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台湾で最も敬愛される日本人・八田與一

八田與一は、台湾で不毛の大地と呼ばれていた嘉南(かなん)平原に、堰堤長1,273mという当時では東洋一の規模である「烏山頭(うさんとう)ダム」と、総延長16,000kmにおよぶ給排水路を完成させました。その成果によって、嘉南平原は台湾一の穀倉地帯となりました。

 台湾では、このダムと給排水路をあわせて「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼んでおり、與一は「嘉南大圳の父」として、現在でも台湾で多くの人々に慕われ続けています。(写真・文章:金沢ふるさと偉人館HP引用)

 

 今、世界で世界一の親日国は台湾と言ってよいでしょう。その台湾が親日国になった要因の一つが八田與一氏が台湾で行った偉業です。その偉業を記した岡田幹彦先生の御著作をご紹介します。

 


台湾で最も敬愛される日本人・八田興一(1)

 

 世界一の親日国

 

世界で最も親日的な国が台湾である。 東日本大震災において、 台湾の人々は深い同情を寄せ各国中最大の二百五十億円もの義捐金を贈ってくれた。

台湾での調査によると、 「立派だと思う国」 「旅行したい国」 「移住したい国」 の第一位は日本である。 台湾人の親日感情を一層深めたのが、 一九九九年の台湾大地震である。 他のどの国よりもいち早く駆けつけた日本の救援隊が、 不眠不体で献身的な救援活動を行う姿に台湾人はいたく感動した。 運悪く助けられなかった遺体に黙祷を捧げ、 遺族には 「救助できず申訳ありません」 と頭を垂れる救援隊の誠意に満ちた態度に、 心打たれない人はなかった。 次々とやって来る民間ボランティアを見て、 「さすが日本人だ」 「いざというとき頼れるのはやはり日本人だ」 との思いを深くしたのである。

任務を終えて救援隊が桃園(とうえん)空港を離れる時、 税関職員が総立ちとなり最敬礼し、 空港の出入客全員が拍手で見送った。 感涙を流した人も少なくなかった。 反日教育を受けた世代を含めたほとんどの台湾人が、 「日本よ、ありがとう」 と感謝したのである。 東日本大震災における桁違いの莫大な支援は、 この感謝の念のお返しでもあった。 この年、 台湾のマスコミが実施したアンケート調査 「あなたにとって二〇一一年の最高の幸福な出来事は?」 という問いに対して第一位の答えは、 「日本への義捐金が世界一になったこと」 であった。 我々日本人もまた台湾人のこの上なき思いやりと善意に対して、 頭を垂れて心から 「台湾よ、 ありがとう」 と言いたい。

台湾の人々がかくも日本を親愛するのは、 彼らが日本敗戦後、 蒋介石(しょうかいせき)の中華民国国民党政府の苛酷な支配を受け、 日本とシナ双方の統治を経験したからである。 戦後、 大陸からやってきた蒋介石とその政府は、 台湾に残された日本資産と日本人の私有財産を全て奪い取った。落介石と妻の(そう)()(れい)は独裁者として台湾をほしいままに私物化した。 皇帝気取りの蒋は台湾中に四十力所 「行宮(あんぐう)」 とよばれる豪華な別荘を建て、 「女帝」 たる宋美齢は 「私が中華民国だ」 と豪語した。 蒋一族はひたすら私腹を肥やすとともに、 中華民国政府は台湾人に不正と悪政の限りを尽くし、 三万人以上もの各界指導者を虐殺した二・二八事件 (一九四七) を始めとする弾圧を行い約四十年間恐怖政治を続けたのである。 日本と台湾の統治には天地の隔りがあり、 戦前の日本統治が文句なくすぐれ立派であったことを台湾人は骨身に泌みて思い知らされるのである。

今日、 台湾では 「日本精神」 という言葉が使われている。 それは最高のほめ言葉であり、  正直・誠実・勇気・慈愛・勤勉・清潔・責任感・自己犠牲等すべて良いものという意味の普通名詞になっている。 逆にその正反対の何でも悪いことの普通名詞が 「中国式」 である。

 

 「八田與一記念園区」

 

 その台湾で最も敬愛されている日本人の一人が、 わが国ではほとんど知られていない 八田(はった)()(いち)である。

敗戦後、 台湾各地に数多く建てられていた日本人 (軍人や政治家等) の銅像は国民党政府により(ことごと)く撤去されたが、 唯一つ日本人技師の八田典一の銅像が台湾の人々によって守られてきた。 八田の死後 (昭和十七年)、 台湾南部の()(なん)の人々は五月八日の命日、 この銅像のそばにある八田夫妻の墓 (昭和二十一年、 地元の人々が建立) 前で毎年慰霊祭を続けている。没後七十数年、 人々は今なお八田の偉業をしのびその恩恵に対して限りない感謝を捧げているのである。

八田は台湾総督府の土木技師として不毛の地であった嘉南平野に東洋一の貯水ダムと用水路を建設し、 この地を台湾一の穀倉地帯に変えた人物である。

 

平成二十三年、 馬英九総統の提案で政府の手によりこの地に、 「八田與一紀念園区 (記念公園のこと)」 が造られた。 五月八日の墓前祭当日、 開園記念式典が馬総統の出席のもと盛大に行われた。 馬総統は 「八田氏が人生のすべてを台湾にささげた功績は非常に大きく、 紀念園区を台湾と日本の懸け橋にしたい」 とのべた。 紀念園区には展示解説館はじめ八田らの職員住宅四棟が再現されている。

 

世界一の親日国台湾において誰一人知らぬ人のない最も敬愛されている日本人を、 日本の私たちが知らずにいてよいだろうか。 世のため人のために大きな貢献をした偉人は国家民族の尊い無形の精神的遺産、 共有財産と共有財産として後世に永く語り伝えられなければならない。

 

 村の花形役者 ― 「八田屋のよいっつあん」

 

 八田與一は明治十九年二月二十一日、 石川県河北郡今町村 (現金沢市) の農家八田四郎(しろ)兵衛(べえ)の五男として生まれた。 八田家は十五町もの田畑をもつ大百姓で通称「八田屋」と呼ばれた。 豊かで有力な豪農がいくつかあったが、 それらは屋号がつけられていた。 今も堂々たる生家が残っている。 立派な両親の下ですこやかに育った與一は村一番の腕白大将であり、 「花形役者」 であったと同郷の後輩はいう。 みんなで遊ぶとき、 山へ行くにも泳ぎに行くのも常に與一が先頭に立ち、 年上も年下も皆ぞろぞろとついて行った。 與一は明朗快活、 話は愉快で誰からも 「よいっつあん、 よいっつあん」 と親愛された。 人の長として仰がれる親分的な性格が、  年少の頃から自ずと備っていたのである。

 

與一は人柄も頭脳もすぐれていた。 北陸は浄土真宗が盛んであった。 八田家ではよく信徒、  村人が集まって僧侶の法話を聞く会が開かれた。 與一は自然に信仰心の厚い真宗門徒として育つ。 後年、 八田は 「人間に宗教は必要なものだ。 親鸞の教えには学ぶべき事柄がたくさんある」 と家族に語っている。 與一はこうした信仰心のもとに、 どんな人にも分け隔てなく誠意と思いやりをもって接したから、 人々に好かれなつかれた。 後年の一大事業 「嘉南大釧」 の実現は、 與一のこのすぐれた人間性なくして不可能であったろう。 明治三十七年、 石川県立第一中学校を卒業、 同年第四高等学校 (金沢) に入学した。 数学が好きだった八田は工科に進んだ。 この年、 日露戦争が始まったが、 與一のすぐ上の兄が金沢第九師団の兵士として出征、 旅順攻囲戦で戦死している。 民族の一大国難に命を捧げた兄を思って、 八田は四高で一心に学び将来国のため公のために尽す誓いを新たにした。