台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(5)
「嘉南大圳」の完成
一方、 堰堤造りと併行して給排水路工事及び付属工事並びに濁水渓導水工事は大工事ではあったが大きな事故もなく進捗、 昭和四年にはほとんど竣工した。 最大の犠牲者を出した烏山嶺隧道工事は、 七年半の年月をかけて同年完了した。
昭和五年春、 ついに堰堤が竣工した。 こうして十年の歳月を費して全ての工事が完了した。烏山頭ダムに曽文渓と官田渓から放水された。 満水量は一億五〇〇〇万トン、 満水面積は一〇平方キロである。 一・三キロの堰堤は満々たる湖水をしつかりと湛えた。 堰堤の上からこれを見る八田は万感無量この上ない感激に身を打ちふるわせた。
「天が造らせてくれたのだ。 天の力なくしてこれだけの工事がやり遂げられるはずがない。 自分は運が良かっただけだ。 自分の生涯で三度と再びこのような人事業を行うことはないだろう」
この大人造湖は「烏山頭ダム」と名づけられ、 ダムと給排水路を含めてこの一大灌漑施設は「嘉南大圳」とよばれた。
嘉南大圳の完成は世界の土木界を驚嘆させた。 鳥山頭ダムは東洋唯一の湿式土堰堤であり、 その規模において世界に例のない巨大ダムであった。 それゆえアメリカ土木学会は鳥山頭ダムを特に 「八田ダム」 と命名し、 八田の功績を高く賞讃した。 それは日本の灌漑土木技術の優秀さを世界に証明した一大金字塔であった。
烏山頭ダムは既に下村宏民政長官により 「珊瑚潭 (潭とは湖)」 と命名されていた。 貯水池の形が上からみると珊瑚の樹に似ているからである。
五月十日、 嘉南大圳の竣正式典がこの珊瑚渾を見下す丘の上で、 三千六百人が参加し盛大に行われた。 祝賀会は三日続き、 屋台が出て、 芝居や映画それに花火、 提灯行列等が行われ人々は歓喜に浸った。
五月十五日、 通水式が行われた。 烏山頭ダムから嘉南平野の縦横に走る給水路への放水である。 放水門から水しぶきをあげ轟音を立てて一斉に放水される光景に、 全員から拍手がわき上った。 人々の目に涙があふれ頬を伝って流れ落ちた。
嘉南の人々の喜びは到底筆舌に尽し難い。 人々は口々に 「神の恵みだ。 神の水だ。 神の与え賜うた水だ」 と叫んだ。 こうして数百年間、 三重苦に泣かされた不毛の地は台湾最大の穀倉地帯へと生まれ変るのである。 以後、 八田は 「嘉南大圳の父」 として敬愛、 仰慕され、 死後もなお嘉南の人々にとり永遠に忘れがたき恩人となるのである。
殉工碑・交友会・銅像
八田は竣工式に先立ち同年三月、 「殉工碑」 を建立し、 この大事業における尊い犠牲者の慰霊祭を行った。 工事中の事故、 風土病等で亡くなった人々は百三十四人、 日本人四十一名、 台湾人九十二名である。 八田は亡くなった順に日本人台湾人の区別なく姓名を石碑に刻んだ。
人々が解散するにあたり、 技師、 職員、 従業員の間から長年労苦を共にしてきたその断ち難い絆をいつまでも保つ為に会を作ろうという声が上り 「烏山頭交友会」 が結成され、 八田は会長に推された。
竣正式と通水式終了後、 八田は部下の再就職の為に奔走したが、 どこでも 「八田技師が推薦するなら間違いない」 と優遇してくれた。
交友会の人々は八日の功績を永久に讃えるため、 銅像を造ることを決議した。 八田は感激したが固辞した。 だが交友会の総代らは 「交友会の象徴として私たち全従業員の心の糧として造りたいのです。 それは所長のためというより私たち従業員の為なのです」 と懇願した。 八田は了承して言った。
「分った。 造ってくれるならお願いがある。 よく見かける正装し威厳に満ちた顔つきで高い台に立つような銅像にだけはしないで欲しい。 私はこの十数年間というもの毎日作業服に地下足袋、 それにゲートル (足首から膝までに巻く脚絆) 姿で烏山頭工事をしてきた一技術者であり 、 背広など着たことは一度もない。 できればそういうありのままの姿の像にして欲しい。 そして台の上に置いたりせず、 珊瑚潭を見下せる場所に直接置いて貰えるとありがたいのだが」
こうして八田の望む通り、 作業服姿で腰をおろし右指で頭髪をひねる姿 (八日が何か考える時の癖) が銅像となった。 除幕式は昭和六年七月三十一日に行われた。 この時は台座はなく地面に固定された。
その後、 大東亜戦争中に金属製品は供出されたが、 八田の銅像は嘉南の人々によりひそかに隠され、 昭和五十六年一月 、人々は政府の許可を得ないまま元の場所に低い台座をつけて設置したのである。 三十七年間人々はこの銅像を守り抜いたのだ。 嘉南の農民民たちがいかに八田を仰慕し続けこの銅像を守護神としてきたかが思いやられる 。
嘉南の人々の心に永遠に残る八田夫妻
嘉南の人々、 いな台湾人にとって永遠の人となった八日の思い出を、 当時烏山頭で働いていた一運転士が後年こう語っている。
「八田さんについては忘れられないことがあります。 八田さんと堰堤係長だった阿部 (貞壽)さんが私の汽車に乗って大内庄 (烏山頭から二十キロ南の土砂採取場) まで視察に行くんです。 その時他の人は寒いのでボイラーのある機関車に乗るんですが、 八田さんと阿部さんはいつも砂利を積む台車に乗って決して機関車に乗らなかった。 それを本島人の者はみんな知っていてね。 感服したものですよ」
「工事が遅れると夜遅くまで作業するようになり、 その時に八田さんは必ず出てきて、 作業している所を見回ってよく皆を激励しましたよ。 いつもですよ。 ちょっと普通できないな。 それでね、 本島人はみな八田技師は偉い人だと尊敬していましたよ」
また他の人々はこうのべている。
「八田さんがこの工事をしなかったら、 今でもこのあたりでは米は穫れなかっただろうな。 八田さんは私らにとってみたら大恩人ですよ」
「大恩人というより神様だな。 神様みたいに思っている人が嘉南に多いな」
八田はその後も灌漑土木工事の第一人者として大活躍、 昭和十五年、 総督府で唯一人の勅任技師となった。 昭和十七年、 八田は綿作灌漑調査のためフィリピンヘ出張の途中、 乗船が米軍潜水艦に撃沈され五月八日、 東シナ海海域で亡くなった。 五十六歳である。 遺体は萩の漁民により発見され遺骨が台北に戻り、 台北及び烏山頭で葬儀が行われた。
妻外代樹は夫の死後も台湾に残り、 終戦直後の昭和二十年九月一日、 烏山頭ダムの放 水口において投身自殺した。 四十五歳であった。 外代樹は男二人女六人を育て上げた。 家事と育児に明け暮れ、 夫によく尽した人である。 多くの子供たちを残して外代樹はなぜ死を選んだのであろうか。 外代樹にとり台湾は第二の故郷、 いやまことの故郷であった。 彼女は結婚後、 一度も郷里に帰ることはなかった。 ことに夫、 子供らと苦楽を共にしたこの烏山頭こそ外代樹にとりかけがえのない永久に忘れ難き魂の故郷となったことであろう。 珊瑚潭ともよばれたこの地の景観は美しく、 ことに湖面に映る夕陽は絶景といわれた。 外代樹はこよなく烏山頭を愛してやまなかった。 ダム完成後台北に戻ったが、 しばしばここを訪れた。 夫の死後疎開したところもここである。 ここから離れて私はない、 その思いがいまだ年少の娘たちをおいて、 夫の生涯の大事業の地、 夫の魂が鎮まるこの烏山頭に自らの骨を埋めさせたのだろうか。 嘉南の人々は八田に続く夫人の死にみな泣いた。 夫人について人々は後にこう語っている。
「八田さんもいい方だったが、 奥さんはもっと皆から好かれていたな」
「奥さんはね、 頭の低い、 誰にも親切な、 偉そうなところのないいい人でした。 奥さんが亡くなった時にはね、 みんなが悲しんだものでね。 私も火葬の時は手伝いました」
「誰にも親切なきれいな人だったな」