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台湾で最も敬愛される日本人・八田與一(2)

台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(2)

 

 東京帝大へ ― 恩師広井勇の感化

 

 明治四十年、 二十一歳の八田は東京帝国大学工科大学土木工学科に入学した。 八田はここで広井勇という恩師に出会うのである。 文久二年 (一八六二)、 土佐藩士の家に生まれた広井は、 札幌農学校二期生として新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)や内村鑑三らとともに学んだ。 欧米留学後、 母校の工学科教授となり北海道庁技師を兼任、 小樽、 函館、 釧路等の築港工事の設計者指導者として目覚ましい手腕を発揮した明治における港湾造りの第一人者であった。 ことに小樽の築港は十一年間を要した難工事であったが、 広井は拳銃を(ふところ)にし事成らざれば自決を覚悟して遂にこれを完成させたサムライ技師であった。

「小樽築港の恩人」 と賛えられた広井は、 誰よりも学識高く実務に精通した技術者として傑出していたから、 明治三十二年工学博士を授かりこの年、 東京帝大工科大学教授として招かれた。 帝大卒でない初の教授である。 広井は学閥とは無縁の異色の人物であった。 以後二十年間、 土木工学科の中心的存在として後進の指導に当ったが、 「広井山脈」 とよばれる幾多の英才を育て上げた。 広井のいた当時は東京帝大土木工学科の一大黄金時代といわれたが、 その中の錚々(そうそう)たる一人が八田である。

明治日本の躍進を願って世のため人のために命がけで数々の土木事業をやり遂げた広井の人物、 精神、 生き方に八田は絶大な感化を受けた。 八田は 「官位や地位のために仕事をするのではなく、 人類のためになる仕事をし、 後の世の人々に多くの恩恵をもたらすような仕事をしたい」 と強く願うのである。 広井の口癖は 「実習で実学を学び技術先進国の欧米の技術書を原書で理解せよ」 であった。 八田はこの教えに忠実に従い三年間、 勉学に明け暮れた。

土木工学に熱中した八田のものの考え方は奇抜であり、 発想は独創的で構想は雄大であった。 学友たちは 「八田の大風呂敷」 とからかつた。 しかし広井はそのような八田を親愛し温かく見守り、 「八田は内地には狭すぎる。 八田を生かすには外地で仕事をさせるのが一番ではないか」 と言ってくれ大きな期待をかけた。

 

 新天地台湾へ

 

 明治四十三年八月、 東京帝大を卒業した八田は台湾へ渡り、 台湾総督府に奉職した。 二十四歳の時である。

台湾は日清戦争の結果、 明治二十八年、 日本に割譲されわが領土となり台湾総督府が台北におかれたが、 第四代総督児玉源太郎の時代、 飛躍的発展を遂げた。 児玉総督を補佐したのが民政長官後藤新平である。 後藤は児玉の信任のもとに卓越した行政手腕を奮った。 児玉・後藤時代の約九年間に、 台湾は疫病がはびこる 「療属の島」 からなかば楽園に生まれ変った。 児玉と後藤は多くのすぐれた人材を台湾に招いたが、 中でも大きな貢献をしたのが台湾の製糖業を大発展させ生産量を最終的に約五十倍にまで高めた新渡戸稲造である。

日本統治の五十年間の成果は次の通りである。 米収穫量一五〇万石から九〇八万石(六 倍)、 砂糖生産量三万トンから一四二万トン(四十七倍)、 敷設された鉄道一〇〇キロから六〇〇キロ(六倍)、 発電力六九〇〇〇キロワットから一一九五〇〇〇キロワット(十七倍)、 就学率二%から九二・五%(四十五倍)、 平均寿命三十歳から六十歳(二倍)、 アヘン吸飲率六%から・一%(六〇分の一に削減)、 マラリヤ患者五万九千人から七千三百人(八分の一に削減)。 また(きい)(るん)高雄(たかお)において築港され、 両港は台湾の二大貿易港として繁栄した。 昭和三年には台北帝国大学が設立された。

日本の台湾統治において人々に親しまれたのは庶民に日常的に接した教師と警察官である。 戦後九割以上の教師が教え子に招かれ台湾を訪れている。 一度ならず二度三度招かれた人もある。 日本人教師が台湾の児童、 生徒からいかに敬慕されたかがわかる。

わが国は台湾の統治に最良の人材を各方面に投入したのである。 今日、 台湾人が 「台湾近代化の父」 として最も尊敬するのが後藤新平である。 日本の台湾統治は欧米が行った植民地支配とは全く異なる。 欧米の植民地支配は有色民族を劣等人種として差別し奴隷扱いする圧制と搾取を本質としたが、 日本の台湾統治 (朝鮮統治も同様) はその正反対である。 台湾人を同じ国民として一視(いっし)同仁(どうじん)の精神であたう限りの善政につとめ、 人々の生活を豊かにし幸せにすることに全力を傾注した。 八田もまたこうした先人、 先輩たちの志を継承せんとして、 大きな理想と夢を胸に抱いてこの地にやってきたのである。

 

 総督府土木技師

 

 八田は台湾総督府土木部技手(ぎて)を命ぜられた。 大学卒の技術者が始めに任命されるのが技手で、 数年後技師に昇格する。

最初の仕事は島内の視察である。 島内はまだまだ開発すべき余地がいくらもあった。 そこで各地をいかに開発してゆくかよく観察し報告する任務である。 八田は南部の高雄の開発につき予算書を添えて計画書を提出した。 ところがその予算が厖大だったため上司を驚かせた。 「八田の大風呂敷」 がここでも遺憾なく発揮されたが、 その計画書はやがて高雄の第二期築港工事に採用されるのである。

大正三年、 二十八歳の時技師に進み、 土木課衛生工事係となった。 主要都市に上下水道を整備する仕事である。 後藤新平民政長官の時代からマラリヤ、 赤痢、 コレラ、 ペス ト等の風土病、 伝染病の撲滅に力が注がれていたが、 それは長い年月を要した。 衛生思想の普及、  医療の充実、 そして上水道の整備による清浄な飲料水の確保と下水道の整備は、 尚一層推進されなければならなかった。 台湾の上下水道を整備する上で最も貢献した人物が、 「台湾上下水道育ての親」 といわれた総督府技師、 浜野弥四郎(よしろう)である。 浜野は明治二十九年の東京帝大土木工学科卒で八田の先輩である。 浜野は 「日本上下水道育ての親」 といわれたお雇い外国人、 東京帝大工科大学教授バルトンに師事した。 バルトンが後藤新平の懇請で台湾に来たとき浜野が随行する。 バルトンは台湾の上下水道整備に尽力するが、 三年後病没した。 浜野はその後をひき継ぐのである。

八田は上司かつ帝大の先輩である浜野を深く尊敬し心から慕い、 その指導のもと上下水道工事に全力で従事した。 ことに台南上水道工事においては、その水源は()文渓(ぶんけい)から取り入れられたが、 その際、 八田は台南各地を踏査し地形に精通するとともに、 水路の引き方、 暗渠(あんきょ) (地下用水路) や開渠(かいきょ) (地上用水路) をはじめとする水利工事の工法を実地につき深く学ぶ経験を積み重ねた。 それがその後の 「嘉南大圳」の工事に大いに役立つのである。 大正五年、  海外の用水施設の視察を命ぜられ、 ジャワ、 ボルネオ、 セレベス、 シンガポール、 フィリピン、 アモイ、 香港を見て回った。

 そのあと八田は土木課監査係に移り、 発電灌漑(かんがい) (田畑に水を注ぎうるおすこと) 工事を担当した。 当時、 総督府では米の増産のため水田の適地を求め灌漑工事を企画していた。 そこで選ばれたのが台北の南、 新竹(しんちく)(しゅう)桃園(とうえん)である。 八田は若手の技師とともにこの地に入り調査を行い、 基本設計書を短期間で作り上げた。 これに従い大正五年春、 工事が開始され、 暗渠、 開渠、 多くの貯水池が作られて九年後に完成をみる。 その結果、 二万三千町歩の土地が灌漑され良水田が出来上った。 この水路と貯水池は 「桃園埤圳(ひしゅう)」 とよばれた。 「埤」 とは農業用貯水池、 「圳」 とは水路のことである。八田が設計、 監督を行った桃園埤圳工事は高い評価を受けた。

 

八田は大正六年、 三十一歳の時結婚した。 仲の良い兄で医師の智證は弟が三十を過ぎてまだ身を固めていないことを心配し、 花嫁を見つけてくれた。 金沢の医師米村吉太郎の娘外代樹(とよき)である。 日頃、 医者同士のつきあいで親しくしたことがこの良縁を結ばせた。 新婦は十六歳、 県立第一高等女学校を最優秀で卒業している。 年は離れていたが、 二人は仲睦まじかった。 外代樹は公務に尽痒する典一をよく支えて八人の子供を育て上げた。 外代樹は台湾を第二の故郷として深く愛し、 昭和二十年九月、 この地に骨を埋めるのである。