月刊誌「明日への選択」のご紹介

 「明日への選択」は、安倍元総理が懇意にされていたシンクタンク『日本政策研究センター』の発行する月刊誌で、日本にとって重要な論文が多数掲載されています。

 

 岡田邦宏所長の承認をいただき、日本政策研究センターのホームページ掲載の最近の小論文をサンプルとして掲載しています。 

 

 センターのホームページには過去の小論文が多数掲載されていますので、是非、ご一読ください。トップページの「オピニオン一覧」が分類されていて解り易いです。

 

※日本政策研究センターは、「明日への選択」購読会員を求めていますので、関心のある方はぜひ会員申し込みをお願いします。(センターのホームページ下段「入会のご案内」をご確認ください。)

 

青い文字にリンクが張ってありますので、クリックすれば該当のページに飛びます。


外国人政策不在のままでは新たな川口問題が起こる

 

 「クルド系とされるトルコ国籍の方々、この人たちが特定の地域に集まって住むようになっている。そこでは日常生活のマナーに違反するなんていう程度ではない、コンビニや公園に集まっての集団迷惑行為、無免許、暴走運転、人身事故、関連する事件が頻発して、その地域では怒りが頂点に達している」

 十二月十日、衆議院予算委員会で埼玉県川口市を地元とする自民党・新藤義孝議員はこう訴えた。令和五年七月、川口市医療センターに百人余りのクルド人が集まって騒動になって以来、SNSなどで論議されてきたが、「怒りが頂点に達している」という悲痛な地元の声が国政に届けられたと言える。

この国会質問と前後して、埼玉で女子中学生に性的暴行を加え有罪判決を受けた在留クルド人が、執行猶予中に別の少女を暴行し、逮捕・起訴されている事実が判明、川口の問題は文字通りの治安問題となっている。

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 なぜこんなことが起こるのか。クルド人が川口市周辺に集住している原因は「ビザの免除措置や難民認定の悪用」にあると新藤議員は指摘している。

 日本は現在七十一カ国とビザ免除を取り決め、トルコとの間でもこの「ビザなし渡航」が行われている。航空券とパスポートさえあれば、観光と称して三カ月の短期滞在資格で日本に入国できる。

 その三カ月の間に難民認定を申請すれば、その申請手続き中は特定活動という在留資格で滞在でき、一回目の手続き後に限っては就労も可能となる。通常は再度の審査で不認定となると収容令書が発付され退去強制手続きが始まるのだが、大抵は不認定の決定に対して不服申し立てがなされ、すぐに強制退去はされず「仮放免」となる。

 この「仮放免」が問題で、これまでは不服申請は何度でも可能で一回の審査期間が二年余りだったため、六回も七回も申請を繰り返して二十年の仮放免状態というケースもあったという。しかし、仮放免が二度目となると原則的に就労不可となるため多くはそのまま所在不明となり、不法在留・不法就労となっていた。

 難民と言いながら、要は「出稼ぎ」だったと言える。この十五年間で難民申請したトルコ国民(国籍)は約九千七百人でその大半がクルド人だが、難民申請を受理されたのはたった一人でしかなかった。トルコ大使もその事実を認めている。

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 政府は難民申請が三回目以降には強制送還可能とする法改正をしたり、入国もビザ免除ではなく、事前審査を必要とする世界各国が採用している電子渡航システムの導入を準備しているが、実はそうした対策は問題対応の一部でしかない。

 わが国は「外国人材の受け入れと共生」(骨太の方針2024)を掲げながら、そもそも、外国人の出入国や在留者の処遇をどうするのかという「外国人政策」が存在しない。そのため、「移民」という言葉を使わないだけで、在留外国人は今や三百五十八万人余りと増え続け、四十年後には人口の十人に一人が外国人になるとの予測すらある。在留資格も十年前に永住資格を緩めた結果、永住中国人が十万人から一挙に三十万人に増加するという杜撰な措置がなされた。どこまで「外国人材」を受け入れるのか。その政策理念が明らかにならないまま外国人が増加していく。国家の有り様として異常と言う他ない。

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 その一方、新聞もテレビも外国人が起こした問題はあまり取り上げず、人権や差別問題としてだけ強調する傾向にある。新藤議員の質問を取り上げたのは産経だけで朝日、読売、毎日、日経は一行も取りあげなかった。この国は外国人の人権には敏感だが、外国人によって起こされる問題にはあまりにも無関心と言える。こんなことをしていると第二、第三の川口が起こることは必定である。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』令和7年1月号〉

 米国における「宗教保守」への視角

 米国大統領選におけるトランプ氏の圧勝は人々を驚かせ、またもやマスコミは判断ミスを叩かれた。そんな中、雑誌『Voice』12月号に掲載された藤本龍児氏と会田弘継氏の対談「米国を変える福音派とカトリック知識人」は、かかる現実を「宗教保守」の存在という、もう一つの視角から論じていて参考になった。

 むろん、この対談は大統領選の結果判明前に行われたもので、今回の結果自体を分析したものではない。とはいえ、対談は、米国におけるキリスト教の福音派とそれを中心とする「宗教保守」の影響力を論じており、今回の分析にも大きな示唆を与えてくれるものと筆者には思われた。

 藤本氏によれば、この宗教保守の中心にいるのは、国民の二五パーセントを占める福音派で、そこにカトリックやユダヤ、モルモンなど保守派を加えると、国民の三割強から四割弱になるという。福音派とは聖書を重んじ、福音を信じる人々であるが、基本的に保守的な考え方をする人々だともいう。熱心なトランプ派である「宗教右派」とは性格が異なるが、いずれにしても、大きな影響力をもつ存在であることは確かだ。

 会田氏はいう。「米国史を紐解くと、かつては黒人教会が公民権運動において重要な役割を果たしたように、信仰心の深い人びとがさまざまな運動を担うことで、国家を変えてきました。一九八〇年代には共和党のレーガンが大統領に就任しましたが、当時政権を支えたのが福音派に代表される宗教保守でした」

 かつてトランプとヒラリーが大統領選を戦った時には、宗教保守は当初、トランプ支持ではなかった。しかし、ヒラリーが余りにも宗教保守とは逆だったので、彼らは結果的にトランプ支持になったという。そして今日、これはポリティカル・コレクトネス(PC)、つまり同性婚やLGBT等の一方的主張に対する反対に繋がっているわけだ。このように文化の過剰な左傾化を、彼らは米国を分断するものとして嫌うという。

 ところで、一般的には、米国では「世俗化=宗教の衰退」が流れだとされてきた。ところが、両者はそれを誤りだとし、SNSで宗教に触れている若者は逆にとても多く、最新の調査では、無宗教者が減っているデータもあるとする。それどころか、会田氏は更に今日の過剰な個人主義を批判するカトリック知識人等の台頭を引きつつ、「現在の米国を見ると、むしろ宗教の影響力は増していると受け止めるべき」だとし、「米国は新たなフェーズに突入している」とさえ指摘。これが米国の現状だとするのだ。

 それでは、かかる米国の現状をわれわれはどう考えるべきなのか。まず会田氏は「そもそも宗教を核に据えない国家はあり得るのか」と問い、「日本人はもっと(自国の)根底の宗教観や自然観を掘り下げるべき」と指摘する。その上で、それに基づく日本社会の安定を「羨ましい」とした米国の宗教学者ロバート・ベラーの言葉を引き、日本人固有の宗教観と意義を問い直してみることを勧めるのだ。

 一方、藤本氏はこの会田氏の指摘に「重要かつ喫緊のものだと思います」と応じるとともに、更に「宗教を単に遠ざけているだけでは、日本の問題も世界的動向も捉え損ねてしまいます」と指摘、これでは「宗教を政治や社会のなかで適切に位置づけることはできません」とする。

 同時に氏は、そうした視角から、今回のトランプ勝利を「本来の米国からの『逸脱』だとか一時的な『反動』現象だと考えていると、いきなり梯子を外されかねません」とわが国の米国への論調に警告。宗教の存在を本質的なものとするこの「米国像を捉え直すことは欠かせない」と指摘するのだ。受け止め方は様々あろうが、実に示唆的で興味深い指摘だった。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』令和7年1月号〉

日本人が傷つけられた歴史を学ぼう

 今年は中国で日本人が被害に遭う年でもあった。その背景には習近平体制になってから強化されたという「反日教育」があるのだが、戦前にはもっと過激な反日教育が行われていたことを思い出した。

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 昭和六年の満洲事変の後、国際連盟はイギリス人のリットン卿を団長とする調査団を派遣して報告書をまとめた。現代の教科書ではリットン報告書は日本軍の行動は合法的な自衛行動ではなかったなどと勧告し、これが契機となって日本は国際連盟から脱退するのだが、一方日本の満洲での権益も認める報告書でもあった。

 そのリットン報告書は中国の反日教育、排日行動について取り上げ、それらが満洲事変を「惹起せる雰囲気の醸成を誘導せり」とも指摘している。

 どんな教育が行われていたのか。報告書はこう書いている。

 「青少年の教育に当たり、注意は国民主義の建設的方面に対するよりも、むしろその否定的方面に注がれたり。諸学校の教科書を熟読する者は其の著者が愛国心を燃すに憎悪の焔を以てし、……此の結果として、学校に於て植付けられ且社会生活の有らゆる方面を通じて実行せられたる毒々しき排外宣伝は、学生を駆って、政治運動に従事せしむることと為り……」と。

 青少年教育は、国家建設ではなく、排外宣伝に向けられ、教科書は愛国心ではなく「憎悪の焔」に燃やす教育、反日教育に費やされたというのである。

 これは小誌九月号の石平氏の言う現代の反日教育の指摘と重なる。「九〇年代以降になると、明らかに重点が日本の残虐行為――例えばいわゆる『南京大虐殺』に関する記述がすごく増えました。しかも教科書だけではなく、教師たちに配る手引き書などにも、『南京大虐殺』については日本軍の残酷さを生徒たちに生き生きと語り聞かせて生徒たちの感情を喚起することが授業の狙いだと」。

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 リットン報告書に話を戻すと、「反日」は教室だけに留まったのではなかった。そこから「日貨」が排斥され、日本の権益が妨害されるなどの「ボイコット」運動が始まった。報告書はこう書いている。

 「ボイコット」の成功のためには「『仇国』に対する民心を刺激する為巧妙に選ばれたる標語」が作られ、「全国に亘り統一的に」「猛烈なる宣伝」が行われた。

 「例えば支那新聞紙の紙面は此の種宣伝に充たされ、又市内の建築物の壁は『ポスター』を以て蔽われ居りたるが、此の種『ポスター』にはしばしば極端に激烈なる性質のものあり……」と。

 その結果、満洲では列車妨害、日本人児童への暴行、朝鮮人農民への迫害など条約違反の「排日」が横行した。満洲には邦人保護と満鉄警備のために日本軍(関東軍)が駐留していたが、当時の政府は問題解決に消極的で、二十万人以上の日本人は「生命の危機」に瀕していた。満洲事変はそうした中で起こったわけで、歴史家の中村菊男氏の言葉を借りれば「火をつける前にすでにガスが充満していたというべく一触即発の危機にあった」と言える。

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 かつての国民党の「反日」は、日本の教科書が言う「中国のナショナリズム」などという生やさしいものではなく、実態は日本との国際条約などを無視して、日本人を脅迫と暴力でもって追い出す国家的な「日本排斥」だった。

 今の日本人には脅迫と罵倒と暴力で相手国の国際条約上の権利を踏みにじることなど想像できまい。しかし、十二年前日本政府が尖閣諸島を国有化した際、かつての国民党と同じく現在の共産党も民衆を動員して「反日無罪」のスローガンを掲げて日系企業を襲った。

 「歴史を学ぶ」とは、何もかつての戦争に思いを致すだけではなく、正当な国家主権が踏みにじられたり、日本人が理由もなく傷つけられたりした歴史を学ぶことも、「歴史を学ぶ」ことになるのではないか。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』令和6年12月号〉

自民党よ 今求められるのは「反転攻勢」への姿勢だ

 石破首相は一体何をしたいのであろうか。テレビや新聞等を通してみる限り、「これこそ自らの悲願」というものが見えてこない。少数与党の現実に戦意を失ったのか、これでは来年の参院選へ向けての局面転換など夢のまた夢だ。

 確かに少数与党が国会の現実である限り、野党と丁寧に意見交換し、合意点を見出していかねば政治が動かないことは筆者にもわかる。しかし、始めから議論の主導権を相手に渡したのでは、政権を担う責任ある立場として、何をしたいのかがわからない。

 むろん、ここでいいたいのは予算委員会の委員長や法務委員会の委員長、また憲法審査会の会長などの重要ポストを、なぜ立民にあっさり譲ってしまったのか、ということだ。明治憲法以来、予算を通すことが政権、そして与党の最大課題であることはいうまでもない。にもかかわらず、その予算審議の最も重要なポストを最初から野党に渡してどうなるのか。「命預けます」ではないが、「どうぞこれは貴党の思う通りに」ということなのか。これでは政権を預かる者としての責任の果たしようがない。

 第二は、法務委員会の委員長を譲ったことだ。早速、立民の野田代表はこれを、選択的夫婦別姓の実現につなげていきたい旨のコメントを出している。これについては、自民党も「全く異論はございません」ということなのか。

 憲法審査会の会長も同じことだ。今まであらゆる機会を通して改憲論議の進展を妨げてきたのが立民だった。これを維新や国民に渡すというのならともかく、立民に渡してどうなるのか。早くも改憲論議を進展させることに白旗を掲げた、ということか。

 これに対し、かかる状況下では「野党にも責任を」というのが本意、との弁明も聞こえてくる。しかし、立民がそんな責任を感ずる政党でないことは、これまでの同党のあり方を見てもわかろう。彼らにとっては、この機会を利用して、あらゆる面で自民を揺さぶり、武装解除し、無力化することが、むしろ彼らにとっての目標であり、戦術なのだ。そうすれば自民の岩盤支持層は益々自民から離れ、自民が本来の主張や活力を失っていくであろうことは確実であるからだ。

 かかる状況を逆転していくためには、自民が一刻も早く自らの主義・主張を取り戻すことだ。「政治資金不記載問題があってそれは不可能」との反論もあろうが、一体いつまでこの問題で立民に振り回されれば、気が済むのであろうか。既に党から処分を受け、公的に謝罪もし、選挙での審判も受けた議員たちに、更に何をさせようというのだろうか。政治資金に関わる抜本的制度改革が必要だというのなら、それはそれで議論すればよい。しかし、いつまで政治全体をこの問題で停滞させるのか、ということだ。

 むろん、これをいえば、自民党への批判は俄然高まろう。しかし、今政治が考えるべき本当の問題はそんな問題ではない。日本周辺の安全保障環境の問題にしても、人口減少の問題にしても、また経済再生の問題にしても、今確固たる手を打たなければこの日本の将来はない、という問題なのだ。その本来自民がやるべきことを、自民が信念をもってやれば、国民は必ずそれを評価し、支持しよう。今自民に求められるのはそうした姿勢であり、それこそが保守たる同党がもつ「本来の力」であるはずだ。

 このままでは、来年の通常国会でも「政治とカネ」の問題が焦点となる。立民は予算委員会で連日これを追及しよう。まさにその権限を、自民は立民に与えたのだ。

 いずれにしても、こんな無力な石破首相では自民は戦えない。心ある同党議員には、今から「ポスト石破」の政権準備と、「反転攻勢」への姿勢確立を求めたい。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』令和6年12月号〉

女子差別委員会・こんな勧告は主権侵害だ

 国連の女子差別撤廃委員会が、十月中旬、女子差別撤廃条約に基づく日本の女性政策に関する会合を開いた。その審査によって委員会は日本に勧告を出すのだが、最終見解では選択的別姓制度の導入などを勧告する可能性が高いという。六年前にも別姓制度が勧告されている。

 この問題は自民党総裁選でも論点となり、導入を主張する野党も多い。委員会の勧告に法的拘束力はないものの、今そんな勧告が出れば、選挙後の国会では国連のお墨付きを得たかのような別姓推進論が飛び交うことが予想される。まったく余計なお世話である。

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 この委員会を根拠づけている女子差別撤廃条約はすべての分野で女子が男女の平等を基礎として人権や自由を享受できることを目指すというが、「女子に対する差別」とは何かというと「性に基づく区別、排除又は制限」だと定義している(第一条)。男女を区別することが差別だというのは、フェミニズムイデオロギーそのものと言える。

 日本の現行の民法規定では夫か妻の姓を「選択」できる。最高裁はそれを合憲と判決している。しかし、フェミニズムを下敷きにした条約に従えば、その現行の同姓制度すら「女子差別だ」と主張しているようなものとも言える。仮に選択的別姓制度となった場合でも、同姓を「選択」した夫婦が「女子差別」だと批判されかねない。

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 実は、この委員会にはもっと深刻な問題がある。産経はこう報じている(十月二十一日・ネット版)。

 「国連の女性差別撤廃委員会で日本の女性政策を対面で審査する会合がスイス・ジュネーブで八年ぶりに開催され、男系男子による皇位継承のあり方も論点の一つになった。NGOとして参加した『皇統を守る国民連合の会』会長の葛城奈海氏は「女性差別」と批判されるものではないと訴え、日本政府の代表団も皇室のあり方を同委で取り上げることは不適切と反論した」

 葛城氏は次のように発言したという。

 「天皇は祭祀王だ。ローマ教皇やイスラムの聖職者、チベット仏教最高指導者のダライ・ラマ法王はみな男性なのに、国連はこれを女性差別だとはいわない。なぜ日本にだけそのように言うのか」「世界にはさまざまな民族や信仰があり、それぞれ尊重されるべきだ。内政干渉すべきではない」と。

 その後、日本政府代表団も「皇位継承のあり方は国家の基本に関わる事項で、委員会がわが国の皇室典範について取り上げることは適切ではない」と説明したという(同日・産経)。

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 小欄は文化や信仰を理由とした委員会批判に加えて、現行憲法を理由とした批判の視点も追加したい。

 憲法には「法の下の平等」が掲げられているのに、皇位継承は男子に限られるのは女性差別だとの主張が一部左翼からなされてきた。

 しかし、憲法は第一条と第二条で天皇の特別な地位とその地位が世襲であることを規定している。つまり、憲法は皇位は「法の下の平等」の例外と定めているわけである。

 この第二条の「世襲」を受けて皇室典範は「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定した。皇室の伝統は、いうまでもなく百二十六代の天皇はすべて男系。その男系を維持するために先人たちは叡智を傾け、血の滲むような努力を払ってきた。その皇室の伝統を踏まえて、歴史上一時的例外的存在であった女性天皇を禁止し、男系男子のみとしたのが皇室典範と言える。

 その意味で、皇位継承は「男女平等」「法の下の平等」といった国民の権利とは別次元の問題と言える。

 各国国民が持つ「主権」には自国の政治制度を決定する権利も含まれる。もし皇位継承における男系男子継承原則に国連の委員会が何か言うのであれば、内政干渉というより主権侵害というべきではあるまいか。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』令和6年11月号〉


なぜ外交・安全保障を語らない?

 今回もまた、選挙の結果を見ないままこれを書くこととなった。果たして与党は過半数を確保することができるのか、あるいは過半数割れして再び不安定政治の泥沼に陥っていくのか、わが国の命運がかかる選挙であることは確かだ。

 そんな中、野党もマスコミも「政治とカネ」の問題が全てであるかのごとく、連日自民批判を繰り返して止まない。立民の野田代表は「政権交代こそ、最大の政治改革」というが、ならば自公を政権から引きずり降ろし、どんな政権に交代するというのか。残念ながら、その中身がわからない。単独政権が不可能である以上、連立の相手と政策が問題となる筈だが、それが語られないのだ。これでは中身の定かならぬものをただ食べろ、といわれるにも等しい無責任な話というべきだ。

 無責任といえば、これは自民党を含めてだが、外交安全保障をめぐる議論が全く聞こえてこないのも、遺憾な話だといいたい。先日は中国による台湾を包囲する形の大軍事演習があったが、この露骨な軍事威圧が全く議論になっていないのだ。台湾などいつでも封鎖できるぞと力を見せつけた上で、台湾の人々の抵抗心を挫き、屈服へともっていこうというのであろうが、一体この現実を論ずることなく、わが国の外交安全保障などというものは成り立つのか。この威圧は年々深刻度を増す一方なのだ。

 当然、この威圧が更なる段階へと進めば、それがそのまま武力侵攻へと移行する可能性は高い。それがどんな形態になるかはわからないが、少なくともその可能性が最も高まるとされるのが「二〇二七年」であることは、各方面で指摘されるところでもある。ということは、この選挙で成立する政権が、この危機に直面することとなるのだ。

 にもかかわらず、自民も立民もこの中国の脅威に関わる外交安全保障政策を全く語らない。それどころか、両党ともこれとは無関係な「日米地位協定の見直し」で口を揃える一方、立民は「専守防衛に徹し」といい、「辺野古移設工事は中止」、加えて「安全保障関連法の違憲部分の廃止など必要な措置を講ずる」と公約して憚らない。むろん、何をいおうと勝手だが、問題は先に述べた台湾問題を始めとした国際社会の現実が、一体見えているのか、という話である。今月には米国の次期大統領が決まるが、いずれに決まろうとも、この安保音痴ぶりでは、再び日米関係が揺らぐ事態さえ大いにある。

 神谷万丈氏はいう。

 「この12年間の日本は、積極的平和主義を掲げ、集団的自衛権に関する憲法解釈を見直し、平和安全法制を成立させるなど、対米同盟協力を含む国際協調でできないことだらけだった状態をめざましく改善した。22年12月には……安全保障3文書などを策定し、国際秩序を守ることと、国を守ることという、2つの安全保障上の目標をともに目指して行動できる国になる決意を内外に宣言した」

 問題はこの12年間の努力を脇に置いて、一体この日本をどうしようというのか、ということだ。日本がいかに平和を願い、戦争反対を叫ぼうとも、中国が台湾への軍事侵攻を決意すれば、日本は必然的にそれに巻き込まれる。とすれば、いま日本にできることは、かかる事態を何としても阻止すべく、米国や同志国と連携、強力な「抑止」の体制を築くこと以外にない。つまり、この努力の積み上げを更に継続・発展させるべく、いま何をなすべきか、と問うことの他に課題はないのだ。

 にもかかわらず、ただ「政治とカネ」の問題のみ、というのが今回の選挙の実態だ。これが無意味とまではいわないが、やはり最大の課題は国を守り、安全にすることであろう。これを論ぜずして明日の日本はない。それを改めていいたい。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』令和6年11月号〉

推進派が漏らす別姓先進国の不都合

 

 

 夫婦別姓問題で外国の事例を確認したりする際、別姓推進派の本を参考にすることがある。ちくま新書の『夫婦別姓―家族と多様性の各国事情』は各国で現地の男性と結婚している日本人女性(もちろん全員別姓推進派)が国別にレポートしたもので、各国の実情が分かって面白い。

 例えば、別姓夫婦では子供は両親のどちらかと別の姓になるが、それは実に不便なことだという。

 「子どもと姓が違うと、親子と証明するため子どもの出生証明書、または住民票を携帯する必要がある。特に飛行機に乗る場合は、証明書を求められることがある。姓が違うためにパスポートだけでは親子と証明できないからだ」(ドイツ)。

 フランスでも「空港で、子どもの連れ去りではないことを証明するために、父親の合意書を提出させられ、……書類を失したら、誘拐したと言われても仕方ない」という。

 別姓推進派は、結婚改姓すれば名義変更など手続きが煩わしいと言うが、欧州ではそんな手続きどころか親子を証明するという大問題が生じている。

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 日本の推進派は親子別姓になっても諸外国では子供の問題は生じていないと言うが、現地からはこんな声が聞こえてくるという。

 「……子どもの姓についての質問の余白に、母親から書き込まれたコメントの多くは姓の異なる子どもと自分との関係を示す難しさについてだった。子どもは父の姓という場合が圧倒的に多く、日常生活上、母親である自分と子どもを『紐付ける』簡単な方法がなくて困っている」(ベルギー)。

 別姓でも子供の問題はないとはとても言えまい。

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 中国の実情も興味深かった。中国人の夫と北京に住む日本人女性は完全な別姓である中国では「家族のつながりは日本以上に強い」という。確かにこの女性がレポートする義理の父母や夫との日常的な関係には強い繋がりが窺える。

 この繋がりこそ「男女平等の夫婦別姓」の成果だとこの女性は主張するのだが、そんなに単純ではない。というのも親戚が持ってきた家系図に女性の子供は記載されているが、嫁であるこの女性も義母も記載されておらず、しかも皆それを当然視していたことがショックだったという。「男女平等の夫婦別姓」の内実は嫁は婚家に入れないという昔の父系血統主義のままと言える。

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 実は、日本でも明治の初め庶民も公式に姓が名乗れるようになった頃、当時の内務省は武家の慣習だった夫婦別姓での戸籍作りを訓令・指導していた。それに対して地方から反対の声が上がり、夫婦同姓の民法と戸籍となった。

 というのも、地方では明治以前から生活をともにする妻が夫の氏(姓)を称することが慣行として定着していたからだ。明治二十二年の宮城県の内務省への伺(問い合わせ)は「(妻は)嫁家の氏を称するは地方一般の慣行」と書き、翌年の東京府の伺では「婦は夫の氏を称」するのは「民間の普通の慣例」である。ところが内務省の訓令があるために「強いて生家の氏を称用せしめざるを得」なくなり、「習慣に反し……苦情も相聞こえ」て来ていると内務省を批判さえしている。その結果、明治の民法では家族は同一の氏となり、今日の同姓制度の原型が作られることとなった。

 先に紹介した北京の女性は日本と中国をこんなふうに対比している。「中国が血に固執したのに対し、日本は明治以降、父系の血統よりも『夫婦の生活実態』による『夫婦の一体感』を重視して同姓制度を導入した。この『妻が同姓であることによる一体感』は確かに存在するし、このような『一緒にいる』感覚を大事にすることは悪いことではない」と。

 日本の夫婦同姓制度は家族の一体感を守る上で優れているとの指摘は重要だ。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』令和6年10月号〉

自民党総裁選各候補者の政見を読んで

 

 本稿執筆の現在、注目の自民党総裁選はまだ終盤にあり、残念ながらその結果を見て書くことはできない。従って、本稿ではこれまで筆者がこの総裁選の中で、とりわけ感じたことを書かせていただく。

 まず筆者にとり、最も関心があったのは、各候補者がこの日本の現状をどう捉えているか、ということであった。しかし、この関心に応えてくれた候補者は少なかった。個々の政策については、各候補者が掲げたものにはそれなりに興味を抱かせるものもあったが、一方その出発点となる現下日本への基本認識となると、どっしりとした「骨太なもの」を感じさせてくれるものが少なかったのである。

 安倍元総理はその『回顧録』において、最初に総理となった時、自分は官房副長官と長官を合計四年務め、総理の何たるかはわかったつもりでいたが、「総理大臣となって見る景色」は、そうしたものとは、「まったく別だった」と述べている。それは総理にしか感じられない決断の「重さ」といったものでもあろうが、とすれば総理には、かかる決断の基となる単なる政策以前の認識や覚悟が求められるという話でもあろう。

 例えば、世界の現状に対する認識だ。これほど複雑で困難な問題に直面することとなった時代は戦後かつてなかったといってよいが、その危機感を感じさせてくれる候補者が、高市氏の他、ほとんどなかったのである。例えば中国の脅威だ。台湾有事の「二〇二七年説」がいよいよ現実味を帯びるが、これをどう考えるか。三年の総裁任期を考えれば、新総裁がこれに直面する可能性は極めて高い。となれば、全政策の冒頭に、これに対する総理をめざす者としての独自の認識や覚悟が示されて当然と思うのだ。

 マスコミの事前予測では相変わらず石破氏の人気が高いが、氏は今回「アジア版NATO構想」なるものを打ち出した。しかし、その実現可能性や構成国を問われた際、氏は何と「これから議論を詰めたい」と答えたのである。防衛の専門家を自称しつつ、実はこれについて何も具体的なことは考えてこなかった、という話だったのだ。

 日本の現状に対する危機感ということでいえば、今年は日本人の出生数が七十万を割ることが確実視される。しかし、この少子化の現状に対する各候補の認識にも物足りなさを感じた。確かにどの候補もそれなりの危機感を語ってはいた。とはいえ、そこには「何としても自分がこの問題に答えを出す」という決意は感じられなかったからだ。今日の現状は、その程度の認識や決意では、もはや何ともならないギリギリの危機に立ち至っているにもかかわらず、だ。

 一方、小泉氏は夫婦別姓問題に対し、「長年議論ばかりで、答えを出していない課題に決着をつけたい」と述べ、「一年以内の法案提出」をも明言した。しかし、それによる社会的影響をどの程度考えているか、それが見えなかった。夫婦別姓となれば、子供には親子別姓・家族別姓が強いられる。親には選択権があっても、子供にはそれはない。この不合理を、氏は家族のあり方としてどう考えるか。

 と同時に、候補者たちの認識に、日本の「伝統の力」に言及したものが全くなかったことも問題だった。安倍元総理はまず「戦後レジームからの脱却」をいい、また「日本を取り戻す」といった。しかし、各候補が語ったのは、あくまでも無機的で、ニュートラルな、いわば精神なき改革論に過ぎなかった。しかし、このようなもので、果たして難題解決の「国民の力」が出てくるのだろうか。この点、高市氏は「祖国を守ってこられた方々への感謝」を明言していたが、これこそが国家の指導者に求められる認識であり、姿勢ではなかろうか。

 結果は今後の日本を決める。良き結果を祈りたい。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』令和6年10月号〉