
坂本龍馬
生年が天保6(1835)年10月とする説もある。父は高知藩の郷士。嘉永6(1853)年江戸の北辰一刀流千葉定吉に師事。剣士として知られる。文久元(1861)年武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加。2年脱藩して江戸へ出、勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所建設に尽力。慶応元(1865)年長崎の亀山に社中(のちの海援隊)を開く。薩長連合締結に努力し、2年西郷隆盛と木戸孝允の盟約に立ち会った。3年6月後藤象二郎と長崎から海路上京する船中で、独自の国家構想である「船中八策」をまとめた。同年11月中岡慎太郎と共に京都で暗殺された。(写真と文:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
先日お知らせしました岡田幹彦先生のご著書「維新の先駆者」をこのホームページで公開することをご承諾いただきましたので、初めに第一章「坂本龍馬 困難に立ち向かった志士の気概」を7回に分けてご紹介します。
なお、本講演録は、平成二十二年三月十三日、日本政策研究センター大阪中ビジョンの会における歴史講座「坂本龍馬」の記録を、整理・原稿化したものです。
坂本龍馬 困難に立ち向った志士の気概 (1)
「龍馬伝」では分からない坂本龍馬
皆さん、 こんばんは。 今日はいま人気の高い坂本龍馬についてお話させていただきます 。
皆さんもご覧になっているかと思いますが、 今放映されている 「龍馬伝」、 私も何回か見ました。 しかし、 あれはものすごく脚色されております。 もっとはっきり言いますと、 捏造ですね。 例えば、 岩崎弥太郎が副主人公のようになっていますが、 実際には若い頃の弥太郎は龍馬とつきあいはありません。 それから、 龍馬が吉田松陰と会った場面もありましたが、 実際には会っておりません。 また松陰と金子重輔が殴り合って気合いを入れる場面もありましたが、 あれも作り話です。 ひどいものです。
今はテレビを見て楽しんで、 そのあと本を読むという時代ですから、 まず映画やテレビ、 漫画など、 そういうものをきっかけに龍馬のことを知ろうというのは、 結構なことだと思います。 しかし、 あれがすべてだと思わないように気を付けなければなりません。
一方、 坂本龍馬をここまで有名にしたのは、 司馬遼太郎が書いた 『竜馬がゆく』 です。 司馬さんの小説はことごとくベストセラーになりましたが、 一番読まれたのは 『竜馬がゆく』 です。 私も若い頃に三回ぐらい読みました。 ものすごくおもしろいですね。 司馬さんは龍馬と同じ時代に生きてさも龍馬を見てきたかのように描いております。 だから、 あれを読んだ人は男も女も老いも若きもみんな龍馬が大好きになる。 京都の寺田屋に行くと、 若い男女でいっぱいです。
しかし、 『竜馬がゆく』 をはじめ坂本龍馬の伝記、 物語は山ほど出ておりますが、 実はそのほとんどが龍馬の真面目、 真骨頂を伝えておりません。 龍馬があの世で 「それではいかんぜよ」 と言いそうです。 それゆえ、 私はこれまで二十年以上にわたって声を大にして龍馬の真の姿というものを語り続けてきました。 いったい本当の坂本龍馬というのはどういう人物だったのでしょうか。
劣等生だった竜馬
言うまでもなく、 龍馬は人気だけでなく実力もありました。 薩長同盟の成立に力を尽くすなど明治維新を成就させる上で大変重要な役割を果たしました。 しかし、 小さいときから優秀だったのかというと、 そうではありません。 大変な劣等児です。 ものすごく気が弱く、 けんかしては泣かされる。 それから十二歳ぐらいまで寝小便をたれていた。 弱虫、 泣き虫、 寝小便たれで、 塾へ行ってもいじめられ、 からかわれる。 だから、 お父さんは 「龍馬は廃れ者になる」 と言って心配しました。 廃れ者とは、 到底一人前の人間たり得ない、 一人前の社会生活を送れない人間のことです。 そこまで心配していました。
しかし、 その龍馬が立派な人間になります。 彼は日本人の一典型です。 三十二年の生涯で多くのすぐれた人物に出会いますが、 みな一見して龍馬の素晴しい人格、 人間性に惚れ込み、 強い敬愛の情を抱きました。 よくよくのことです。 龍馬はどうしてかくも立派な人間になれたのでしょう。 私が思いますのに、 龍馬はいじめられ、 悔しく泣いた経験の持ち主です。 小さいときに挫折、 失敗を経験しております。 この体験が龍馬の人間を作ったと思います。 弱虫で劣等生であったがゆえに、 人の痛みや苦しみや悲しみのわかる、 相手のことを深く思いやることのできる謙虚な人間になることができたのです。
また龍馬は非常に愛情の深い家庭に育っております。 龍馬の家庭はみんな温かい人です。 十二歳のときにお母さんが亡くなりましたが、 次のお母さんが来ます。 このお母さんもいい人だったそうです。 しかし、 誰よりも龍馬のことを一心に愛情をもって育て上げたのは、 三つ年上の乙女姉さんです。 「あなたはやればできる力があるんだ」。 乙女は龍馬をこう励ましながら、 剣道から水泳から、 何から何まで全部教えてやった。 龍馬と乙女は強い絆で結ばれ龍馬はこの姉を敬慕してやみませんでした。 そのうち十四歳から始めた剣道がどうやらものになり始めた。 他は何の取り柄もなさそうに見えた龍馬が、 剣道だけは素質がありました。 それから四、五年、 高知の町道場で励んだ結果、 誰も相手になる人間がいないぐらいに上達するのです。
「ペリー来航」を機に志を立てる
お父さんは 「龍馬はどうやら廃れ者にならずに済みそうだ」 とすっかり喜び、 龍馬の家は裕福でしたから、 「では、 江戸に出そう。 高知にいてもこれ以上は腕が上がらん」 ということで、 龍馬は江戸に出て、 北辰一刀流の創始者である千葉周作の弟、 千葉定吉に入門します。 これが十九歳のときです。 約一年ちょっとおりました。 定吉先生にものすごくかわいがられました。 人間がよかったからです。 頭の方はともかく、 人間がすばらしい。 剣道の腕も非常に見所がある。 ぐんぐん腕を上げまして、 一回、 高知に戻ります。 そして、 二十二歳のとき、 再び江戸に出て、 さらに二年間修行を積み、 北辰一刀流の免許皆伝をもらう。 長男坊の跡継ぎが千葉重太郎で、 これとも親友になった。 娘が千葉佐那子でこれが免許皆伝の腕前です。 この佐那子から好かれまして、 佐那子は生涯、 「私は龍馬の許婚でした」 と言っていました。
千葉定吉は龍馬を佐那子の婿にしようとしていた。 そして千葉道場の塾頭にまでなった。 塾頭というのは腕が立つだけではだめです。 腕のみならず門弟の中で人間が最も立派なのを塾頭にした。 龍馬はその塾頭に選ばれたわけです。 このようにして、 龍馬はその才能を徐々に開花させて行くわけですが、 龍馬がこの日本の国のために立ち上がろうという志を持つに至ったのは、 十九歳で江戸にいたときに起こった大事件、 ペリーの来航によります。 ペリーの来航に、 龍馬をはじめ日本の心ある侍は目覚めました。 このままでは日本は欧米列強の植民地、 属国になるという深い危機感です。
今はペリーのことを 「開国の恩人」 と思っているのんきな人がおりますが、 とんでもない。 ペリーは強大な軍事力を以て威嚇しアメリカの要求を日本に突きつけました。 もし開国要求を拒絶したときに、 ペリーはどうしようとしていたか。 ここに持ってきましたのは 『ペルリ提督日本遠征記』 (岩波文庫全四巻)です。 彼が日本を開国させてアメリカに戻ってから自慢たらたら、 「おれはこうやつて日本を屈服せしめたのだ」 と言って出した本です。 その中でこう言っております。 「もしも日本政府が協定を拒絶すれば、日本帝国の属国たる大琉球島をアメリカ国旗の管理のもとに置こうと用意していた」 。日本が開国しなかったら、 沖縄を奪い取るつもりでいたのです。 ペリーは日本に対して真に友好、 親善を求め、 礼節をもってのぞんだのではないことを知らねばなりません。
このペリーの砲艦外交に、 当時の徳川幕府は何ら毅然たる反応を示すことなく屈します。 独立国にあるまじき土下座外交でした。 この時、 武士としての誇りある人はみんな涙を流して悔しがりました。
それ以来、 龍馬は剣術だけではなく学問にも真剣に打ち込みます。 一心不乱に勉強する。 佐久間象山に入門して西洋砲術の稽古も始めました。 そして高知に帰って仲間と切磋琢磨し、 二十七歳のときに武市半平太を首領とする土佐勤王党が結成されます。 目的は尊皇攘夷です。 武市半平太という人は、 長州でいうと吉田松陰に当たるような立派な人です。 龍馬の親友でした。 龍馬はこの土佐勤王党に加盟します。 土佐勤王党の仲間は、 みな下士、 郷士、 昔からいた長曽我部系の武士たちです。