沖縄戦で戦死された杉原全龍中尉の戦中日記が米軍の手で英文に翻訳されて、硫黄島協会初代会長故和智恒蔵氏が保管されていた膨大な資料の中から発見されたというお話です。
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〇🔗米軍が英訳した「硫黄島日記」 日本軍将校の死生観うつす「死が不可避でも最後まで抗う」
"「昭和20年1月12日 晴午後曇 6時起床…澄み切った青空を眺めていると、その美しさは、戦争の醜さを超越し、忘れ去り、わたしの魂は自然に帰る」
陸軍独立速射砲第11大隊の連絡将校、杉原全龍(ぜんりゅう)中尉が戦死の直前まで綴(つづ)った47日間の日記である。
「われらの皇土の盾、この硫黄島。名誉にかけて、この地に踏みとどまる」
「塵(ちり)と消えようと、悔やみはしない。われらは先祖から悠久を受け継いだ。汝(なんじ)よ、守りたまえ、勇士たちを われらが硫黄島を」
「これは勝てる戦闘だ。粘り強く 持ちこたえよ。敵を叩(たた)きのめせ。われらは大東亜戦争の勝利の礎を絶対に築かねばならない」
「死が何だろう。不可避な死に臨んでも、われらは勇敢に戦う。最後まで抗(あらが)う。正義の道にこそ、勝利の光を見いだすことができる」”
"米国は死傷者数で日本軍を上回る犠牲を払った硫黄島の戦いを「並外れた勇気」(ニミッツ海軍提督)の象徴と語り継いできた。戦後80年の今、私たちも、死力を尽くした先人の戦いの意味を考えるときではないか。”
戦場で過ごす日々の中で発する言葉が過激となるのは仕方ないでしょうが、その言葉に備わる純粋さ、心の美しさが現在の私たちの心を打つのです。
〇🔗<独自>硫黄島で戦死の日本人将校の日記発見 80年前の祖国防衛の覚悟
"硫黄島で戦死した日本人将校の日記が見つかるのは異例。米側資料によると、米兵が杉原中尉の遺体のポケットから日記を発見し、駐留米軍の諜報部門が英訳した。”
"産経新聞が入手したのは、昭和60(1985)年2月に硫黄島で行われた日米合同慰霊式典で米側から、硫黄島での遺骨収集事業などを手がける「硫黄島協会」初代会長の和智恒蔵氏に渡された日記の写し。日記の原本が米国に保存されているかは不明だ。”
"杉原中尉は、明治42(1909)年2月、島根県生まれ。対戦車戦を担う同大隊は昭和19年6月に広島で編成され、7月、硫黄島へ派遣された。中尉は大隊本部で連絡将校を務めた。”
"日記について、硫黄島協会の八巻功事務局長(79)は「先輩から戦況を聞き、戦跡や武器の残骸を見て、日本軍の苦労の大きさを想像してきたが、それは間違いではなかった」と指摘。「戦闘に加わった人の生の声を初めて聞く思いがした」と語った。”
〇🔗「塵と消えようと悔やまない」 戦死直前までつづった「硫黄島日記」、日本人将校の気概
渡辺浩生記者による日記の抜き書きですが、残念ながら有料会員記事なのですよね。この記事を読むだけで月1980円の産経新聞購読料は安いと思います。
"英訳されて残っていた第二次大戦末期に硫黄島で戦死した独立速射砲第11大隊の杉原全龍中尉=当時(36)=の日記は、現地で戦った日本将校の思いを記した貴重な資料だ。「名誉にかけてこの地に踏みとどまる」「塵と消えようと、悔やみはしない」-。死の直前までつづった47日間の記録は、本土を守る「盾」として死を決した将兵たちの気概を今に伝えている。”
"杉原中尉は昭和20年1月11日、慰問品のノートに日記をつけはじめた。激しさを増していた連日連夜の米軍の空襲を記録しつつ、米軍上陸に備え、地下陣地の建設に励む姿を描いた。”
"「戻ると実家から2つの荷物が待っていた。すぐにお礼の手紙を書いた。洗面用品、はがき、餅などだ。家族の思いやりにほろりとした」(同30日)。餅は部下に振舞った。
「以下は娘からの手紙。『お父さま、私はお母さまのいうことを聞き、立派な女性となるよう一生懸命勉強しています』」(31日)”
〇🔗「日本軍知る貴重な情報源」米専門家 硫黄島で戦死した日本将校の日記
"英訳は硫黄島制圧後の昭和20年7月6日付で、米陸軍硫黄島司令部の諜報部門(G2)が完成させた。海兵隊の資料部にも保管され、「杉原中尉の日記は地下壕の入り口の遺体のポケットから見つかった」という元海兵隊員の付記があった。”
"退役海兵隊員で戦史家のアルフレッド・クック氏(66)は、(中略)杉原中尉の人物像について「勇気、強い義務感、名誉と自己犠牲の精神を備え持ったリーダー」と分析。「自身が払わねばならない犠牲を理解しつつ不退転の姿勢を維持した。日本軍将兵の勇敢さと覚悟を代弁していた」と評した。”
"米国では、死傷者数で日本軍を上回る多大な犠牲を払った硫黄島の戦いを「並外れた勇気」の象徴と語り継いできた。それだけに日記にも描かれた日本軍の力戦奮闘への評価も高い。”
沖縄戦に参加されていた杉原全龍中尉の日記に綴られた思いが心を打ちます。このような方々のおかげで今日の日本の繁栄があることを忘れてはならないと思います。
さらに、沖縄の左に頭が傾いた人々の「沖縄県民は先の戦争で沢山の人が亡くなり、大いに傷ついた。」という意味合いの言葉には、この記事の杉原中尉のように日本全国から沖縄戦に参加し、亡くなった人々のことが抜け落ちている事は、記憶しておきべきだと思います。