台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(4)
試練に次ぐ試練
八田がアメリカから戻った大正十一年六月、 曽文渓から導水する為の鳥山嶺隧道工事が始まった。 三千メートルもの隧道を掘り抜く工事は堰堤築造とともに最も難しい工事であった。 地下九〇メートルの中での作業であり、 灼熱地獄と高い湿度の中での汗みどろの仕事であった。
開始後間もない同年十二月、 不慮の事故が起きた。 掘り進んでいた時、 地中より石油ガスが噴出、 それが引火して大爆発をおこし五十余名もの死者を出す大惨事をひきおこした。 八田が最も懸念したのは工事中、 犠牲者を出すことだったが、 最初の事故にかくも多くの死者を出したことに気が動顛し打ちのめされた。 あまりの惨事に非難の声が上がり、 工事は中止すべしとの意見すら出たのである。 八田は犠牲者の家々をまわり心から詫びた。 その時台湾人犠牲者の家族がこう語った。 「決して工事から手を引かないでほしい。 今工事を中止したら、 嘉南の農民は水のない生活を続けることになる。 死んだ者の為にもぜひ工事を完成させてほしい」
八田は涙をうかべて工事の完成を誓った。 八田はここで挫けてはならじと己れに鞭打ち心を奮い立たせた。 以後、 難工事の為少なからぬ犠牲者 (全部で百三十四名) を出したが、 八田はこの苦難に耐え抜くのである。
もう一つの試練は資金難である。 経費の半分は日本政府の補助金であったが、 大正十二年におきた関東大震災の為それが大幅に削減された。 そのため八田は工事を一時縮小し従業員の半数を解雇せざるを得なくなった。 そのとき八田は誰をやめさせるかに苦しんだが、 より有能な者からそうした。 幹部らは有能な者を残すべきではないかと異を唱えたが、 八田はこう答えた。
「私もいろいろ考えた。 確かに力ある者を残しておきたい。 しかし能力ある者は他でもすぐ雇ってくれるだろうが、 そうでない者が再就職するのはなかなか難しい。 今これらの者の首を切れば家族共々路頭に迷うことになる。 だからあえて惜しいと思われる者に辞めてもらうことにした。 その穴埋めは君たちが残った者を教育して補ってくれ。 辞めさせる以上、 辞めていく者の就職回は必ず私が見つける。 君たちも苦しいだろうが私 もつらいのだ」
八田は退職者たちにわずかだが賞与金を一人一人手渡しこれまでの労苦に感謝し、 目に涙をにじませてこうのべた。 「暫く辛抱してくれ。 いつかまた工事が再開される時がくれば、 一番に君たちに帰ってもらう。 それまで辛抱してくれ」
八田はそのあと職場探しに奔走し、 以前よりも高い給料でみな再就職させた。 彼らは 「八田所長を信じてついてゆきさえすれば、 私たちのような者でも決して見捨てられたりはしない」 と感泣した。 翌年工事が元通り再開されたが、 八田は約束通りみな復職させた。
烏山頭家族の大親分
鳥山頭の工事場はひとつの町であった。 八田の家族始め千人以上がここに居を構え生活していた。 幹部、 職員用宿舎が三百戸以上もあつた。 この人々を含め常時二千人近い人々が出入りしていた。 職員家族のために小学校があり市場や商店もできた。
八田は従業員が長期間安心して働ける為に慰安・衛生施設づくりに心を注いだ。 病院のほか水泳場、 弓道場、 庭球場、 購売部、 クラブなどを設けた。 また台北から巡回映画をよび毎月上映させた。 クラブには舞台が備えられ時折、 芝居が催された。 ここでは将棋、 囲碁 、花札 、 麻雀、 玉突きなど自由にできた。 八田もよくここに出入りし部下と楽しみをともにした。八田が現われるとその場は一段とにぎやかになり活気に満ちた。 小学校の校庭では運動会、 野球大会、 盆踊りなど家族総出で行われた。
工夫・人夫といわれた作業員の大半は台湾人だが、 彼らの楽しみの一つは博打であった。 博打を禁止すると彼らはやる気を失ない工事が捗らないから、 八田はこれだけは許してやった。 ただし博打につきものの喧嘩は厳禁した。 八田は緩めるところと締めるところを心得ていた。 十年間の鳥山頭での集団生活において従業員の間に忌まわしい事故はなかった。 それは八田が真に部下思いの人であり人々から深く畏敬され親愛され、 人々が八田に心服したからである。 八田は土木技術者として最もすぐれていたが、 同時に組織をたばねまとめあげ衆心一致して事にあたる経営能力においても抜群の統率力の持主であった。 八田は鳥山頭大家族、 八田一家の大親分として人々の絶対的信頼をかちえていたことが、 この一大事業を成就せしめた要因であった。
堰堤築造
一大灌漑工事の中心は一・三キロに及ぶ長大な堰堤築造である。 その本工事は事業開始六年目の大正十五年に始まった。 準備に長い年月を要したのである。
この大堰堤は日本及び東洋においていまだかつて試みられたことのないセミ・ハイドロリックフイル工法が採用された。 この工法による堰堤はダム先進国のアメリカでも二、 三あるのみで、 しかも烏山頭ダムとは比較にならぬ小さなダムである。 従ってわが国の権威ある土木技師でもこの工法に熟知している者は皆無であり、 八田の独創的工事といってよかった。 ダムの堰堤といえば普通コンクリートの高い壁を思いうかべるが、 コンクリートを打つのに適した固い地盤がない場合、 土や石を主材料とする工法が使用される。
八田の用いたセミ・ハイドロリックフィル工法は粘土と砂と石を主体としているが、 堰堤の中心部にコンクリートを据えた。 セメントの使用量はダム全体のわずか〇・〇五%である。 そのまわりを粘土、 砂、 石の順に積み重ね築堤する。 この粘土・砂・石を固定させてゆく時、 ジャイアントポンプによる射水を行う。 土砂・石を突き固めて築く乾式方法ではなく、 水の力によって築く湿式方法である。 中心部のコンクリートのまわりは大量の粘土が覆うが、 これが強力な水圧の射水によって固まりコンクリートに優る強固なものになるという。 堰堤の底部は三〇三メートルもある。 莫大な量の土砂と石を五六メートルもの高さに積み上げ五台のジャイアントポンプにより射水を続けて、 一・ 三キロに及ぶ堰堤を築く工事がこうして始まるのである。
この堰堤の設計図の作成に八田は長い時間をかけ神経を注いだ。 莫大な水量に耐え、 水圧により決して崩壊することのない堅固な堰堤を築かなければならない。 それは大型ダムとして世界初めての試みであった。 以後六年間毎日、 土砂と石の運搬と積み上げ、 そして射水の作業が続いた。 土砂と石は二〇キロ離れた採取場から鉄道を使って運ばれた。