坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概(4)
尊皇の志士・坂本龍馬
龍馬の攘夷の精神について述べました。 さらに、 龍馬の尊皇の精神についてお話します。 龍馬は尊皇と無縁の人間であったのか。 とんでもないです。 龍馬は心の底からの尊皇、 勤皇の士です。
この数ならぬ我々なりと 、 何とぞして今上様 (孝明天皇)の御心を安めたてまつらんとの事、 御案内の通り朝廷というものは国 (土佐藩) よりも父母よりも大事にせんならんというはきまりものなり。
池 内蔵太という同志のお母さん宛の手紙です。 天皇、 朝廷あっての日本だ。 だから、 天皇、 朝廷は自分の親よりも大事だ。 また当時武士にとって藩というのは自分のすむ世界のすべてです。 その藩よりももっと大事なのが朝廷だ、 天皇陛下だ、 皇室だと言っているのです。
新葉集とて南朝――楠木正成公などの頃、 吉野にて出来し歌の本なり――にて出来し本あり。 これがほしくて京都にて色々求め候えども、 一向に手に入らず候間、 かの吉村よりお借り求めなされ、 おまえのだんなさんにおん写させ、 おん願いなされ、 何卒急におこし下さるべく候。
ここに 『新葉和歌集』 (岩波文庫) を持って参りました。 後醜醐天皇をはじめ南朝の天皇と南朝に忠誠を尽くした人たちの歌を千何百首も集めたもので、 維新の志士たちの座右の書の一つでした。 龍馬はこの 『新葉集』 が欲しくて欲しくてたまらなくて、 京都じゅう探し回った。 しかし、 入手できない。 高知の吉村という家にあることを思い出し、 龍馬の家で長年奉公していたお手伝いさんに、 吉村の家にある 『新葉集』 を 「おまえのだんなさん」 に写してもらつて、 私に送ってくれと言うのです。 それほどこの歌集を求めたのです。 その新『葉集』を代表する歌が、 後醍醐 天皇の皇子で編者の宗良親王の歌です。
君のため世のためなにか惜しからんすててかひある命なりせば
天皇のため、 この日本の国のため、 自分の命を捧げることこそ、 自分の本望、 本懐であるという尊皇の心を詠んだ名歌、 万代に伝うべき絶唱です。 この歌こそ龍馬ら志士たちの心の奥底にある思いです。 こうした歌を拝誦して龍馬は尊皇愛国の心をみがいたのです。 ですから龍馬が大好きな人は、 龍馬のこの深い尊皇の心を理解していただきたいのです。 この歌を聴いて、 しみじみ共感できる人は本当の日本人の心の持ち主ですね。
いったい龍馬はこの尊皇の心をどこで学んだのでしょうか。 実は坂本家は代々和歌、 国学、 神道を学ぶ伝統がずっと続いてきた家です。 お父さんは万葉学者で有名な高知の鹿持雅澄の弟子です。 龍馬は当時の武士の必須とされた儒教、 漢学の勉強は他の人よりおくれましたので、 「龍馬は学問がない」 といわれましたが、 和歌、 国学、 神道の方は他の人よりずっと深かったのです。 坂本家ではみな和歌を詠みました。 龍馬も歌作りに励み、 同好者とよく歌会も開きました。 この坂本家の和歌、 国学を学ぶ家風、 伝統が坂本龍馬の傑出した人格、 人品をつくり上げる元でした。
月と日のむかしをしのぶ湊川流れて清き菊の下水
これは龍馬が神戸の湊川にある 「鳴呼忠臣楠子之墓」 を訪れて作った歌です。 明治維新の志士たちはすべて楠木正成を最高の日本人と高く仰ぎ、 手本としました。 龍馬もまたそうでした。 有名な龍馬の立ち姿の写真があるでしょう。 革靴を履いて、 短刀だけ差している例の写真。 あの短刀の柄の紋はどういう紋だと思いますか。 菊水の紋です。 上半分が菊、 そして下に水が流れている。 この菊水の紋を楠木正成は後醍醐天皇から賜ったわけですが、 それを龍馬は短刀の柄につけて、 自分も楠木正成たらんとしました。 龍馬のみならず多くの志士が 「鳴呼忠臣楠子之墓」 を訪れ、 歌や詩を詠みました。 そもそも 「志士」 とは尊皇攘夷の精神を持った人のことを言います。 龍馬がこのような篤い尊皇心の持ち主であることは、 『竜馬がゆく』 をはじめ従来の龍馬伝ではほとんど触れていません。 しかし、 この精神が分からなかったら、 本当の坂本龍馬も明治維新も、 絶対に理解することはできません。