坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概(7)
大政奉還と龍馬
さて、 薩長同盟ができた後、 龍馬が考えたことは、 その同盟に土佐を入れたいということでした。 当時、 ほとんど全ての人は幕府が倒れるなんて思ってもみませんでした。 尊皇倒幕を叫んでいるのは、 薩摩と長州だけです。 これでは力が足りないので、 龍馬は土佐を引き入れようとしました。 幕府べったりの土佐を何とかしようと、 龍馬は土佐藩家老の後藤象二郎を説得します。 土佐藩を倒幕陣営に引き入れるための暫定措置として考えたのが大政奉還策です。 土佐藩から幕府に対して、 大政奉還を申し入れる。 それに対して、 幕府はもってのほかと拒絶するだろう。 それで土佐藩の幕府に対する義理は帳消しになる。 そうすれば土佐は倒幕陣営に転じるだろう、 というのが龍馬の考えでした。 ところが、 あにはからんや徳川慶喜は大政奉還すべしとの土佐の提案を受け入れたのです。
この時の慶喜は一体どういう考えだったのでしょうか。 それは薩長倒幕派より倒幕の名目を奪い、 奉還後の朝廷政府における諸侯会議の主導権を握り、 徳川家の支配的地位を実質的に確保しよう、 というものでした。 奉還後、 征夷大将軍は返上しても、 内大臣は辞さず、 四百万石を有する国内随一の大名でした。 実質的に天皇政府の最高実力者として君臨し続けようとしたのです。
そうした慶喜の策謀、 不純なる動機、 野心を薩摩長州の首脳部は見抜いていました。 そこで、 政権を朝廷に返すならば実を示すべきだとし、 慶喜に内大臣の辞任と徳川家の石高を半分朝廷に差し出すように迫ったのです。
そうした動きの中で、 鳥羽伏見の戦いを迎えます。 この時、 西郷が優れた決断力と指導力を発揮し、 新政府軍が勝利を収めます。 そのあと西郷と勝が談判し、 江戸無血開城となり、 明治維新の成就となります。 しかしながら、 その半年前の十一月十五日、 三十二歳の誕生日に、 龍馬は幕府見廻組により中岡慎太郎とともに暗殺されます。 日本の夜明けを見ることなしにあの世へ逝ってしまったわけです。
龍馬の本心
大政奉還策を推進した龍馬の本心はどこにあったのでしょうか。 従来の龍馬の伝記、 物語では、 龍馬は大政奉還にもとづく話し合いによる平和的政権交代論者で、 薩長の武力討幕路線の対立者であるとの見方がほとんどです。 しかし、 それは大間違いです。 龍馬はこう言っています。
つらつら将来を推考するに、 開戦は到底避くべからず。 かつ今の大政奉還もあるいは一時の策略たるも期し難し (実際、 野心を秘めた慶喜の策謀であった) 。しかれども西郷、 木戸、 大久保の如きは計略に乗るものにあらず。 戦争の大小は確言し難きも必ず開戦となることは確言す。
これが龍馬の本音、 本心です。 ですから龍馬は長崎で西洋式小銃千挺を買い入れて、 汽船で高知まで運び、 土佐藩の重役に手紙を書きます。 いよいよ薩長両藩は挙兵して討幕に立ち上る。 この千挺の鉄砲を買い、 薩長に遅れず直ちに立ち上るべしという内容です。 土佐は龍馬の言に従いこの鉄砲を買い入れます。
これが龍馬の心底です。 明々白々です。 龍馬はいわゆる平和革命派ではなく、 薩長討幕派と軌を一にしています。 源頼朝以来七百年近く続いた幕府政治がなくなり王政が復古するという歴史的大転換期において、 単なる話し合いや小手先の交渉では決して世の中は変りません。 ことに幕府の主流派は大政奉還そのものに反対し、 徳川幕府をもっと強化し永久に存続させようとしておりましたから、 平和的話し合いなど成り立ちようがありません。 当時は選挙による政権交代という便利な方法はありません。 どうしても最後はやむをえずして一戦を交えなければなりません。 要するに、 天皇を仰いで日本を再生するか、 旧来の幕府体制のままでいくかという最後の決は戦争にならざるを得ないというのが龍馬の考えであり覚悟でした。
ついでにいいますと、 龍馬の暗殺の背後に 「黒幕」 がいるという説がありますが、 ありえません。 黒幕説は、 龍馬が薩長倒幕派の反対派という前提に立っており、 それゆえ薩長の邪魔になった、 黒幕は薩摩であり西郷だというのです。 そもそも前提が誤っています。 黒幕説は成り立ちません。 龍馬と西郷の深い人間関係から見てもそれは絶対にありえません。
では、大政奉還策は無益、 無意味だったのでしょうか。 龍馬が推進した大政奉還は、 大局的にみて三つの大きな意義がありました。
一つは、 徳川慶喜の朝廷への絶対恭順 (慎んで命令に従うこと) を導いたこと。 もう一つは、 それが西郷隆盛と勝海舟の談判を成立させ、 江戸無血開城となり、 明治維新を成就せしめたこと。 さらにもう一つは、 官軍と旧幕府側の対立、 憎悪、 闘争を緩和し、 犠牲を少なくし、 最後に両者の和解、 融和を導いたことです。 諸外国の革命の歴史と比較すると、 明治維新はほとんど無血で成し遂げられました。
維新から三十年経った明治三十一年、 謹慎同様の生活をしていた徳川慶喜が皇居に参内し、 明治天皇から特別の謁見を賜って懇篤なお言葉を頂きます。 「慶喜が大政奉還し恭順を貫いたことが、 結局、 明治維新の成就となり、 新生日本の誕生をもたらした。 よくやつてくれた」 ということです。 皇后陛下からも 「御苦労さまでした」 と盃をいただき、 慶喜は涙ながらに感激しました。 これを陰で取り仕切ったのは勝海舟です。 新政府と旧幕府との対立、 闘争、 憎悪、 怨恨の歴史を最終的に水に流すためには、 こうした「和解融和の儀式」 がどうしても必要だという執念で、勝海舟は維新後も三十一年間生き抜きました。そしてこれを見届けて私の役目はこれで終ったとばかりに翌年、勝は七十七歳で亡くなりました。勝という人は実にとてつもない人物です。
龍馬に学ぶもの
最後に私が言いたいのは、 龍馬と海舟、 龍馬と西郷、 西郷と海舟、 この偉大なる三者の互いの人間を認め合い、 信じ合った同志的信頼と連帯が、 世界史の奇蹟たる明治維新を成就させ、 近代日本の興起と躍進を導いたということです。 ここに坂本龍馬の日本歴史における不朽不滅の功績があります。 薩長同盟の仲介役となり、 そして大政奉還策の一手を打って日本の夜明けを見ることなしにあの世に旅立ったわけですが、 龍馬は実に重大な働きをしました。 龍馬こそ志士の一典型、 日本人の一典型であり、 明治維新の大功労者の一人です。
龍馬は決してとび抜けた秀才ではありませんでした。 まわりからは 「龍馬は学問がない」 と言われました。 しかし深い尊皇心と強い信念、 気魄、 胆力をもち何より人柄、 人格、 人品がすぐれていました。 天真、 純朴で飾りのない誠の人でした。 少年時、 劣等生、 挫折の体験をしていますから決して威張らず、 高ぶらず、 驕らず、 慎みと謙虚さをもって他の人を深く思いやる寛大な心の持ち主でした。 古来日本人が最も大切にした 「明き浄き直き誠の心」 の持ち主でした。 このような人柄が生涯出会った多くの人々から敬愛されたのです。 龍馬の人柄にみな本当の日本人らしさを感じたのです。
われわれは龍馬から何を学ぶべきか。
国家、 民族の危機、 国難を真に憂いて、 祖国を何としても救わんとしたその気高い志、 不屈の気概、 自己放棄の無私の姿勢、 深い熱情、 悲願、 神願に基づく行動実践、 これこそこんにちの私たちが学ばなければならないものではないかと思います。
土佐の弱虫が天下の志士となって日本を動かしたその感動的生涯を顧み、 我々は龍馬を始め、 偉大な先人を仰ぎ、 日本人の誇りと自信を取り戻して、 この祖国を立て直すために、 力を合わせて頑張ってまいりたいと思います。ご清聴感謝いたします。