
岡田幹彦先生のご著書「維新の先駆者 吉田松陰 日本救国の天使」を掲載します。
父は萩藩士杉百合之助。山鹿流兵学師範であった吉田家の養子となる。藩校明倫館を経て、諸国を遊学。佐久間象山のもとで砲術と蘭学を学ぶ。安政元(1854)年海外密航を企て、下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが、拒絶され投獄。のち萩の野山獄に移されるが、翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となる。その間松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材育成の場となった。安政6(1859)年、安政の大獄により江戸で刑死した。(画像・文章:国立国会図書館 近代日本人の肖像引用)
吉田松陰 日本救国の天使(1)
日本の歴史における二つの大きな問い
今日は吉田松陰についてお話をさせていただきます。
日本の歴史における最も大きな問い、 あるいは奇蹟、 これは二つあると思います。 一つが、 なぜ皇室が断絶なく続いてきたか。 もう一つは、 近代においてなぜ日本だ けが欧米に支配されなかったか。 この二つが最大の問いだと思います。 今日はこの 二つの問いに対する私なりの答えを、 吉田松陰という人物を通してお話したいと思 います。
もし十九世紀から二十世紀にかけて、 日本という国がこの地球上に存在しなかっ たならば、 世界はどうなったでしょうか。 これについて日本人ではなく、 アジアの人の見解をご紹介しましょう。 平成四年 (一九九二)、 香港での国際会議で、 マレ―シアのマハティール首相 (当時) が大演説をぶちました。 簡単に言うとこうです。
「日本の成功が東南アジア諸国に自信を与えた。 日本がなければ欧米の世界支配 は永久に続いていたはずだ」
この演説を聞いたアメリカとイギリスの代表はかんかんに怒って席を立ちました。 香港はまだイギリスの植民地でした。 マハティール首相が言った日本の成功とは何でしょうか。 三つあります。 一つ目が明治維新。 二つ目が日露戦争。 そして三つ目が、 六十二年前に終わった大東亜戦争です。
大東亜戦争の目的は、 一つは日本の自存自衛です。 アメリカの抑圧に耐えかねて ついに立ち上がった。 もう一つが、 東亜諸民族を欧米列強の長年の植民地支配から 解放、 独立させることでした。 一番目の目的は失敗しました。 負けてしまったので、 お前たちは悪いことをやった侵略国だ、 犯罪者だという烙印を押されました。 今で もその後遺症がずっと続いているわけです。
しかし、もう一つのアジア諸民族を欧米列強の植民地支配から解放、 独立させるという目的は見事に達成しました。
マハティール首相は、こういう三つのすばらしい大事業を近代において成し遂げた日本の存在が、 東南アジア諸国に計り知れない自信を与えたのだと絶賛しているのです。 もし日本が存在しなかったならば欧米の支配は永久に続いていたはずだと。 ですから、 日本に対して日本人の想像を超えるものすごい尊敬と親愛の念を今なお 有色民族の国家は抱いているのです。 そういう高い評価があることを日本人はほと んど知りません。
日露戦争で勝ったのも奇蹟です。 明治維新に成功したのも奇蹟です。 ではなぜ明 治維新に成功したのか。 それは端的に言いますと、 日本に皇室が存在し、 その皇室 をいただいて志士といわれる人達が立ち上がったからです。 志士といわれる人達は、 多くみても数千人ほどです。 本当に一握りの人が立ち上がったのです。
その志士の中でも、 最も重要な人物は西郷隆盛と吉田松陰です。 これほどの偉人 は世界にいません。 日本の誇りです。 しかしその吉田松陰は、 ではどれだけ素晴ら しい大活躍をしたかと言うと、 目立つような大きな働きはしていません。 伊豆の下田からアメリカに渡航しようとして失敗し、 牢屋にいれられてしまいました。 五年後には、 安政の大獄で井伊直弼に斬首させられました。 下田でのアメリカ渡航失敗からその後五年間は手足を縛られた謹慎状態で全く身動きできなかったわけです。 ところが、 それにもかかわらず吉田松陰は長州を変え、 日本を変えてしまいました。 驚くべき奇蹟を実現させたのです。
海賊の猖狂日一日より甚し
ペリーが日本に来航したのは嘉永六年 (一八五三)、 明治維新の十五年前です。 このときから日本の危機と激動が始まりました。 ペリーは黒船四隻で浦賀沖までやってきて、 「アメリカ大統領の国書を受理しろ」 と強要し、 「受理しなかったならば戦争をするぞ」 と言って黒船四隻の大砲を浦賀の町に向けて威圧し、 幕府に返答を迫りました。
これに幕府は完全に屈服してしまいました。 徳川幕府は独立国にあるまじき土下 座外交を行い醜態をさらけ出しました。 このまま幕府の土下座外交を許すならば、 日本の植民地化は到底避けられません。 このような惨状を心の底から憂慮し、 義憤を発し、 日本の独立を守り抜こうと立ち上がった人達、 それが志士でした。 その代表が吉田松陰です。
このとき、 吉田松陰は何と言っているか。
近時、 海賊の猖狂 (猛り狂うこと) なること日一日より甚し。 今春に至るに及び遂に城下の盟を為す。 而してその禍患 (わざわい) はいまだとどまる所をしらず。 ここにおいて忠孝節義の士、皆慨然 (心から憂いて) として涙下り、 恥を雪ぎ仇を報ぜんと思わざるはなし。
海賊というのは欧米列強のことです。 城下の盟というのは、 城下まで攻められて 無条件降伏をすることです。 アメリカの強圧により、 幕府は戦いもせず無条件降伏 をしてしまった。 その禍いはさらに悪化しようとしている。 このような屈辱を晴らそうと思わない忠孝の士はいない、 と言っているのです。
ペリーの威圧に屈服し、 幕府は何の抵抗もできずに言いなりになってしまいました。 このままでは日本は欧米列強の属国として支配されるしかない。 当時の日本はこういう危機にあったのです。 この危機感が分からなければ、 明治維新の歴史は到底理解できません。 ペリーは開国の恩人だなどと間抜けなことを考えている人には、 永遠に分からないことです。
今は即ち膝を屈し首を低れ、 夷 (欧米列強) の為す所に任す。 国の衰えたる古よりいまだかつてあらざるなり。 外夷 (欧米) 悍然 (猛々しい勢い) として来りせまり、 赫然として威を作す (威嚇する)。 吾則ち首をたれ息をとめ、 通信通市 (開国し貿易すること) ただその求むる所のままにして敢てこれに違うことなく…。 国の存するや自ら存するなり。 豈外に待つことあらんや。 外に待つことなし。 豈外に制せらるることあらんや。
松陰は歴史上、今日ほど日本の国家が衰退した時はないと憂えたのです。 独立国 家というのは自らの意志と力によって存立しうるものですが、 日本はアメリカの軍事的威圧に屈し国家の重大事を決定させられました。 それが 「外に待つ」 「外に制せらるる」 ということです。 それは断じて独立国家の行う政治外交ではないと言っているのです。 こうした松陰の深い危機感は志士といわれた人々がみな共有したものであります。