吉田松陰 日本救国の天使(2)
やむにやまれぬ大和魂
この日本の未曾有の危機に際し、 吉田松陰は実際に欧米列強をつぶさに知るため、 下田でペリーの艦隊に乗り込んで渡航しようとします。 しかし残念ながらそれに失敗し、 松陰は行動を共にした金子重輔とともに江戸の牢屋にいれられてしまいました。 鎖国の禁を犯したのですから天下の大罪人です。 松陰は死刑を覚悟しましたけ れども、 そうはならずに長州の萩に送り返され、 野山獄という牢屋に入れられました。
国禁を犯してアメリカに渡ろうとして失敗した前後の松陰の深い心をあらわしたのが次の歌です。
皇神のみこと畏み賤が身はなりゆくままにまかせこそすれ
かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂
二つ目は泉岳寺のそばを通った時、 赤穂義士の心を詠んだものですが、 それは同 時に松陰の心でもありました。 国禁を犯せば死刑である。 それは分かっていても国 難を思えばどうしてもやらぎるをえない。 吉田松陰はこういうやむにやまれぬ思いで行動したのです。
普通であれば、 死刑は必至ですから絶望の極みです。 ところが松陰は捕らえられ てからどうしたか。 心を励まして読書したのです。 下田の牢屋の番人に本を貸してくれと頼み、 金子と共に狭い牢屋の中で本を読みました。 どんな苦境に立っても松陰は学ぶことを忘れませんでした。
さらに、 本を読んでしまったあとはどうしたか。 牢屋の番人に真剣に説いたのです。 今、 日本は大変な危機にある、 なぜ自分はアメリカに行こうとしたのか。 心をこめて話しました。
松陰が説いたのは、 まず 「皇国の皇国たる所以」 です。 日本の国はなぜ天皇を国家の中心にいただいているのか。 二つ目が 「人倫の人倫たる所以」 です。 すなわち人間の守るべき道ということです。 三つ目が 「夷狭 (欧米列強) の悪むべき所以」 です。 欧米列強がどれほどひどいことをしていま日本を狙っているか。 この三つを松陰は説いたのです。 牢獄の番人はその話に涙を流して感銘しました。 ふつうなら牢番などに話したりはしません。 しかし、松陰はどのような人々に対しても真心をもって接しました。 至誠の人、 松陰の話は、 聞く者をして感銘させずにはおかない力を持っていたのです。 ここに天性の教育者吉田松陰の姿があります。
天性の教育者
野山獄でも松陰は猛烈に読書に励みました。 在獄一年二ヶ月で六百冊の本を読みましたが、 その勉強ぶりを自らこう記しています。
好んで書を読み、 最も古昔忠臣、 孝子、 義人 (世の為人の為に立派な行為をした人)、 烈婦 (立派な女性) の事 (事実)を悦ぶ。 朝起きて夜寝ぬるまで兀々、 孜々 (一心不乱) としてかつ読みかつ抄し (抜き書きすること)、 あるいは感じて泣き、 あるいは喜びて躍り、 自らやむことあたわず。 この楽しみなかなか他に比較すべきものあるを覚えず。
松陰が最も好んだのは、 歴史上において国の為世の為人の為に忠孝仁義の道に生きた立派な人物について記した書物でした。 すぐれた人物の気高く尊い行為に感泣、 感奮する松陰は、 感動した箇所を常に書き抜きました。 これが松陰の読書法です。 後に松下村塾において弟子たちにもこれをすすめています。 松陰は 「心を励まし気を養うは遂に賢豪 (すぐれた人物) の事実にしくものなし」 とのべています。 こうした歴史と人物について学ぶ読書が、 松陰の最大の楽しみ、 悦びでありました。 この燃えるような向学心、 向上心、 求道心こそ今日の私達が謙虚に学ぶべきことです。
松陰の感化力は、 萩の野山獄においてもいかんなく発揮されました。 野山獄には松陰を含めて十二人が入っていました。 廊下を挟んで二畳ほどの牢が六つずつ並んでいます。 入れられているのは、 みな大きな罪を犯したわけでもなく、 人間関係が うまくいかず家族から見捨てられた人達です。 それを知って松陰はいたく同情し、 たとえ牢屋の中にいるとはいえ、 何とかして正しい人間の道を知らせてあげたいものだと思いました。
松陰はこの人達と話をしているうちに、 一人二人得意なことを持っていることに気付きます。 ある人は俳句が上手です。 ある人は書道が達者です。 そこで、 その人を先生として勉強会を行うことを提案するのです。 「私は俳句を作ったことがありません。 私に俳句を教えてもらえませんか。 みんな退屈をもてあましていますから、 あなたを先生として俳句の会を起こして下さい」。 こうして牢獄の中で俳句の会や書道の会が始まりました。 松陰は孟子という書物を使って、 義 (人間が守るべき道義)を講じ人の道を説きました。 勉強会を重ねていくうちに、 牢屋の雰囲気はだんだん変っていきます。 人々は松陰の深い愛情と真心にふれて感化され、 人間の心を取り戻し、 明るくなっていったのです。
松陰はやはりこのことについても書いています。
余 (私) 罪ありて獄につながる。 時に余と犴狴(牢獄)に列する者およそ十一人なり。 余詳かにこれを問うにその繋がるること久しき者は数十年、 近き者も三五年なり。 皆曰く 「吾徒終にまさにここに死すべきのみ。 また天日 (太陽) を見るに得ざるなり」と。 余すなわち嗟愕 (嘆きおどろくこと) して泣下り、 自ら己れもまたその徒たるを悲しむに暇あらざるなり。 ここにおいて義を講じ道を説き相ともに磨励(みがくこと)してもって天年(一生)を歿えんと期す。
十一人の同囚が一生牢屋から出られないことに、 松陰は自分のことを忘れて涙をこぼして同情します。 彼らは何の希望も生き甲斐もなく生ける屍のような日々を送っています。 そこで松陰は俳句や書道の会をおこすとともに、 人間として生きている限りたとえ牢獄で一生を終ろうとも、 人の道を学ぶ大切さを身を以て示しました。 「義を講じ道を説き、 相ともに磨励してもって天年を歿えんと期す」。 天を衝く松陰の高い向上心、 求道心がここにあります。
やがて松陰はひとり獄から出ることを許され、 自宅謹慎の処分となりました。 このとき松陰は次のように言っています。
すでにして歳余 (一年余り)、 余 (私)にわかに恩命を蒙り、 獄を免されて家に帰り、 復び父母を拝し弟姪(めい、おい)を此の世に見るを得たり。 然り而して前の十一人の者繋がれて未だ免されざるを以て、 食を得てはすなわち懐い、 衣を得てはすなわち懐い、 寒夜、 爐にあたってはすなわち懐い、 晴日庭を歩してはすなわち懐う。 いまだかつて一日も釈然 (心がうちとけること) たるを得ざるなり。
このように獄に残された十一人の身の上を案じたのです。 松陰は自宅謹慎とはいえ、 母が用意してくれるおいしいものを食べ、 新しい着物を着ることができます。 鎖国の禁を破った重罪の自分はこうして家に帰るのを許されたのに、 たいした罪もない十一人の者は牢を出ることが出来ない。 何と気の毒なことだと松陰は思いやるのです。
長州藩主の毛利敬親という人は、 松陰が寅次郎と名乗っていた小さいころから可愛がり、 寅次郎は長州藩の宝だと言っていた人です。 その藩主が獄から出た松陰に意見を書いて具申することを許しました。 松陰は野山獄につながれている十一人を 赦してほしいという意見書を出したのです。 その意見書が通って、 全員ではありま せんでしたが七人が出ることを赦されました。 それほど、 松陰の人を愛する心には深いものがあったのです。
人を深く思いやり、 人の天分を見抜き、 松陰から教育を受けると誰でも魂を奮い立たされて生まれ変わっていく。 吉田松陰はまさに天性の教育者でした。