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坂本龍馬 国難に立ち向った志士の気概(2)

坂本龍馬 困難に立ち向った志士の気概 (2)

 

 脱藩

 

 ところが、 土佐藩を支配する山内(やまのうち)家は、 関ヶ原の戦いで徳川に味方して、 掛川(かけがわ)六万石から土佐二十四万石の大大名 (幕末期は五十万石) になったものですから、 幕府に恩義を感じ外様(とざま)大名なのに心は譜代(ふだい)でした。 ですから、 土佐勤王党の運動を(おさ)えつけました。

それで土佐にいたのではどうしようもないというので、 命懸けの脱藩をする人が出てきます。 土佐勤王党の四天王(してんのう)と言われたのが、 武市半平太、 坂本龍馬、 吉村虎太郎、 中岡慎太郎です。 この四天王のうちの三名が脱藩します。 武市は 「あくまでも藩全体を尊皇攘夷の藩に変えるのだ」 ということで居残りますが、 最後に山内(やまのうち)容堂(ようどう)から切腹を命ぜられます。 龍馬たちはさっさと見切りをつけて、 文久(ぶんきゅう)二、三年(一八六二〜三)に脱藩しました。

 

脱藩というと物語の中では格好よく見えますが、 当時の侍にとっては大変なことでした。 当時、 武士は藩から自分勝手に去ったら生きることができない。 そもそも藩を離脱するなどということは考えられません。 たとえていうと、 この地球から抜け出るようなものです。 それほどの覚悟が要ります。 しかも、 捕まつたら悪くすると死刑です。 家族もどんな(とが)めを受けるかしれない。 当然、 坂本家の当主である龍馬のお兄さん (父はすでに死去) は猛反対しました。 お兄さんや家族から見れば龍馬のやることは狂気の沙汰(さた)以外の何物でもない。 しかし、 龍馬は土佐を抜け出します。 いかに彼の国を思う志が高かったか。 龍馬は土佐の上士(じょうし)から見るならば虫けらの如き扱いを受ける吹けば飛ぶような存在にすぎませんが、 自分が今立ち上がらなければ、 この日本の国は本当に滅亡してしまうという切実な危機感を持って脱藩するのです。 まず私たちが志士たちから学ばなければならないのは、 この志ではないかと思います。

 

 勝海舟に弟子入り

 

当時、 脱藩した志士たちの多くは長州へ走りました。 尊皇攘夷運動の総本山が長州でした。 ところが龍馬はどこへ行ったのかというと、 勝海舟の弟子になります。 この頃、 尊皇攘夷運動は頂点に達し、 それは倒幕運動へと進展しますが、 その打倒すべき幕府の高級役人に弟子入りしたのです。 だから、 尊皇攘夷派の志士たちからは最初は理解されませんでした。 「あいつは一体何を考えているのだ」 と。 その頃の龍馬の気持ちがよく分かるのが、次の歌です。

 

 世の人はわれをなにともいはばいへわが為すことはわれのみぞ知る

 

 それにしても、 なぜ龍馬は勝海舟のところへ弟子入りしたのでしょうか。 『竜馬がゆく』 では、 勝海舟のところに千葉重太郎と一緒に行ったことになっています。 「もし勝がおかしなことを言うなら一刀両断にしてくれる」 というつもりで行ったけれども、 「お前さんたち、 おれを斬りに来たのか。 斬る前におれの話を聞け。 話を聞いて不都合があったら斬れ」 と勝が言って、 龍馬が目を開かされるというあの話です。

 

 しかし、 龍馬は勝を斬るつもりで行ったのではありません。 龍馬は勝という人物、 また海軍というものに深い関心があったのです。 この時、海舟は次のようなことを語りました。

日本はこのままいけば、 間違いなくインド、 (しん)の二の舞になる。 欧米列強の植民地、 属国になる。 そうしないためにはどうしたらいいのか。 挙国一致の統一的日本を作らなくてはいけない。 日本人同士がお互いに争い合っているようでは、 それこそ彼らの思う壺だ。 そうならないためには統一的日本を作って、 外国に狙われない国防力を持たなければいけない。 そのためには海軍を早急に強くし、この海軍をもって日本を狙う欧米を打ち払う。 お前さん方の言う攘夷のために海軍が必要なのだ、と。

勝は徳川幕府の海軍をつくり上げた第一人者で、 当時軍艦奉行(なみ)でした。

 

それは龍馬の目指すところでした。 海舟の言葉をきいて即座に 「先生、私を弟子に加えてください」 とその場で弟子入りしました。 こうして勝と坂本龍馬の師弟関係が始まります。 幕末における最も見事な師弟関係の一つです。

勝も一見して坂本龍馬の人物に惚れ込みます。 数ある弟子の中でも龍馬を最も認めて、 その後、 神戸海軍操練所の塾頭にします。 勝が遺した日記を見ますと、 龍馬のことを 「龍馬()」 と敬称をつけて書いています。 ほかの人物についてはそのような敬称はつけておりません。 いかに勝が龍馬を傑出した人物と認め敬愛したかが分かります。

 

龍馬はそのころの自分の気持ちを、 乙女姉さんに宛てた手紙に書いています。

 

さてもさても、 人間の一生はがてん (合点) の行かぬは元よりの事、 うん (運) のわるいものは風呂より出でんとしてきんたまをつめわりて死ぬるものあり。 それとくらべて私などは運がつよく、 なにほど死ぬる場へ出ても死なれず、 自分で死のうと思うても、 又生きねばならん事になり、 今にては日本第一の人物勝麟太郎(りんたろう)という人の弟子になり日々兼ねて思いつくる所を精と致し()(そうろう)

それゆえ私四十歳になるころまでは家に帰らんように致すつもりにて兄さんにも相談致し候ところ、 この頃は大きに御機嫌よろしくなり、 そのお許しが出で申し候。国のため天下のため力を尽し居り申し候。 どうぞおんよろこび願い上げ候。

かしく

  

寝ても覚めても自分のことを心配しているであろうお姉さんに、 脱藩してから初めて出した手紙です。 ここに書いてある通り、 死ぬような目にも遭ったのでしょう。 「しかし、自分は今生きて、 日本第一の人物、勝海舟先生のもとで海軍の稽古をしております。 どうか喜んでください。 安心してください」 という有名な手紙です。