が志を継ぎ成す者あらん。

 

このときまだ松下村塾は開かれておらず、 弟子は誰もいないときです。 松陰は、 人の踏むべき道、 皇国の尊さ、 そして日本を狙う欧米列強の(わざわい)い、 この三つのことを死に至るまで他念なくひたすら説き続けるのだというのです。 そうすれば例え幽 囚の身で死のうとも、 後世必ず私の志を継ぐ者が出てくるに違いないと言うのです。 もしこれを他人がきけば、 松陰は手足を束縛された謹慎生活をしているのに、 この大言壮語は狂気の沙汰(さた)と思うことでしょう。 しかしここに松陰の深い祈り、 神願があります。 この願いはやがて実現します。 この深い祈りに感応し、 実際に松陰の志を継ぐものが次々と現れました。 これほどの言葉を吐きこれを実現しえた松陰の偉大さがここにあります。 松陰のこの気高い精神は百年以上経った今日においても、 私達の魂を揺さぶって止まないのです。

 

ですから、 こういう本当に立派な先人の心を知るためには、 本人の書いたものを 読まなければなりません。 松陰の文章は難しく、 一回読んだだけではよく分からな いと思いますが、 何度も読むうちにわかってきます。 また松陰は文章の大事なとこ ろ、 感銘したところは書き抜けと言っています。 これに従い私も幾度も読み、 書き抜いてきました。 松陰の文章を読み松陰の魂に触れることにより私たちの心が揺さぶられ、 次第に日本人の魂が覚醒させられてゆきます。

 

松陰は、 「至誠(しせい)にして動かざるものいまだこれあらざるなり」 と言っています。 至誠をつくせば、 それに動かされない者はいない。 至誠とは誠、 真心を尽すということです。 実はこの言葉は孟子の一節です。 しかし、 孟子の文章というよりも吉田松陰が言った言葉として受けとめたほうが私達の心に響きます。 吉田松陰は、 実際にこの言葉を実践した人なのです。 この松陰の至誠に触れた人達が、 未曾有の国難に奮い立ったのです。

 

 アメリカの威圧に屈服する幕府

 

 吉田松陰は松下村塾の教育を続けるだけでは終わりませんでした。 この間に重大 な問題が起こります。 日米の通商条約問題です。 ペリーがやってきて日米和親条約 が結ばれ開国となりましたが、 ところが貿易上の取り決めはしていませんでした。 そのため、 今度はハリスがやってきます。 ハリスもペリー同様、 日本をおどし続け日米修好通商条約 (安政五年六月) を締結させるのです。 ハリスは二言目には、 この条約をのまないと戦争をするぞと威嚇しました。

 

この日米通商条約こそ、 以後半世紀以上わが国を苦しめた不平等条約だったので す。 簡単に言うと、 まず関税自主権が日本にありません。 日本の関税は一律五パー セント。 それ以上課すことを認めないとされました。 もう一つ不平等な点は、 治外法権を認めさせられたことです。 外国人が日本で悪いことをすれば、 日本人が日本の法律で日本の裁判所で裁く。 これが当然です。 ところがアメリカは、 日本のような未開野蛮の国がアメリカ人を裁くことは認めないとして、 日本で犯罪を犯したアメリカ人はアメリカの領事がアメリカの法律で裁くとしたのです。 幕府はこの二つの致命的な欠陥のある不平等条約を、 威圧に屈して調印してしまいました。

 

徳川幕府は日米通商条約を 「違勅(いちょく)調印」 しました。 この条約を結ぶとき反対する藩がありましたが、 御三家の二つ尾張藩と水戸藩まで反対していました。 この条約はそれほど問題があったのです。 幕府は身内からも反対が出たことに(あせ)り、 何としても反対派を押さえつけようとしました。 このとき幕府がとった策が、 朝廷の権威を借りるというものです。 天皇陛下の許可をいただいて反対派を押さえつけようとしたのです。  徳川家康以来、 政治外交一切を専断してきた幕府が、 自らのご都合主義で朝廷を 「政治利用」 しようとしたのです。

 

ところが孝明天皇は猛反対されました。 いま孝明天皇のことを知っている人はほとんどいませんけれども、 実に偉大な方でした。 日米通商条約の締結は日本の国体 に致命傷を与えるということを深く憂いておられたのです。

孝明天皇は幕府に対し、 条約締結には反対者が多いので、 再度衆議を尽くし言上 するようにと答えられます。 これが孝明天皇の勅答(ちょくとう)です。 幕府は朝廷にお伺いを立 てたのですから、 勅答に従わなければいけません。 ところが大老の井伊(いい)(なお)(すけ)は、 そ の勅答に違反して条約調印を独断で強行しましたから、これを違勅調印といいます。

 

このように徳川幕府の政治外交はアメリカにひたすら屈従するというもので、 日本の自主独立を断固として守るという気概は全くありませんでした。 そもそも征夷大将軍の第一の任務は、 外圧を払いのけ朝廷をお守りし日本の独立を堅持することですが、 幕府はその任務を放棄していたのです。 国内では威張り返っているのに、 ァメリカには平身低頭の連続です。 ァメリカは武力で威圧すれば幕府は必ず屈服するとなめきっていました。 このままでは他の有色民族と同様、 欧米列強の植民地、 属国となることは必至でした。 こうして日本は八方ふさがりとなり、 滅亡の淵に追いやられるのです。

 

幕府の違勅調印は、 国内法的立場から言えば無効という論理が成り立ちます。 幕府の独断専行に対してさすがに強い非難の声が次々と噴出しました。 ところが井伊直弼はそれらの人々を弾圧しました。 これが安政の大獄です。

 

井伊直弼の命を受けて、 老中の間部(まべ)(あき)(かつ)が京都に行き、 反対派の処罰に乗り出しました。 幕府に反対する()(ぎょう)たちを一斉に処分して朝廷に弾圧を加え、 さらに志士たちを次々と逮捕していきました。 尾張藩、 水戸藩など幕府に従わない藩主は謹慎処分にし、 藩主を替えてしまいました。 そして吉田松陰、 橋本左内などの人々を容赦なく処刑したのです。