坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概(6)
薩長同盟
文久三年(一八六三)の八・一八政変で、 公武合体派の会津藩と薩摩藩が提携して長州藩を追い落としたのですから、 長州は薩摩を深く恨みました。 その翌年の元治元年、 禁門の変で薩摩と長州は戦って敗れたものですから、 長州としては薩摩は許しがたい仇敵です。
双方とも薩摩と長州が協力し合わない限り、 幕府は倒れないというのは、 理屈ではわかっていますが、 そう簡単には感情が許さなかったのです。 いずれは同盟が結 ばれたでしょう。 しかし、 慶応二年一月二十二日のあの早い時点で同盟が結ばれたのは、こ とに坂本龍馬の働きが大きかったのです。 この薩長同盟の仕事をしたのは龍馬だけではありません。 盟友の中岡慎太郎も脱藩して長州へ走り、 久坂や高杉や木戸孝允と付き合っているうちに、 長州と薩摩を結びつけなければいけないと痛感して、 彼も彼なりに考え尽力します。 それから、 福岡藩の志士も同様のことを考えました。 ですから、 薩長同盟は坂本龍馬一人でやったのではない。 しかし、 仲介役 として龍馬が一番大きな働きをしたことは否定できません。
とにかく 、 そこに辿り着くまでいろいろ行き違いがありました。 下関で西郷に待 ちぼうけを食わされて、 木戸がかんかんに怒ったこともありました。 木戸は薩摩を恨んでいるから 「またおれたちをだました」 となるわけです。 「まあ、 まあ」 と龍馬と中岡がなだめて、 「ここは私たちが何とかするから、 木戸さん、 そう怒らないでくれ」。 木戸は 「そんなに言うなら、 薩摩の名義で西洋式の小銃と蒸気船を購入してくれないか」。 長州ではどうしても武器が必要で買いたいのはやまやまだけれども、 長州藩は第一次長州征伐でひどい目に遭い、 その後、 第二次長州征伐を受け ようとする直前、 いわば天下のおたずねものなので、 自由に長崎で買い物ができなかった。 それで、 木戸は龍馬に頼んだ。 「まかせてくれ」。 そこで、 西郷に 「木戸が こう言っています」 と頼みます。 承諾した西郷は 「京都に薩摩の兵を入れるため、 兵糧米が欲しい。 長州から兵糧米を買いたい。 これを木戸に話してくれるか」。 そこで 、 長州から薩摩に兵糧米を売る。 そういうふうにだんだん歩み寄りをして、 ついに慶応二年一月二十二日、 坂本龍馬が仲介役となり、 西郷と長州藩代表の木戸が談判して、 六ヶ条の薩長同盟が成立しました。
この薩長同盟が、 結局、王政復古を導き、 明治維新を成就させる礎となります。 ここに坂本龍馬の果した役割があります。 龍馬という適当な仲介者がいなかったら話が進まないわけです。 当事者同士ではどうしてもいろいろな感情が絡みますから、 薩長両方から信頼されるに足る仲介者が必要で、 龍馬は最も適当な人だったのです。 の六ヶ条の盟約(口頭の約束で文書にしてなかった)について木戸は覚書を記し龍馬に証明を求めますが、 その内容に間違いないという裏書きを龍馬が朱墨でこう記しています。
表に御記なされ候六條 (薩長同盟の盟約) は、小 (小松帯刀、 薩摩藩の家老)、 西 (西郷隆盛) 両氏及び老兄 (木戸孝允)、 龍等も御同席にて談論せし所にて、 毛も相違これなき候。 後来といへども決して変り候事これなきは、 神明 (神) の知る所にござ候。
これは明治維新史の超一級史料で、 宮内庁に保存 (維新後、 木戸が朝廷に献上) されております。 これは龍馬の存在、 役割の大きさを証明する何よりの証拠です。 もし龍馬がただの薩摩の使い走り、 あるいは手先のような存在に過ぎないとすれば、 木戸は盟約を証明する裏書きを求めるでしょうか。 求めないでしょう。 その意味で、 これは龍馬が木戸からも西郷からも深く信頼された、 天下の人物であったという何よりの証拠です。
こういう龍馬ですから、 一般に 「維新の三傑」 といえば、 西郷隆盛、 大久保利通、 木戸孝允ですが、 同時代人は、 西郷隆盛、 高杉晋作、 坂本龍馬が 「明治維新の真の三傑」 だと見ていたほどです。
「一生の晴にてこれあり候」
むろん、 これほどの働きをすれば、 幕府側から狙われるのは当然です。 同盟を結んだ翌々日の二十四日、 龍馬は寺田屋に泊まっていました。 そこで、 徳川幕府の伏見奉行所の奉行以下百数十人に取り巻かれます。 妻のお龍さんが風呂から駆け上が ったという例の場面です。 襲われて手傷を負いますが、 お龍さんが伏見の薩摩屋敷に走り救いを求めたので、 かろうじて助かりました。 龍馬は薩摩の京都屋敷で傷の手当てから何から大変な厚遇を受け 、 西郷からしばらくお龍さんと一緒に薩摩まで来て休養したらと勧められ、 霧島温泉などに行きます。 日本で最初の新婚旅行と言われています。 そしてその頃、 お兄さん宛てにこんな手紙を書いています。
この時うれしきは、 西郷吉之助 (隆盛) ―― 薩州政府第一の人、 当時国中にては鬼神と云はれる人なり――は伏見の屋敷よりの早使より大気遣いにて、 自ら短銃を玉込めし立ち出でんとせしを、 一同押し留めてとうとう京留守居 (役) 吉井幸助 (輔)、 馬上にて士六拾人ばかり引き連れ迎いに参りたり。 この時、 伏見奉行よりも打取れなどののしりよしなれども、 大乱に及ぶべしとてそのまゝに相成り候よし。 実に盛んなる事にこれあり候。 私はこれより少々かたわにはなりたれども、 一生の晴にてこれあり候。
自分は幕府から命を狙われ手が多少不自由になったけれども、 天下の人物西郷が自ら兵を率いて助けに行こうとしてくれた。 「あの寝小便たれの弱虫だった龍馬、 これまでお兄さんやお姉さんにさんざん心配かけてきた私も、 いまや薩長の指導者から下にも置かぬ扱いを受けるような人間になり、 国の為に精一杯尽しています。 これもみなお兄さん、 乙女姉さんたちのおかげです。 お兄さん、 喜んでください」 と言っているのです。 「一生の晴にてこれあり候」 とはそういう意味です。