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坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概(3)

坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概(3)

 

 「違勅調印」の不平等契約

 

 このように龍馬は他の尊皇攘夷派の志士たちとは違った道を歩みますが、 それでは尊皇攘夷の志士としての精神は忘れていたのでしょうか。

 『竜馬がゆく』 を読みますと、 坂本龍馬は尊皇も攘夷も関係がなかったような錯覚に陥ります。 龍馬は開明的で、 なにか今日流の民主主義者、 平和主義者のように描かれており、 攘夷派とは反対の立場にいたような印象を受けてしまいます。 戦後民主主義に迎合しているのです。 それはとんでもない間違いです。 龍馬は尊皇攘夷の精神をしっかりと持ち続けていました。 こんにち攘夷といえば未開野蛮、 頑迷固陋(がんめいころう)の排外的行為と思っている人が多いのですが、 しかしこれもとんでもない勘違いです。 攘夷とは、 日本を侵略、 支配せんとする欧米に対する民族の自立、 独立の精神です。 民族の健全な防衛本能です。 日本はこの攘夷の精神を持ち、 敢然と実行した。 だから、 非西洋中唯一、 欧米列強の植民地にならずに済んだのです。

 

 特に尊皇攘夷運動に真剣に取り組んだのは、 長州藩と薩摩藩でした。 薩摩は薩英戦争を、 長州は馬関(ばかん)戦争 (馬関とは下関のこと) を断行します。 これには深い理由がありますが、 簡潔に言います。

 最大の問題は、 幕府が諸外国と結んだ不平等条約 (通商条約) です。 まず関税自主権が日本にありません。 独立国家は外国から入ってくる物品に対して関税を自由に設定できます。 ところが、 日本の関税は一五パーセント。 それ以上課すことを認めないとされました。 もう一つは、 治外法権(ちがいほうけん)(領事裁判権)を認めさせられたことです。 外国人が日本で悪事を働けば、 日本の法律で日本の裁判所で裁く。 これが当然です。 ところがアメリカは、 日本のような未開野蛮の国がアメリカ人を裁くことは認めないとして、 アメリカの領事がアメリカの法律で裁くとした。 幕府はこの二つの致命的な欠陥のある不平等条約を、 威圧に屈して調印してしまいました。 この不平等条約をようやく改正できたのは明治四十四年、 小村寿太郎外務大臣の時で、 それまで日本は半世紀以上もこの不平等条約に苦しめられます。 

 徳川幕府は条約を結ぶ時、 自分たちのご都合主義で反対派を抑えつけるために、 孝明(こうめい)天皇に条約調印を許可していただくようお伺いを立てました。 しかし、 孝明天皇は反対されました。 このような条約を結んだら日本の国体(こくたい)に致命的な傷が入り、 いずれ日本は亡国の憂き目を見ると考えられました。 その判断洞察は実に正しかったのです。 ところが、 大老井伊(いい)直弼(なおすけ)はハリスの脅しに屈服し、 天皇の詔勅(しょうちょく)に違反して条約を結びます。 これを 「違勅(いちょく)調印」 と言います。 

 当然、尊皇攘夷派はその条約は無効であるとして幕府を責め立てました。 それに対して幕府は反論できず、 条約を廃棄することを約束します。 さらに、 幕府は文久三年五月十日を期して攘夷戦争を断行することを決定します。 これを 「破約(はやく)攘夷」と言います。  この幕府の決定に従って、 長州藩は下関沖を通る外国の軍艦や商船に対して砲撃、 戦争を開始しました。 つまり、 長州藩の行った攘夷戦争は幕府の決定に従った大義名分(たいぎめいぶん)のある行為であり、 勝手にやったわけでも何でもありません。

 

 語られない龍馬の「攘夷の精神」

 

 龍馬はこの長州の断行した攘夷戦争に深く共感、 同情したのです。 このことをほとんどの人が知らないのです。

 

  方今(ほうこん)(現在)、 天下の形勢を察するに、 長防(ちょうぼう)二州(長州藩)の地に(つい)異国(いこく)の有に帰すべきか。一旦(いったん)、 異国の有に帰する時は、 再びこれを挽回(ばんかい)するは難しかるべし。 されば今日は有志者の傍観して止むべき時にあらず。 宜しく談判を遂げ、 外人をして内地を退去せしめ、 (もっぱら)ら国内を整理すべきなり。

 

 このままでは長州は欧米列強に奪い取られてしまう、 長州を見殺しにするな。 欧米諸国と談判して不平等な通商条約を破棄し、 日本にいる外国人を全部自国に帰せ、 と龍馬は言っているのです。 これこそまさに尊皇攘夷派の主張そのものです。 そして「長州藩は無謀な事をやったのだ。 自業自得だ」と言う知人との討論で、龍馬はこう反論しています。

 

 さる条理もあるべけれども、 長(長州)は国の為死を決せしなり。 その気節(きせつ) (気概と節操(せっそう)、 日本人としての深い自覚と烈々たる気魄(きはく)、 勇気) 称賛すべし。 ゆえに援けざるべからず。 かつ空しく傍観してあらんには、 彼の二州 (長州藩) の地を外人の有に帰せしむるのみならず……国難はさらに数層加うるに至るべし。 とにかく今日は幕吏(ばくり) (徳川幕の役人) を処置し、 また外人へ退去の談判を開くべきなり。

 談判に服せずして別に為す所あらんとするに迫りなば (欧米が通商条約の破棄に応ぜず日本に戦争をしかけてくるならば) 、 全国一致の力をもって防戦すべし。

 

 ここで重ねて龍馬は言っています。 このままいけば、 長州は欧米に奪われてしまう。 国難はさらに一層深まる。 だから何としても直ちにこの通商条約を破棄しなければいけない。 そして、日本一国あげて、 欧米と戦えと言っているのです。 これは長州の主張とどこが違いますか。 吉田松陰なき後、 久坂(くさか)玄瑞(げんずい)、 高杉(たかすぎ)晋作(しんさく)がこの長州の尊皇攘夷運動を引っ張ってゆきますが、久坂や高杉の主張とどこが違うのか。 全く同じです。 そんな龍馬だから、四境(しきょう) 戦争(第二次長州征伐)の時、軍艦一隻をひっさげて高杉の応援に駆けつけています。 では、龍馬はいつまでも欧米とつきあうなと言っているのか。 それは違います。 欧米の侵略から日本を守る為にはどうしても欧米のすぐれた科学技術、軍事力を導入しなければなりません。 「敵」 のもつ武器 (大砲、 軍艦) を身につける為には欧米とのつきあい、 貿易は不可欠です。 しかし、 それはあくまでも自主的に対等の関係でなければならないということです。

 

 以上はすべて 『坂本龍馬全集』 にありますが、 このような文章にふれることは、 これまで恐らくなかったかと思います。 戦後、 龍馬の伝記、 物語は 『竜馬がゆく』  をはじめ何十冊も出ています。 しかし、 これを引用している本は、 ほとんどありません。 尊皇攘夷の志士としての龍馬を決して書こうとしない。 だから全国の数多くの龍馬の心酔者たちも、 龍馬が攘夷の精神の持ち主とは知りません。 知らないどころか 「龍馬は頑迷固陋の攘夷派とは違う」 などと思い込んでいる。 しかし、 それでどうして真実の龍馬が分かるのか。 分かるわけがないでしょう。 さらに、 龍馬はこう言っています。

 

 誠になげくべき事は長門(ながと)の国に(いくさ)初まり、 五月より六度の(いくさ)に (長州藩は六回欧米と戦った)日本(はなは)だ利すくなく、 あきれはてたる事は、 その長州で戦いたる船 (欧米の軍艦) を江戸で修復いたし、 また長州で戦い申し(そうろう)。 これ皆姦吏(かんり) (徳川幕府) の夷人(いじん) (欧米列強) と内通(ないつう)いたし候ものにて候。 朝廷より先ず神州(しんしゅう) (日本) を保つの大本(たいほん)をたて、 それより江戸の同志と心を合はせ、 右申すところの姦吏を一事(いちじ)(いくさ)いたし打殺し、 日本を今一度洗濯いたし申し(そうろう)(こと)にいたすべくとの神願(しんがん)にて候。

 

長州が外国にやられたのを、幕府はザマを見ろと内心手をたたいて喜んでいたわけです。 それに対して龍馬は心から憤慨しました。 こんな幕府は一日も早く倒さなくてはいけないと思いました。

龍馬だけではありません。 例えば、 吉田松陰は危機感が最も深かった人ですが、 「徳川存するうち神州陸沈のほかなし」 とまで言っています。 徳川幕府が存在する限り、 神州、 日本は沈没する、 滅亡するしかない。 ペリーに屈し、 ハリスに屈し、 不平等条約を呑まされ、 このままいくならば日本は滅亡するしかないという危機感です。

その切実な危機感を志士たちは全部共有している。 だから、 龍馬は 「直ちに徳川幕府を打ち倒して、 京都の天皇を中心としてこの日本を立て直すのだ。 日本を今ひとたび洗濯して甦らせるのだ。 それが私の神願だ」と言っているのです。

 

 「日本を今一度洗濯いたし申し候」 という言葉は最近はよく聞くようになりましたが、 今の日本の指導者に最も足りないものはこの願いです。 志士たちのように天皇を仰いで日本を国難から救い、 何としても立て直すという命懸けの願い、 神願を持った指導者が残念ながら今の日本には少ない。そこにこんにちの日本の深刻な低迷状況がある。私はそう思います。