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台湾で最も敬愛される日本人・八田與一(3)

台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(3)

 

 良き上司に恵まれる

 

 桃園埤圳の灌漑工事を担当して一躍、 水利建設事業の第一人者として認められた八田は、  いよいよ生涯の大事業、 嘉南平野における灌漑工事に取り組むことになった。

嘉南平野は台湾の西南部、 海に面した南北九二キロ・東西三二キロの台湾最大の平原だが、 洪水と早魃 (日照り) と塩害の三重苦が支配する不毛の大地であった。 この地は五月から九月までが雨期で、 集中豪雨に見舞われ洪水をひきおこし田畑は水浸(みずびた)しになる。 秋冬期はほとんど雨は降らず日照りで土地は乾燥し、 飲料水の確保すらままならぬ状態となる。 また海岸に近い地域は塩分を含んだ水により植物は育たず、 土地の表面は塩が積もって白くなる。 ここには六十万の農民がいたがそれを運命とあきらめ、 長年この三重苦に(あえ)ぎつつ悲惨な生活をしてきた。

八田はこの広大な平原に適切な灌漑工事を施すならば肥沃な大地に生まれ変ると思った。 つまりこの地に大規模な灌漑用貯水池 (ダム) を築き平野を縦横に走る給排水路を敷くなら、 洪水も水不足も塩害も一挙に解決して米の大増産が可能と考えたのである。 八田は現地に分けいり入念な調査の末、 綿密な計画書を作り上げ山形要助土木局長に提出した。 それは 「八田の大風呂敷」 とよばれるにふさわしい桃園埤圳とは比較にならぬ気宇壮大な企画であった。 経費も莫大である。 しかし今や誰もそれを実現不可能の無謀な計画と笑う者はなかった。 八田なら出来るに違いないと思わせたのである。 八田の人物、 手腕を高く評価する山形局長はこの計画を認め、 下村宏民政長官に上申した。 下村は八田を呼んで尋ねた。

「八田君、 このような大規模な灌漑工事が日本内地で行われた例はあるのかね」

「いや、 ありません。 この工事が完成した暁には、 日本ではおろか東洋でも例を見ないものになるでしょう」

「君、 できるかね。 『やるとすれば八田君にやってもらうしかないだろう』 と山形君も言っていたが、 自信はあるかね」

「自信はあります。 あるからこそ計画書を出したのです。 ただ資金の問題については技術屋の私にはわかりませんが」

 「分った。 金の問題は私の仕事だ。 日月潭(にちげつたん)の件 (日月渾水力発電所の建設、 大正八年 着工・昭和九年完成) もあるし、 色々障害もあるだろうがなんとかやってみようじゃないか。 東洋一の土木工事が二つも台湾にできるのは気持の良いものだ」

こうして大正七年、 完成後 「嘉南大圳」 とよばれる大事業の着工が決定される。 その最終の決断を下したのは第七代総督明石(あかし)元二郎(もとじろう)陸軍大将である。

明石の在任は大正七・八年のわずか一年余りだつたが、 その間、 台湾電力株式会社創設、  日月渾水力発電所工事の着工、 台湾教育令の公布、 地方自治制度の制定、 縦貫鉄道中部 海岸線の開通、 華南銀行の設立、 台北高等商業学校設立、 司法制度改革 (二審制を内地 と同じ三審制に)、 そして嘉南大圳着工の決定と有能な下村民政長官を深く信任して短期間に大仕事を次々に推進した。 明石は過労のため五十六歳で亡くなるが、 遺言により遺骨は台湾の地に埋葬された。 明石は台湾をかくも愛してやまなかったのである。 明石・下村の台湾統治は期間こそ短かかったが、 児玉・後藤時代に次ぐ立派な輝かしいものであった。 明石・下村・山形らすぐれた上司に恵まれ、 手腕を存分に奮うことができた八田は実に幸運であった。 八田がよき上司に恵まれ、 認められ、 可愛がられたのは、 何より人物がすぐれ人柄が良かったからである。

 

とてつもない一大灌漑事業

 

嘉南平野全域十五万町歩 (香川県の広さに相当、 台湾全耕地の五分の一) に(くま)なく水をゆきわたらせ肥沃な大地とする灌漑工事の中心となるのは貯水池と灌漑給排水路の建設である。

まず貯水池につき八田は次のように企画した。 台南市の北側を流れる()文渓(ぶんけい)という川の支流(かん)田渓(でんけい)の上流に人跡未踏の鳥山頭(うざんとう)とよばれる谷あいがあるが、 この烏山頭に大堰堤(えんてい) (水を堰きとめる堤) を築き大人造湖をつくる。 ここに大量の水を貯える為には官田渓の水だけでは不足なので曽文渓から導水する必要がある。 人造湖と曽文渓の間には 鳥山嶺という山がある。 そこで鳥山嶺をくり抜き(ずい)(どう) (トンネル) を造る。 その長さ約三千メートル。

曽文渓から分水された水と官田渓の水を貯える人造湖の堰堤は全長一二七三メートル、 底部幅三〇三メートル、 頂部幅九メートル、 高さ五六メートルという巨大なものである。 当時日本で最も高いダムでも三十数メートルしかない。 五十メートルをこえるものなどダム先進国のアメリカでも数例しかなかつた時代である。 しかも堰堤の長さがすごい。 八田がこの設計図を示した時、 他の技師はみなど肝を抜かれ唯々 「八田の大風呂敷」 に脱帽するしかなかった。

もう一つはこの貯水池から嘉南平野全体に給水する為の給水路及び排水路の工事である。 給水路は十五万町歩の平野に網の目の様に張りめぐらせる。 総延長一万キロ。 桃園埤圳の給水路の五十倍である。

さらに排水路を必要とした。 排水により土地の塩分を洗い流し地力を取り戻さねばならないからである。 大きな排水路は幅一〇〇メートルもあつた。 この総延長が六〇〇〇キロ。 給排水路合わせて一六〇〇〇キロ (これがいかに長いかは、 東京―稚内一〇〇〇キロと比較するとわかりやすい)。

これだけにとどまらない。 給排水路にともなう給水門、 分水門、 放水門、 水路橋、 鉄道橋、  歩道橋、 車道橋、 暗渠(あんきょ)潮止(しおどめ)堤防 (九六キロ)、排水門等三千九百ヶ所もの付属建造物の工事がある。

さらにもう一つ十五万町歩に水をゆきわたらせる為にはダムからの放水だけでは足りず、 平野の北側の濁水渓(だくすいけい)からの導水工事が必要だった。 総工費約五千四百万円 (今の金額で約一兆円)、 工期十年(大正九〜昭和五年)というかつてない一大灌漑事業である。

 

 渡米してダムを視察

 

大正九年九月一日、 工事が開始された。 無論、 総責任者は鳥山頭出張所長に任命された八田である。 時に三十四歳。 完成までの十年間、 八田は心血を注ぎ肝胆を砕き、 台湾にとつてこの世紀の大事業にすべてを捧げ尽くすのである。

工事は大きく四つに分けられる。 貯水池の堰堤築造、 曽文渓導水隧道、 濁水渓導水及び給排水路の各工事である。 そしてこれらの本工事にとりかかるまでには、 種々の予備工事があった。 大きなものとしては工事の資材を運ぶための鉄道や道路の建設である。 ことに鉄道は大型工事機械、 材料、 堰堤に要する大量の土石等の運搬に不可欠であつた。 そのため縦貫鉄道の通る番子田駅 (現在の隆田駅) から烏山頭まで一二キロの鉄道が敷かれた。 さらに烏山頭から南へ二〇キロ、 土石運搬用の複線の鉄道が設けられた。 堰堤や隧道工事がいまだ始らない大正十一年、 八田はアメリカに出張した。 ダム先進国アメリカのダムをこの日で見て研究し万全を期したかったからである。 八田が使用せんとする工法はわが国で始めてのものであった。

八田はまずアメリカ土木学会を訪問しダムの設計図を示して米人技術者と意見を交換した。  そのあとアメリカのみならずカナダ、 メキシコの主なダムを視察したが、 自分の設計及び使用する工法が決して誤っていないことを確信しえた。 またこの際、 工事に必要な大型機械をアメリカから購入した。 エアーダンプカー百両、 パワーショベル七台、 ジャイアントポンプ五台、 ドイツ製機関車十二両、 コンクリートミキサー四台、 大型削岩機等これら大量の機械は堰堤や隧道の工事に大きな働きをする ことになる 。