第1話 山岡鉄舟


 剣術家、幕臣、宮内官僚。幕末から明治にかけて剣客として活躍。安政3(1856)年幕府の講武所で剣術の教授方世話役となる。文久3(1863)年浪士組の浪士取扱となり上京。慶応4(1868)年15代将軍徳川慶喜の警固役として精鋭隊頭に任ずる。徳川家存続のため駿府へ赴き、西郷隆盛に談判。勝海舟との会談を実現し、江戸城開城に貢献。維新後、静岡藩権大参事、伊万里県令などを経て宮中へ出仕。侍従や宮内小輔などを歴任し、明治天皇の側近として仕えた。(近代日本人の肖像 山岡鉄太郎より引用)



歴史の指標

山岡鉄舟(一) 剣と禅による人間修行

 

 幕末の三舟 ― 海舟・泥舟・鉄舟

 

幕末から明治期にかけて「(さん)(しゅう)」といわれた武士がいた。勝海舟(かいしゅう)、高橋(でい)(しゅう)、山岡(てっ)(しゅう)である。いずれも幕臣出身である。勝海舟を知らぬ人はいないが、高橋泥舟と山岡鉄舟はそれほど知られていない。泥舟と鉄舟は義兄弟で、鉄舟の妻英子(ふさこ)が泥舟の妹である。

鉄舟は明治維新の成就において蔭ながら尽力した一功労者である。西郷隆盛と勝海舟が談判して徳川家及び旧幕府の朝廷への帰順の取り決めを結んだ時、海舟に協力した人だ。主役は西郷と海舟だが(一部の鉄舟贔屓(びいき)の人は主役は海舟ではなく鉄舟というが、それは贔屓(ひいき)のひき倒しで違う)、脇役ながら鉄舟は実に立派な働きをした。

明治維新成就の第一人者西郷隆盛は駿府(すんぷ)(静岡)で初めて鉄舟に会ったとき、その人物にいたく打たれ以後深い敬意と親愛の情を寄せ、明治五年旧幕臣の鉄舟を明治天皇の侍従(じじゅう)に推挙した。鉄舟はほかならぬ西郷の強い要請だったのでこれを受けた。十年間宮内省で奉仕したが、明治天皇の御信頼、御親愛は格別のものがあった。

明治天皇及び西郷隆盛、勝海舟という当時最高の人物から深く信頼された武士の中の武士であり、「天下の傑士、日本の忠臣」「明治の和気清麻呂(わけのきよまろ)」(ともに海舟の言)と言われた日本人の一典型が山岡鉄舟であった。

 

 母の感化

 

鉄舟は天保(てんぽう)七年(一八三六)六月十日、江戸に生まれた。父は幕臣小野高福(たかよし)、六百石の旗本で御蔵(おくら)奉行であった。通称は鉄太郎、名は高歩(たかふさ)、鉄舟は号である。

十歳のとき父が飛騨(ひだ)郡代(ぐんだい)に任ぜられ、以後十七歳まで高山で暮らした。鉄舟は文武両道に励んだが年少時、本を読み記憶するのが苦手であった。そこで鉄舟は四書五経等の素読(そどく)を習う際、それらを全て手写(しゅしゃ)しかなをふって記憶につとめた。鉄舟は決して頭脳すぐれた秀才ではなかつたが、こうした努力を生涯何事にも怠らなかった。

だが人柄、人品はすぐれていた。そして信仰心が厚かった。それは母の感化である。母(いそ)鹿島(かしま)神宮の神官塚原石見(いわみ)の娘だが神仏への信仰厚く慈悲心に富んでいた。その影響を強く受けた鉄舟は年少時から観音(かんのん)様を信仰した。十五の時、父の代参(だいさん)で伊勢神官に参詣している。日本国体の尊厳につき骨髄に刻む深い感激を受けた。鉄舟の尊皇愛国の心は年少時からの筋金入りのものであった。

幼少のころ母のもとで手習いをしていたとき、本の中に「忠孝(ちゅうこう)」の二字があった。鉄舟は母に「忠孝とは何ですか」とたずねた。母は「忠という文字はその使い方によってそれぞれ意味が違うが、ここでは主君に(つか)える心の正しきことで、孝とは父母に事える意味です。人としてこの世に生きて行く上は必ずこの道理をわきまえねば人と生まれた甲斐はないのです」と忠孝の大切さを(ねんご)ろに説き聞かせた。

すると鉄舟は「お母様には常に忠孝の道をお守りになりますか。また私はどんなにして忠孝の道を尽すことができますか」ときいた。

母はホロホロと涙を流して、「おお、鉄よ、よく尋ねてくれた。母は日頃忠孝の道を心掛けているけれども、つまらぬ母でいまだこれというほどのこともなく誠に残念に思っている。お前は幸いに無事の体であるから、母の今日教えたことを忘れず忠孝を尽す人と為ってくれるように」とのべた。これが生涯忘れえぬ教訓として鉄舟の心に刻まれた。実に立派な母であった。

十六歳のときに母は四十一歳で亡くなる。母を深く慕った鉄舟は、毎日母の墓へ参り五十日間お経を読んで冥福を祈った。伝え聞いた人々、鉄舟の孝心に感動せぬ者はなかった。この純真純情が鉄舟の持前(もちまえ)で生涯を貫いた。

 

 十五歳の誓い

 

鉄舟は十五歳の時、自ら「修身(しゅうしん)二十則」を作りそれを座右の銘として日々つとめた。その主なものは次の通りである。

○君の御恩は忘るべからず(そうろう)

○父母の御恩は忘るべからず候。

○師の御恩は忘るべからず候。

○人の御恩は忘るべからず候。

○神仏並びに長者を粗末にすべからず候。

○嘘言うべからず候。

○腹を立つるは道にあらざる候。

○食するたびに稼稽(かしょく)(農業)の艱難を思うべし。

すべて草木土石にても粗末にすべからず候。

○礼儀を乱るべからず候。

何時(なんどき)何人(なんびと)に接するも客人に接するように心得べく候。

○己れの知らざる事は何人にてもならうべく候。

○ 己れの善行を誇り顔に人に知らしむべからず。すべてわが心に恥じざるに務むべく候。

満十三歳の決意だが、まことに立派である。同世代の橋本左内もやはり数え十五歳のとき

啓発録(けいはつろく)」を記している。鉄舟がいかにすぐれた人物、武士たらんとして修養に励んだかがわかる。

一方、武道では九歳より剣道を始めた。こちらは素質十分であった。祖先は徳川家康、秀忠に(つか)えしばしば戦功を立てた人で、剣の道にすぐれ禅の修行にもつとめた。父から先祖の話をきかされた鉄舟はそれを誇りに思い、以後剣道に猛烈に励んだ。父は千葉周作の高弟で達人といわれた井上八郎を高山にまで招き、鉄舟に猛稽古せしめた。二十前後からは剣道のかたわら坐禅にも打ちこみ、心身の練磨に務めること並々ではなかった。後年、日本一の剣道家となり、禅修行も奥義(おうぎ)を極めている。剣と禅は鉄舟の人物をつくり上げるもととなった。

 

 辛酸を嘗めた青春期

 

鉄舟を可愛がり教育に骨折ってくれた母が十六歳、父が十七歳のとき亡くなった。鉄舟は父の葬儀をすませたあと、まだ幼い五人の弟をひきつれて江戸に戻った。父は死の直前、遺産三千五百両を鉄舟に渡して幼弟五人の養育を托したのである。

江戸には異母兄小野古風(こふう)がいるのでひとまずこれに頼つたが、幼弟五人の養育の全責任は十七歳の鉄舟にあった。末弟の(つとむ)はこのとき数えの二つだからしきりに乳を求めた。鉄舟は兄に乳母(うば)を雇ってもらいたいと懇願したがとりあってくれない。そこで鉄舟は務を抱いて近所に貰い()をして歩いたり、重湯(おもゆ)に蜜をといて飲ましたりして毎夜添寝をして育てた。異母兄は鉄舟らを厄介視し冷遇したが、鉄舟はよく耐え忍び逆らわず弟たちの面倒をみて、数年のうちに相当の旗本に養子にやった。その時父から譲られた遺産を分け与えてやった。そのあと鉄舟はわずか百両だけ持参して山岡家に養子に入るのである。残った金は古風に贈った。意地悪だった古風は晩年心を入れかえ鉄舟を尊敬し弟をいつも「先生、先生」と呼んだ。鉄舟はこの兄を最後まで世話した。

このときから明治初年までの約十七年間、十七歳から三十三歳までの鉄舟の人生は艱難辛苦、逆境試練の連続であった。だがこの間の苦労と忍耐、剣道及び坐禅の修行が鉄舟の人物を鍛え上げた。本来なら六百石の裕福な旗本の若様として苦労なく波乱なき青少年期を送れる筈であったが、突然の両親の死で暗転、若くして人生の惨苦を()めることになる。しかしここが人知の計らいを超えた人間の一生の不可思議なところである。この困苦なしに山岡鉄舟は誕生しなかった。思えば歴史上の偉人は例外なく並々ならぬ辛酸の鉄槌(てっつい)を受けた人であった。

 

 山岡静山との出会い

 

 弟達の世話をしながら一心不乱に剣道に励んでいた鉄舟は二十歳のとき、旗本山岡静山(せいざん)(そう)術を学んだ。山岡静山(せいざん)は二十七歳、身分は低かったが当時海内(かいだい)無双(むそう)の名人といわれた。その稽古はすさまじく、毎日重い(やり)をもって、三千回から五千回、突衝(つき)の練習を繰り返した。剛直で質朴、気節を重んじ人情に厚かった、父は既になく病弱の母があったがこの母に至れり尽せりの孝養を尽くした評判の孝行息子でもあった。鉄舟は槍術もさることながらこうした静山の人格に心服し、わずか一年足らずだったが師事し深い感化を受けた。

ところが静山は急病で亡くなるのである。鉄舟の悲しみは深く、毎晩人知れず墓参りした。

寺の和尚(おしょう)がそれを怪しみ、静山の実弟、高橋泥舟に伝えた。泥舟は物蔭に隠れて様子を窺った。その日雷が(とどろ)き大雨となった。すると大男が走ってきて墓前にやってき、羽織を脱いで墓にかぶせて、あたかも生きている人に物言うように、

「先生、鉄太郎がお側におりますから、どうぞご安心遊ばせ」

といいながら、身を墓にすりつけるようにして豪雨がすぎるまで守護していた。

静山は生前雷が大の苦手で雷鳴を聞くと自室に駆けこんでふとんを頭からかぶって体をふるわせた。読者は日本一の槍の名人といわれる勇者が何たること、どうして雷を恐れるのかといぶかるであろう。いかなる人にも足らざるところ、短所があるが、この場合人間の過去(かこ)()前世(ぜんせ)というものがわからねば理解できない。前世において静山自身かあるいは肉親が雷に打たれてなくなるというような悲惨な体験がきっとあったから、それが遺伝子に刻印され静山ほどの人が雷をこうも恐れたのである。こう解釈せぬ限り説明できない。ついでにもう一つ例をあげよう。日清戦争の時、連合艦隊司令長官として尽力した名将伊東(ゆう)(こう)は蛇が大嫌いだった。それも度を超えていて蛇を見ると顔面蒼白、体がぶるぶるとふるえた。縄のような蛇に似たものを見てさえそうなるので、人々は不思議がった。これも同様で前世において蛇にかみ殺されるよすな体験があったからである。

泥舟は鉄舟の姿を見て感涙に咽んだ。さて静山死後、山国家のあとつぎが問題となった。妹が二人いたが誰を婿養子に迎えるかである。泥舟は鉄舟こそと思ったが、山岡家は小野家と比べ身分が低くつりあいがとれない。静山のすぐ下の妹英子は生前兄がたびたび鉄舟をこう賞めていたのをきいていた。

「およそ世間に青年は少なからざるも技が()けているかと思えば真勇に乏しく、気象(きしょう)(気性)に(ちょう)ずれば技に乏しく、真に両方揃いおる者は容易にない。しかるに一人小野鉄太郎は武芸の確かなることは鬼鉄の綽名(あだな)に恥じず、精神の寛厚なることは(ほとけ)菩薩(ぼさつ)の再来かと思われるほどである。彼はゆく末必ず天下に名を轟かすほどの人物になるであろう。いかにも頼もしき若者なり」

英子は鉄舟にひそかに思いを()がしていた。婿養子を誰にするかという話になった時、英子は「鉄太郎さんでないといやです。ほかの人をお婿さんにするなら死んでしまいます」ときっぱり言い放った。途方にくれた高橋泥舟は、鉄舟の弟の一人に事情を話した。これを弟からきいた鉄舟は即座に決心、「私のような者をお英さんがそんなに思って下さるなら、婿に参りましょう」と一諾した。母、泥舟、英子は涙を流して喜んだ。鉄舟と静山は肝胆相許した仲だったから、鉄舟は異議なく受入れたのである。当時鉄舟は剣道修行に一身を忘れて打ち込み、まわりから「鬼鉄」「襤褸(ぼろ)鉄」とよばれ、質素を通りこしたボロボロの身なりだったが一向に無頓着だった。英子はそのようなボロ鉄を男の中の男と思い惚れこんだのである。英子もさすが静山の妹だけのことはあり、以後貧苦に耐えつつよく家政を整え鉄舟を支えた。

 

 鬼鉄・ボロ鉄の剣と禅の修行

 

鉄舟生涯の命がけの修行は剣道と坐禅である、ことに十七、八から三十代にかけてそれは猛烈を極めた。師匠は井上八郎と一刀流名人浅利又七郎であった。十八歳のとき幕府のつくった講武所に入った。二十一歳のとき技倆(ぎりょう)抜群を認められ世話役に挙げられた。

その稽古ぶりはまわりからみればほとんど狂気のごとく思われた。当時、中津藩剣術師範中西家と小浜(おばま)藩剣術師範浅利家とで春秋二回終日稽古する慣例があり、他藩の多くの剣士も参加して試合した。いつも三四百人が出たが鉄舟は必ず出席するのみならず、終日、面をかぶったまま休むことなく最も多くの剣士と立合った。その疲れを知らぬ鉄舟の猛烈ぶりに人々皆恐れをなして「鬼鉄」の綽名をたてまつるのである。後に鉄舟は春風館とよばれる剣道場を主宰(しゅさい)したが、ここでの荒稽古は天下に鳴り響いた。

鉄舟は六尺二寸(一八七センチ)二十八貫(一〇五キロ)という堂々たる巨漢でその膂力(りょりょく)

(身体の力)は人並はずれ、鉄舟が全力で打込むと相手は気絶するくらいすさまじかつた。

この剣道修行に劣らず励んだのが坐禅である。心身を練磨し胆力を練るには坐禅にしかずとの父の教えに従ったのである。日中は剣道、夜は坐禅を怠らずつとめ、明治十三年、四十五歳のとき大悟たいご徹底し、当時名高い京都天龍寺の恩師てきすいから印可いんか(仏道修行で弟子に奥義を許し授けること)を受けた。また同時に剣の道も浅利又七郎から奥義を許され、 一刀流の正伝を受け継ぎ当代随一の剣聖として仰がれるのである。(全四回予定)                                        

                〈明日への選択 平成2310月号 岡田幹彦〉

                


歴史の指標

山岡鉄舟(二) 江戸開城前夜 西郷との命がけの談判

 

 尊皇攘夷党

 

剣と禅の修行に打ちこんでいた二十三歳のとき、鉄舟は次の文章を記している。

(およ)皇国(こうこく)に生を()けたるものは、すべからく皇国の皇国たる所以(ゆえん)を知らざるべからず。余(私)謹んで皇史(こうし)(あん)ずる(考える)に、(けだ)し(言葉を発する時に使って文章の調子を整える)本邦(ほんぽう)天子(てんし)(天皇)は万世(ばんせい)一統(いっとう)にして、臣庶(しんしょ)(臣下、国民)は各自世々(よよ)(ろく)()(おそ)い、君主庶民を撫育(ぶいく)(いつくしみ育てること)して以て祖業を継ぎ、忠孝を以て君父(くんぷ)(つか)え、(くん)(みん)一体、忠孝一揆(いっき)(一致)なるは独り我が皇国あるのみにはあらざるか。()れ余が昼夜研究を要する所にて、他日(たじつ)その極致(きょくち)に達せん事を期す」

この文章を読めば、吉田松陰の「士規七則(しきしちそく)」の次の文章と共通していることがわかる。

「凡そ皇国に生れては(よろ)しく吾が宇内(うだい)(世界)に尊き所以(理由)を知るべし。蓋し(こう)(ちょう)(皇国日本)は万葉(ばんよう)一統(万世一系)にして、(ほう)(こく)士夫(しふ)世々禄位を()ぐ。(じん)(くん)民を養い以て祖業を()ぎたまい、臣民君に忠して以て()()を継ぐ。君臣一体、忠孝一致、(ただ)吾が国を(しか)りと為す」

実に見事に一致している。無論、鉄舟は松陰と接点はない。しかし皇国日本が万邦に比類なき尊厳なる国体を有する自覚において両者の精神はひとつであった。この様な確固たる尊皇愛国の心の持主であったから、後年西郷隆盛と肝胆相照らすことができたのである。

では鉄舟はいつこうした信念を持ったのであろうか。それは先月号でふれた伊勢参宮(さんぐう)の時である。この時道中で知り合ったのが、備前(岡山)藩士藤本鉄石である。藤本は文久三年(一八六三)の大和における(てん)忠組(ちゅうぐみ)義挙(ぎきょ)で戦死した勤皇の志士であったが、この人から「皇国の皇国たる所以」を教えられた。さらに伊勢において神宮神官であり国学者である足代(あじろ)(ひろし)(のり)より深く教えを受けたのである。

鉄舟が先の文章を記したのは安政五年(一八五八)、大老(たいろう)井伊(いい)(なお)(すけ)が日米通商条約を違勅(いちょく)調印した年である。尊皇愛国の深い信念の持主である鉄舟が剣と禅に熱中するだけで、時勢に無頓着でおられなかったのは当然であった。

幕臣であるにもかかわらず鉄舟は幕府の運命は最早つき到底挽回(ばんかい)はできないと見ていた。だがやがて滅ぶにせよ北条や足利の如きみじめな末路を遂げさせずぜひとも有終の美を飾らせたいと念願した。それが祖先以来徳川の禄を食んできた譜代(ふだい)恩顧(おんこ)の幕臣としての(じょう)でもあった。

そこで鉄舟は、幕府をしてあくまで朝廷を仰ぎ朝命を遵奉(じゅんぽう)せしめ挙国一致して国難に当たり攘夷を断行し大政(たいせい)奉還(ほうかん)せしめるほかなしとして、同志とともに尊皇攘夷党を結成した。安政六年(一八五九)二十四歳の時である。発起人の中心は鉄舟と出羽秋田の志士清川八郎である。ほかに幹事として加わった人物に藤本鉄石、住谷(とら)之助、間崎(まざき)哲馬そして坂本龍馬がいる。鉄舟は千葉周作の高弟井上八郎に師事していたから、周作の弟千葉定吉道場の塾頭であった龍馬とも同門であり同志であったのである。

幕臣として逸脱した行動だったが安政の大獄がおこるこの年早くも、清川八郎や坂本龍馬と志をひとつにして尊皇攘夷党を結成したところに、鉄舟の並々ならぬ見識と洞察力の深さがあった。

 

 慶喜の恭順と鉄舟

 

太平の世が続いたなら出番はなかったであろうが、幕末、明治維新の危機、国難時、鉄舟は歴史の舞台に躍り出る。徳川慶喜の大政奉還後、王政復古の大号令が出される。そのあと鳥羽(とば)伏見(ふしみ)の戦いで幕府軍が敗れ、大坂城にいた慶喜は江戸に逃げ帰り、朝廷に恭順を表明、上野寛永(かんえい)寺にて謹慎生活に入った。

一方、官軍は東海道、中山道、北陸道より東下(とうげ)し江戸に向った。このとき慶喜と徳川家は

(ちょう)(てき)」とされた。水戸徳川家出身の慶喜にとり朝敵とされるほどの苦痛はなかった。自身及び徳川家の朝廷に対する絶対随従の誠意を何としても朝廷に伝え、徳川の家名を守らんとしたが、三方から刻々と迫り来る官軍に対してその気持を訴える手段がなかったのである。

寛永寺で謹慎している時、慶喜の護衛役をつとめていたのが高橋泥舟である。慶喜は始め信頼する泥舟を使者として東海道を東下中の官軍の大総督府へ派遣せんとした。しかし泥舟をやってしまうと慶喜の守護に不安が生ずるので誰か代りはいないかと尋ねた。泥舟は「義弟山岡鉄太郎ならば見事に果たしましょう」と答えた。そこで慶喜は鉄舟を呼び出した。謹慎中の慶喜は「面貌(めんぼう)疲痩(ひそう)して見るに忍びざるものあり」と後に鉄舟はのべている。慶喜は鉄舟にこう語って落涙した。

「私は朝廷に対し一点二心(ふたこころ)を抱かず赤心(せきしん)(真心)をもって恭順謹慎している。しかし征討の朝命下り官軍は東下中である。命を()されることは必定(ひつじょう)である。ああここまで世人(せじん)(にく)まれ、誠意が朝廷に届かぬと思えば返す返すも嘆かわしいことだ」

すると鉄舟はこうのべた。

「何を弱きつまらぬ事を(おお)せられます。それは真実の謹慎のお心ではないからではございませぬか。邪心をはさみいつわりのお心でそう(おお)せられるのではありませぬか」

鉄舟としては重大な使者をつとめるにあたって、慶喜の恭順の心が真実のものか、自己保身の見せかけ、偽りのものかしっかり確める必要があつたから、たとえ(しゅ)(くん)であろうと前将軍であろうとも厳しく問うたのである。慶喜は才知手腕余りあり当時のいかなる藩主より傑出し人物と見られていたが至誠(しせい)において欠けるところがあった。もし慶喜の恭順が保身の詐術(さじゅつ)であったならば、使者のつとめは到底成り立たない。慶喜は答えた。

「断じて二心はあらず。何事も朝命には(そむ)かざる赤心なり」

慶喜の恭順が嘘偽りなき誠心であることを見てとった鉄舟はこうきっばりと誓った。

「真に誠心誠意をもって謹慎とあらば、不肖(ふしょう)ながら鉄太郎必ず朝廷へお心を貫徹し御疑念(ごぎねん)を解きます。私の日の王の黒いかぎりご心配はご無用でございます」

 

鉄舟と海舟

 

そのあと鉄舟は勝海舟をたずねた。この時海舟は徳川家の軍事総裁として最高責任を担い、

対朝廷及び官軍交渉の一切につき慶喜から全権を委任されていた。

二人は初対面であった。鉄舟は慶喜よりうけた指示を語ったが、海舟は鉄舟は暴勇の剣客との世間の噂をきいていたので容易に口を開かない。そこで鉄舟は大喝していった。

「今日の危急の場にあたり何を躊躇しておられるのです」

すると海舟はこうのべた。

「貴殿、どんな工合(ぐあい)にしてやりなさるつもりだ。官軍はもう六郷(ろくごう)(がわ)の向うまで来ていると申しますぞ。いかしにてそれをくぐり抜けて行きなさる」

鉄舟は答える。

「官軍は拙者(せっしゃ)(しば)ろうとするか斬ろうとするか、いずれかでござろう。拙者は両刀を渡して

縛ろうとするなら縛られましょう。斬ろうとするなら、趣意を一言大総督府へ言上させてくれ、その上なら斬ろうとどうしようとまかせると申すつもりです。狂人でない限り是も非もなく人を殺せる道理はありません。なんでもありません。きつとやりとげます」

死を覚悟した鉄舟の言葉をきいて、海舟は鉄舟が真の勇者であることを知り、打ちとけてこうのべた。

「実はこれまで貴殿(きでん)の人と為りを少しも知らなかったので信用できなかったのはいささか訳がありますが、氷解(ひょうかい)しましたので遠慮なく話しましょう。人々の注意によれば、山岡という者はとても尋常(じんじょう)のものにあらず、機を(うかが)って叛逆(はんぎゃく)を企てんとする男なりと大久保(いち)(おう)(海舟の親友)の如きすら私に忠告して、“山岡には接近するなかれ。彼はあなたを殺そうと思っている男なり”とまじめに注意されたこともありまして惑わされました。まことに愚かでしたが今日お会いして始めて疑いが晴れました。貴殿の決心をおききしてよもや仕損(しそん)じはあるまいと思います」

こうして海舟は西郷隆盛あての手紙を托すとともに、海舟が預っていた薩人(さつじん)益満休之(ますみつきゅうの)(すけ)を随行せしめた。海舟の手紙の大事なところを掲げよう。

「いま官軍、鄙府(ひふ)(江戸)に迫るといえども、君臣謹んで恭順の道を守るは、わが徳川氏の士民といえども皇国の民なるをもっての(ゆえ)なり。かつ皇国当今(とうこん)の形勢は昔時(せきじ)に異なり、兄弟(かき)にせめげども、そと(あなど)りを防ぐの時なりを知ればなり。しかりといえども我が主の意を解せず、あるいはこの大変に乗じて不軌(ふき)(反逆)を計るの徒あり。小臣(しょうしん)鎮撫(ちんぶ)すれども力ほとんど尽き、手を下すの道なく空しく飛弾(ひだん)の下に憤死(ふんし)を決するのみ。

小臣推参(すいさん)してその情実(じょうじつ)哀訴(あいそ)せんとすれども、士民沸騰(ふっとう)(かなえ)のごとく半日も去るあたわず。ただ愁苦(しゅうく)して鎮撫(ちんぶ)を事とす。果たしてその労するもまた功なきを知る」

徳川慶喜は恭順を表明したもののほとんどの幕臣は反対で徹底抗戦を叫んでいたから、勝海舟の辛苦と努力は並大抵ではなかった。本当は海舟自身が使者に立ちたいが、総責任者だから江戸を半日もあけることができない。そこに鉄舟が登場したのである。

 

 西郷との談判

 

有栖川(ありすのがわ)(たる)(ひと)親王(しんのう)を大総督とする官軍主力はすでに駿府(すんぷ)(静岡)に達していた。三月九日駿府に着いた鉄舟は大総督府参謀として官軍の実質的中心者である西郷隆盛と会見した。二人は初対面だが西郷はすぐ会ってくれた。鉄舟はまず海舟の手紙を渡した。西郷が読み終ると鉄舟はまずこう問うた。

「先生、このたび朝敵征討のご趣旨は是非を論ぜず進撃なさるのでありますか。ご決心のほどをうけたまりとうございます」

「いやいや決してみだりに人を殺し国家を騒乱する為ではありません。不軌(反逆)を謀るものを鎮定(ちんてい)する為に(つか)わされたのです。山岡先生は何故にそんなことを申されるのでしょう」

鉄舟は西郷に敬意を表して「先生」とよびかけた。すると西郷も鉄舟を「先生」とよんで礼儀正しく丁寧に応じた。幕臣としてこれまで名も知られていない鉄舟に対するこの応対ぶりに、西郷の(ゆか)しい人物がうかがわれる。

「ご趣旨ごもっとも千万(せんばん)です。でありますならば拙者どもの主人徳川慶喜は恭順謹慎して

東叡山(とうえいざん)菩提(ぼだい)寺(上野寛永寺)に蟄居(ちっきょ)(一室にこもり謹慎すること)して罪を待ち、生死は一切朝廷のご沙汰(さた)(命令)に(したが)わんと思い定めております。しかるに何の必要あって大軍を進発(しんぱつ)し給うのでありましょうか」

「生死は朝廷のご沙汰に遵わんとか、恭順謹慎なりとか申されますが、既に甲州(こうしゅう)甲斐(かい))では兵端(へいたん)を開いて官軍に手向ったとの注進(ちゅうしん)がまいりましたぞ。先生の言葉は信をおけませぬ」

「わが主人は自ら恭順謹慎の(じつ)を示し家臣にも厳しく命令しましたが、幾多の家臣中には主君の命に反しあるいは脱走して不軌を謀るものもありましょう。しかれどもかくの如き鼠賊(そぞく)(こそどろ)(はい)はわが徳川家に縁を絶ちしものなれば、断じて慶喜には関係のないことです。いま先生の申される甲州地方に鋒起(ほうき)するものはまさしくそれらの輩でありましょう。これらの不届者(ふとどきもの)の為に、主人慶喜の恭順の赤心(せきしん)(真心、誠意)を朝廷に貫き通すことが出来なくなることを心より恐れ、かくご陣営へ推参(すいさん)いたしました次第でございます。願わくは大総督宮殿下へお取りなしを願い奉ります」

西郷は甲州の脱走兵については「それならようごわす」とうるさく追及はしなかった。しかし容易に返答はしない。それは慶喜の恭順が徳川家全体として実行されるかいなかが全くわからないから、うかつに返事はできないのである。鉄舟は誠意を面上にみなぎらせ決死の覚悟で訴えた。

「拙者は主人慶喜に代って礼を尽くして申上げております。先生がこの札を受け給うてご返答下されなければ、拙者は死するほかはありません。旗本人万騎中命を惜しまざる者は私だけではありません。もしそうなりましたなら独り徳川氏のみならずこれからの日本国家はどうなりましょう。それでも先生はなお進撃されますか。もしそうであれば、それは王師(おうし)(天皇の軍隊)とはいえますまい。謹んで思いますに、天子は民の父母であります。理非を明かにして不逞(ふてい)(反逆者)を討つことこそ真の王師でございます。謹んで朝命に(そむ)かざると申す忠臣に対して(かん)(てん)(寛大な処置)のご処分がなくてはここから天下は大乱となりましょう。先生どうか切にご配慮を願います」

命を捨てる覚悟のもと筋の通った言を()く鉄舟の人物に感ずる所があった西郷は、おもむろに答えた。

無暗(むやみ)に進撃を好むわけではありません。恭順の実効さえ立つならば、寛典のご処置がありましよう」

言葉は短かいが西郷の返答は堂々とした至当公正の論であった。事の核心は慶喜の恭順が徳川家全体のものとしてつつがなく行われるかどうかであった。(つづく)

                〈明日への選択 平成2311月号 岡田幹彦〉


歴史の指標

山岡鉄舟(三) 命もいらぬ名もいらぬ真の武士

 

 徳川慶喜の恭順をめぐって

 

西郷の返答に光明を見い出した鉄舟は、

「その実効とはどんなことでありましょうか」

と尋ねた。西郷はおだやかな表情を見せてこうのべた。

「先日、(せい)寛院宮(かんいんのみや)様(将軍(いえ)(もち)正室(せいしつ)和宮(かずのみや))と天璋院(てんしょういん)様(将軍家定の正室(あつ)(ひめ))のお使者(ししゃ)が参られまして、慶喜殿が恭順謹慎しておられることを申されて嘆願されましたが、ご婦人のことで恐懼(きょうく)狼狽(ろうばい)してお尋ねしましても申されることがよくわからず、空しくお帰りになりました。

しかし今日、先生がわざわざここまでおいで下さり、慶喜殿のご事情もよくわかりまして好都合でした。これから大総督宮へ言上致しますから、しばらくご休息下され」

やがて西郷はもどり、恭順降伏の条件を箇条書にしたものを鉄舟にさし出した。

 

一、城を明け渡すこと。

一、城中の人数を向島に移すこと。

一、兵器一切を渡すこと。

一、軍艦を残らず渡すこと。

一、徳川慶喜を備前藩にあずけること。

一、伏見・鳥羽において慶喜の妄挙(もうきょ)を助けた者共は厳重に取調べ謝罪の道を立てること。

一、玉石(ぎょくせき)ともに焼く御趣意ではないから、鎮定の道を立てよ。もし暴挙する者があって

手に余らば官軍の手をもって鎮める。

右の条々が急速に実効が立てば徳川氏の家名は立てられるであろう。

 

これが恭順降伏の条件であった。西郷は「右七箇条の実効が相立ちましたなら、徳川家(かん)(てん)のご処置がありましょう」と確言した。鉄舟はこう答えた。

「謹んで承りました。しかしながらただ一箇条だけ、すなわち主人慶喜を独り備前へ預けることはおうけできませぬ。なぜならばこれは徳川恩顧(おんこ)の家来どもが決して承服しないことでございますから。つまる所この箇条は戦争を強行し数万の者を殺そうとなさることであります。それは王師(おうし)(天皇の軍隊)のなさることとは思われません。これでは先生はただの人殺しとなりましょう。この条項だけは決しておうけできません」

最初、大総督府で考えていた原案は「慶喜が軍門に(のぞ)んで降伏する」というものだったが、

西郷はこれを削除してゆるやかにしたのである。備前岡山藩主は慶喜の実弟だから、ここに頂けられても無論むごい扱いは決して受けない。むしろ温情の処置としてこうしたのであった。

西郷は「(ちょう)(めい)ですぞ」と言った。鉄舟は「たとえ朝命なりとも拙者は断じて承服できません」と押し返した。西郷は再び「朝命ですぞ」と強く言った。

 

 西郷、鉄舟に惚れこむ

 

鉄舟は必死の思いで訴えた。

「かりに先生のご主人島津侯もし誤りて朝敵の汚名を受け、官軍征討の日において主君恭順

謹慎の時に及んで先生が私の任にいて主家のため尽力するにあたり、主人慶喜のごときご処置の朝命あらば、先生はその命を奉戴(ほうたい)してすみやかに主君をさし出し安閑(あんかん)として傍観すること、君臣の情義(じょうぎ)において果してできることでしようか。私は決して決して忍ぶ事はできません。先生、切にお考え下さい」

西郷はしばらく言葉がなかったが、主君を切に思い一死をもって守り抜かんとする鉄舟の誠忠と真情に強く打たれた。日の前の鉄舟に真の武士を見る思いがした。西郷は誠意をこめて応え、

「山岡先生の言われることもっともであります。よくわかりました。徳川慶喜殿のことにおいては吉之助(きちのすけ)(西郷)きっと引受けてとりはからいます。先生、必ずご心痛は無用です」

と固く誓約した。西郷の金鉄(きんてつ)一言(ひとこと)である。

鉄舟は涙をうかべて感謝した。西郷は鉄舟の人物にすっかり打たれ強く()れこんだ。これが西郷という人物である。西郷は人間として武士としてとくにすぐれた人物に出会うと即座に惚れこむ癖があった。藤田東湖、勝海舟、橋本左内など初対面で惚れた。鉄舟もそうだった。そのあと西郷は笑みをうかべつつこう冗談を言った。

「先生は官軍の陣営を破ってここまで来たのですから、本来なら縛らなければなりませんがやめておきます」

鉄舟はこれを諧謔(かいぎゃく)とうけとる余裕なくまじめに、「縛られるのは覚悟しています。早く縛って下さい」

と言った。西郷は笑って「まず酒を飲みましょう」といって部下に用意させ、暫時(ざんじ)酌み交した。西郷の襟度(きんど)(人をいれる度量、心の広さ)が思いやられる。鉄舟が帰途につくとき、西郷は静かに立って山岡の肩を撫で赤心(せきしん)を表わしこう言った。

「ああ足下(そっか)(あなた)は稀有(けう)の勇士であります。足下は得がたい謀士(ぼうし)であります。真の武人であります。実に虎穴(こけつ)に入って虎児(こじ)を探るとは、すなわち足下のことであります。それがしは足下の大決心が生きて帰らざるを察しております。ああ真に勇士で知徳兼備のもののふと言わねばなりません。実に一国の存亡は足下の双肩にかかっています。どうか自重して下さい」

西郷が鉄舟をまことの武士、稀有の人物としていかに深く認め敬愛したか明らかであろう。

西郷の至情にふれて感泣した鉄舟は心の底から西郷に敬服した。明治二十年、鉄舟は「世人の国賊と呼ぶ西郷君のごときも拙者(せっしゃ)は仰いで完全無欠の真日本人と信じて疑わない」とのべている。こうして二人は肝胆相照らす仲となった。このあと西郷と勝海舟の談判が行われた二月十三日、西郷がこう語ったと海舟はのべている。

「さすが徳川公だけあって偉い宝をお持ちだというから、どうしたと聴いたら、いや“山岡さんのことです”というから、どんな宝かと反問すると、“いやあの人はどうの、こうのと言葉では尽きぬが、何分にも()の脱けた人でござる”というから、どんな風に腑が脱けているかと問うたら、“生命(いのち)もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といった様な始末(しまつ)に困る人ですが、あんな始末に困る人ならではお互いに腹を開けてともに天下の人事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の(ちゅう)(たん)(忠誠の心)なる人とは山岡さんの如き人でしょう”とて西郷は驚いておったよ」

『南洲翁遺訓』にある有名な西郷の格言は実に鉄舟に対する言葉であったのである。

 

 鉄舟を絶賛する海舟

 

三月十日、江戸に戻った鉄舟は慶喜に復命(ふくめい)した。慶喜は心から悦び鉄舟に深く感謝した。

勝海舟もひとまず安堵(あんど)の胸を撫でおろし、同日の日記にこう記している。

「山岡氏東帰(とうき)駿府(すんぷ)にて西郷氏へ面談、(くん)(じょう)(慶喜)の御意(ぎょい)を達しかつ総督府之御内書(おないしょ)、御処置の箇条書を乞うて帰れり。鳴呼(ああ)、山岡氏沈勇(ちんゆう)にして(その)(しき)高くよく君上の(えい)()(恭順謹慎のこと)を演説して残す所なし。もっとももつて敬服に()えたり」

これ以後、海舟は鉄舟を全く信頼し鉄舟が亡くなるまで最も親しい交りを続けることになる。後年、海舟はこの時のことにつきこう語っている。

「彼が西郷との談判工合(ぐあい)やら敵軍中を往来すること、(あたか)(たん)()(こう)()(たいらかな広い道)を()くが如く、真に臨機応変の(ところ)ほとほと感心なるものだ。彼の大西郷をしていかにも然りと(かぶと)を脱がせ、あるいは彼(西郷)をして至情の涙に()えざらしめた工合などは、彼山岡の誠心誠意、いかんとも評も賛も口先をもって論じ得ベき所ではないよ。

なお山岡がおれの問いに対し“もはや今日のわが国において、幕府の薩州のとそんな差別はない。挙国一致だ、四海一天(しかいいってん)だ、天業恢(てんぎょうかい)(こう)の時機は今だ”というたが、当時おれは彼のこの言を聞き、これは並々たいていの者ではないとほとほと感心したよ。

当時こんな思想を持っておった者は(ほか)にいなかったよ。“天業恢弘の時機”だといえば、普通の考えでは封建政治を″天皇親政″にお返しすればよいとのみ思っておったものだ。ところが山岡の頭は勿論封建政治を郡県政治として(かみ)御一人(ごいちにん)(天皇)の御親政を仰ぎ奉る事は言うまでもなく、天業を恢弘せしめてやがで後進子孫をして天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)天皇(すめらみこと)奉戴(ほうたい)して、往古(おうこ)(てん)()時代の世界君臨に復古せしめんとする普通世俗の夢想だもせざる考えをもっていた(ふう)だ。何と驚いた人物ではないか。

あの際、西郷を説得して安々(やすやす)維新鴻業(こうぎょう)(大事業)を全からしむることは山岡ならでは出来ない(わざ)だよ。回顧すれば、実に高士(こうし)山岡と叫び讃えたくなるよ。(かん)(たん)に山岡を評せよというなら、“誠実忠愛にして英邁(えいまい)(抜きんでてすぐれていること)豪果(ごうか)(すぐれていて決断力があること)の人物なり”と評したい。また当時この意味からその人を探せば山岡以上の人物は見当らなかった。

西郷が江戸近くに到着すると、翌十三日(三月)おれは単騎(たんき)して高輪の薩摩屋敷に出かけ、

西郷と山岡は少々遅れてやって来た。ここに注意すべきは、西郷と山岡とはもはやこの時は幕軍とか官軍とか二人の頭にはなく、駿府で既に両人会見後は互いに水魚(すいぎょ)の誓いをなし、世界対日本の維新というほかなんにもない。また山岡は西郷との前約上、万一西郷の身辺に危害でも加うる者があっては相済まぬとの心から、西郷の江戸付近に滞在往来中は、山岡自身常に西郷と居を同うして生死を共にしていたのである」

幕末日本の一大人物である勝海舟は自負心強くめったに人を称賛することはなかったが、鉄舟をかくも絶賛したのである。これほど海舟が賞めた人物は西郷隆盛以外にはとんどいない。

なお「天業恢弘」とは、神武天皇が日向(ひゅうが)の国から大和(やまと)橿原(かしはら)の地に出発する際発せられた「天

業恢弘の(みことのり)」(日本書紀)にある言葉である(「(あれ)(おもう)うに()の地(大和)は必ず(もっ)天業(あまつひつぎ)(ひろ)()べて、天下(あめのした)光宅(みちお)るに足りぬべし。(けだ)六合(くに)中心(もなか)か」)。天業恢弘とは皇祖天照大御神の理想を実現すべき大事業を盛んにするという意味である。

 

 恭順に反対する幕臣

 

わが国史上の精華(せいか)ともいうべき西郷隆盛と勝海舟の談判がすぐこのあと行われる。西郷と鉄舟の談判で全てが解決したのでは無論なかった。西郷・鉄舟談判の意義は、徳川慶喜の朝廷への恭順が嘘偽りなきものであることを西郷にはっきり理解させたことにある。しかし慶喜の恭順が徳川家あげてつつがなく実行されることについては何の保証もなかった。勝海舟が総責任者として全力を尽していたが、幕臣の大半は恭順に反対、徹底抗戦を叫んでいたのである。鉄舟が西郷から示された恭順降伏の条件につき、慶喜の箇条だけを嘆願したのは他の条項については何ら商議(しょうぎ)(話し合うこと)すべき資格と権限を有していないからである。

西郷としては慶喜恭順の誠意が偽りなきものであることを山岡の必死の訴えにより確認することはできたが、それが家臣を含めて滞りなく実行されるかいなかは、鉄舟に与えた恭順降伏条件に対する徳川家の返答を待たねば判断できないのである。つまり西郷と徳川家代表者たる勝海舟との談判において全てが決まるのである。要するに西郷と鉄舟の談判は事前の予備交渉であり、海舟との談判が本番、本交渉であった。談判の核心は、慶喜の恭順に幕臣が忠実に従いそれが徳川家全体のものとして実行されるかいなかであった。

海舟はこの談判が容易ならぬものであると覚悟していた。なぜなら既述の如く幕臣の大半が慶喜の恭順に反対だったからである。そもそも幕臣たちは大政奉還に反対であった。彼らは二百六十余年続いてきた幕府は太陽のごとき不減の存在と思った。幕府主流派は幕府に刃向う薩摩や長州を討ち滅ぼし郡県制をしき幕府が強力な指導力をもつ中央集権国家の建設を目指していた。将軍になってから常に京都にいて江戸に戻ったことのない慶喜は幕臣のなじみ薄く人気もなかった。あげくの果て大政奉還を行い鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸に逃げ帰って恭順したのだから、慕臣は慶喜に不平満々でとても従う気になれないのである。

上野には(しょう)義隊(ぎたい)が三千名ほどたてこもり抗戦を叫び、徳川の近代的陸海軍の将士も脱走の構えを見せていた。従って責任者の勝海舟の苦労は並大抵ではなかった。海舟は恭順反対者から、「国賊、逆臣、売国奴、薩長の犬」と罵倒され命まで狙われた。こうした徳川方の実体を西郷始め官軍がどう見るかということである。

恭順とはいうがそれは慶喜と海舟らごく一部の者だけのことで、恭順の実はどこにもないのではないかと判断されても仕方がなかった。また徳川方は恭順と言いつつ官軍を(あざむ)く謀略を企だてているのではないかと猜疑されても無理のない実状であつた。それゆえ海舟は談判不成立の可能性が大いにありえたから、その場合は官軍と決戦する準備までした。つまり和戦両様の構えで西郷との会談に臨んだのである。客観的に見るなら成立は甚だ困難と見られる交渉であったのである。(つづく)

               〈明日への選択 平成2312月号 岡田幹彦〉


歴史の指標

山岡鉄舟(四) 南洲・海舟・鉄舟の固い絆

 

西郷・勝の談判

 

江戸開城を決した西郷・勝の談判は慶応四年(明治元年、一八六八)三月十三、十四日江戸で行われた。十三日は両者の顔合わせ、翌日が具体的な交渉である。両者の談判は有名な歴史画として知られているが、鉄舟は両日とも同席していた。先月号で海舟がのべた様に、徹底抗戦を叫ぶ幕臣が西郷に危害を加える恐れがあるから、もしそうなれば恭順は一瞬にして瓦解(がかい)してしまうので鉄舟は身をもって西郷の護衛に当たるのである。

当日、海舟は先に官軍から提示された恭順降伏条件に対して寛大な措置を請う嘆願書を提出した。次の七箇条である。

 一、徳川慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎する。

 二、江戸城の明渡しは手続きが済み次第、田安(たやす)家(徳川一門、()(さん)(きょう)の一つ)に預ける。

 三・四、軍艦・武器については相当の数を徳川家に残してその余を官軍に引渡す。

 五、城内居住の家臣は城外に移す。

 六、鳥羽伏見の戦いにおける主たる者は格別の御憐憫(ごれんびん)をもって、責任を問わず助命され

たきこと。

 七、暴挙する者を抑えつけられない時は、官軍をもって鎮圧されたきこと。

恭順降伏条件の大幅な緩和を求めるものでほとんど骨抜きといってよかった。一の慶喜の取扱いについては既に西郷が鉄舟に確約しているので問題はない。だが二・三・四ことに六が間題であった。官軍から見るならばあまりにも虫がよすぎる徳川方の嘆願要求であったのである。近代日本の運命を決した一大談判がここに始まった。なお、同席した鉄舟は徳川家の代表者ではないから、一切発言はしていない。

 

日本をインド・清の二の舞にしない

 

西郷と海舟は四年前、大阪で一度だけ会っている。その時両者は心中深く互いの人物を認め合った。海舟は官軍の実質的な総帥、新政府第一の指導者たる西郷の人物に徳川家いな日本の運命を賭けてこの談判に(のぞ)むのである。

海舟は徳川方の実情を包むことなく打ち明けるとともに、慶喜及び徳川家恭順の精神を西郷に強く訴えた。多くの幕臣が恭順に反対し抗戦を叫ぶ中で、何ゆえあえて恭順を貫こうとするのか。一言でいえば、それはあくまで皇国日本を思うがゆえであり、もし官軍と徳川方が戦うならば内乱の為に遂に国を減ぼしたインドや半植民地化した清の二の舞を演ずることを何としても回避するためであった。

海舟は幕臣ではあったが決して幕府本位、徳川本位の人ではなく常に皇回日本という立場からものを見、行動する稀有(けう)の幕臣であった。官軍と徳川方が国を二つに割り徹底的に戦い続けるならば、必ず英仏の介入・干渉を招き最後に彼らの支配を受け植民地、属国となることはインド・シナを見るならば必至である。同胞相争い亡国の憂目を見る愚はどうしても避けなければならぬ。これが海舟の根本信念であった。無論、鉄舟の考えも全く同様である。

こうした思いで海舟は徳川方の内情を話しつつ逐条(ちくじょう)ごとに談判した。海舟は慶喜の恭順に大半の幕臣が服従せず反発し徹底抗戦せんとしていること。慶喜の恭順を強く支持する海舟自身、ひそかに薩長に内通する者と猜疑され逆賊、国賊と憎悪されてたびたび命を狙われたこと。自分の命は少しも惜しまぬがもし殺されるなら、慶喜及び徳川家の恭順は到底不可能なことを隠さずにうち明けた。

とりわけ徹底抗戦を呼号(こごう)する徳川陸海軍将兵の鎮撫(ちんぶ)に苦しむ海舟は、軍艦・武器全ての引渡しの困難さを訴えた。徳川海軍の主将榎本(えのもと)武揚(たけあき)は全軍艦の引渡しに断回反対し官軍が承知せねば戦いあるのみと譲らなかった。恭順反対派はそもそも徳川幕府の無くなること自体、理屈の上からも感情からも絶対承服できないのだから、恭順を実行せんとする慶喜や海舟を許し難く憎悪し随従する気など毛頭(もうとう)ないのである。そこに海舟の名状しがたい困難さと辛苦があったが、海舟はこうした内情を訴えて西郷の理解を切に求めた。

鳥羽伏見の戦いの責任者処罰の件も同様だった。官軍があくまでそれを求めるなら断然抗戦あるのみとの意見が大勢を占めた。西洋式に一新された徳川陸海軍は官軍と戦っても負けぬと思われる戦力を備えていたから、彼らにすれば処罰など論外であった。それゆえ海舟は責任者の助命、罪の不間を乞うたのである。鳥羽伏見の敗戦の結果降伏するのだから、主たる者数名が切腹して責任を取るというのが当然の日本的結着の仕方である。それも勘弁(かんべん)してくれというのだから、官軍としては勝者の立場が立たぬ本来受けいれがたい嘆願であったのである。

 

西郷の大度量・大誠意

しかし西郷は嘆願のすべてを承諾するのである。海舟は晩年こうのべている。

「西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。あの時の談判は実に骨(骨折り、苦労)だったよ。官軍に西郷がいなければ話はとてもまとまらなかっただろうよ」

「いよいよ談判になると西郷はおれの言うことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。『いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引受けします』西郷のこの一言で江戸百万の生霊(せいれい)(人間)もその生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその減亡を(まぬが)れたのだ。もしこれが他人であつたら、いやあなたのいう事は自家(じか)撞着(どうちゃく)(矛盾の意)だとか言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々(しょしょ)(とん)(しゅう)しているのに恭順の(じつ)はどこにあるとか、いろいろ(やかま)しく責め立てるに違いない。万一そうなると談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮(やぼ)はいわない。その大局を達観してしかも果断に富んでいたにはおれも感心した」

海舟は相手が西郷だったからこの談判は(から)くも成立したというのである。客観的に見るならば徳川方に恭順の内実があるとは到底思われないのである。ではなぜ西郷はこれを呑んだのか。それは西郷が勝海舟という人物を深く信じたからである。幕臣であるにもかかわらずその立場をこえて、皇国日本を断じてインド・清の二の舞にはしないとの信念に立ち、兄弟相せめぎ合う愚を避けんとする真に国家を思う海舟の誠忠に心から共鳴したからである。

西郷は前年夏、パークス駐ロイギリス公使の代理アーネスト・サトウが、「幕府がフランスの支援を受け薩摩始め諸藩を討ち滅ぼそうとするなら、イギリスも出兵して薩摩に応援するからその時機がくれば相談に応ずる」と申入れたのに対して、「日本の国体を立て貫いて参る上に外国の人に相談いたし(そうろう)面皮(つらのかわ)はこれなく……」と答えて峻拒(しゅんきょ)した人物であった。建国以来一系の皇室を戴く世界に比類なき国柄、国体を有するわが国の独立と尊厳を守り抜く為に、外国の介入・干渉を阻止し国内の分裂、内乱を回避することにおいて西郷と海舟そして鉄舟の心は一致していた。西郷は反対者を抑えてあくまで恭順を貫かんとする海舟の懸命の尽力が痛いほどよく理解できたから、嘆願の全てを承諾し恭順の実行を見守ろうとしたのである。それは西郷が海舟を心から信じてはじめて出来ることであった。この西郷の大決断を海舟はこうのべる。

「西郷に及ぶことが出来ないのは、その大胆(だいたん)(しき)(卓越した勇気・決断と見識)と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗込む。おれだって事に処して多少の権謀(海舟は談判不成立の場合、焦土(しょうど)戦術をもって官軍と戦う準備をした上談判に臨んだ)を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをして(あい)(あざむ)くに忍びざらしめた。この時に際して小籌(しょうちゅう)(せん)(りゃく)(こまかいはかりごと)を事とするのはかえってこの人のためにはらわた(心中)を見すかされるばかりだと思つて、おれも至誠をもって応じたから、江戸城受渡しもあの通り立談(たちばなし)(あいだ)(戦いをせずにの意)に済んだのさ」

「この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判の時にも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような(ふう)が見えなかったことだ。その胆量(たんりょう)(勇気と人を容れる度量)の大きいことは、いわゆる天空(てんくう)海闊(かいかつ)(果てしない大空と広大な海)で見識ぶるなどということは少しもなかった」

海舟の心魂(しんこん)に刻まれた西郷隆盛という古今(ここん)不世出(ふせいしゅつ)の人物の真面目が活写されている。天下に我以上の者はあるまじと内心自負していた海舟が心底脱帽し感嘆し絶賛したのが西郷だったのである。だが日本国史上の精華(せいか)(美しい花)とされる西郷・勝談判による江戸開城も当時は誰もこれを高く評価する者はなかった。幕臣から売国奴扱いされた海舟を理解する人は鉄舟らを除きほとんどなく、「維新の頃は妻子までもおれに不平だったよ。広い天下におれに賛成する者は一人もなかった…」と述懐している。しかし海舟は自分よりもっとつらい目にあったのは西郷だとして、「おれの方よりか西郷はひどい目にあったよ。勝に(だま)されたのだといって、それはそれはひどい目にあったよ」とのべている。筆者は海舟の嘆願をうけいれた西郷の大度量と大誠意につき海舟の語る言葉をいつもしみじみ味わう。明治維新を成就した西郷、海舟そして鉄舟の言い知れぬ辛苦と三者の偉大さが思いやられるのである。

 

鉄舟と海舟の苦衷―上野の戦い

 

慶応四年四月十一日、江戸城は滞りなく官軍に明渡された。こうして江戸無血開城はなり、徳川幕府は二百六十余年の歴史を開じ明治維新が成就した。慶喜は水戸に移り謹慎した。

ところがその直後、徳川家陸海軍将兵の大量の脱走が始まった。開城までは海舟らの必死の鎮撫に表面は服していたが、以後関東、越後東北方面に脱走し抗戦をするのである。榎本武揚の率いる旧幕府海軍は老旧艦四隻のみ官軍に引渡し、八月、新鋭艦八隻をもって函館へ遁走(とんそう)した。また上野には(しょう)義隊(ぎたい)約二千名がたてこもり抗戦の構えを崩さず官軍兵士に対して殺傷を働いた。

海舟と鉄舟が最も憂慮した事態が出現したのである。次々に脱走する旧幕臣に対して海舟は全く処置なしだった。そこで海舟と鉄舟は上野の彰義隊だけは何としても説得して抗戦を断念させようとした。せめて彰義隊だけでも抵抗をやめさせなければ、嘆願を丸呑みにしてくれた西郷を事実上欺いたことになり全く申訳が立たないからである。

海舟の意を受けた鉄舟は彰義隊を無事解散させようとして、上野に出向き幹部らへの説得に全力を尽した。鉄舟は幾日も必死になって奔走したが、しかしついに彼らは聞く耳を持たなかった。西郷は海舟と鉄舟の渾身(こんしん)の努力に期待をかけ開城後二ヶ月も待った。しかしそれが不可能と見た五月十五日(この年は閏年(うるうどし)で四月が二回あった)、彰義隊を討伐したのである。西郷は討伐にあたり鉄舟に懇切にこうのべている。

「あなたの朝廷を重んじ、主家に報ゆるの誠忠逐次(ちくじ)(そのたびに)詳悉(しょうしつ)(くわしく知ること)しています。いま暴徒を進撃するにあたり、あなたが(こころよ)らざることは承知していますがここに及んではやむを得ません。どうか心を(いた)めないで下さい」

海舟はこのとき西郷がこう語ったと記している。

東叡山(とうえいざん)(上野寛永寺(かんえいじ))を根拠として上野地方に出没する彰義隊なるものは一定の主義とてもなく、またこれを指揮する隊長とても確かならず、また本来の精神は(にく)むべきでもないが、かくの如き出没して人の生命財産に大害を加え乱暴狼藉(ろうぜき)を働くにおいては到底猶予(ゆうよ)しかねるから、いよいよ官軍をもって追撃致します。しかしこれまで山岡氏が幾日となく寝食を忘れて暴徒の解散に尽されたのは、つまり国家の為。朝廷にまれ(に対してもの意)徳川家にまれ、()の人(山岡)の(ちゅう)(しん)(忠誠心)いかにも気の毒で涙に耐えない。 一体、東叡山は徳川家の菩提寺(ぼだいじ)は勿論、いうまでもなく天下の至宝を集めたところです。(しこう)していわゆる彰義隊なるものは大抵(たいてい)徳川の遺臣なれば、あれを進撃するは貴下(あなた)や山岡氏の誠忠に対して返す返す気の毒だけれども進撃と決しますと。西郷はほろりと一滴の涙を流してその折話された」

彰義隊の抵抗は官軍にとっては徳川家恭順に違反する行為として強く批判されても弁解の余地がないのに、西郷は逆に両者の尽力の甲斐なくここに討伐に及ぶことを気の毒がり涙を流したのである。西郷は海舟と鉄舟という人物を心の底から認め信じて二人の幸苦と窮状(きゅうじょう)に同情を惜しまず、辛抱強く恭順の実行を見守り続けた。西郷は甘い、手ぬるい、勝という古狸(ふるだぬき)(だま)されているという周囲の強い非難の中でこうしたのだ。西郷だから出来たことであった。海舟以上に「ひどい日にあった」西郷だが、それゆえにこそ海舟と鉄舟は生涯西郷に対して限りない敬愛と感謝の念を抱き続けたのである。西郷はまことに古今(ここん)無双(むそう)、比類なき大人物であった。(つづく)

 

〈明日への選択 平成241月号 岡田幹彦〉


歴史の指標

山岡鉄舟(五) 明治天皇の御親愛・ご信頼 幕臣から天皇の侍従へ

 

静岡に移る

 

江戸開城後、徳川慶喜は水戸に移り謹慎した。徳川家は田安(たやす)亀之(かめの)(すけ)(徳川(いえ)(さと))が相続を許され、慶応四年(一八六八)五月二十四日、駿府(すんぷ)(静岡)七十万石を下賜(かし)された。四百万石から七十万石に削減されたがともかく家名(かめい)を保つことができた。尚徳川家達は明治十七年公爵(こうしゃく)を授けられ長年貴族院議長をつとめた。

慶喜はその後七月、静岡に遷居(せんきょ)し謹慎を続けた。謹慎が解かれたのは明治二年九月である。明治三十年、東京に移住、翌年初めて参内、明治天皇に拝謁、維新時慶喜が恭順を貫いたことに対して懇篤なるお言葉を賜り感涙にむせんだ。この謁見(えっけん)を蔭でとりしきったのが勝海舟である。海舟はその翌年、これで自分の任務は終ったともいうように亡くなる。明治三十五年、慶喜は公爵を授けられた。徳川幕府の最後の将軍が公爵まで授かり名誉を回復することができたのである。明治維新においては敗者を徹底的に痛めつけあるいは減ぼすということをせず、かくのごとくしかるべき名誉を与え怨念を水に流し和解するというのが日本的なやり方であった。これが可能であったのは西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟の固い心の絆と尽力があったからである。

慶喜の水戸(せん)(きょ)、上野の戦いの後も海舟、鉄舟らの辛苦は続いた。前号でのべた通り、徳川の脱走兵は関東、東北、越後方面で官軍に抵抗していたし、水戸藩士も少なからずそれに加わっていた。それゆえ慶喜の水戸での謹慎もいかなる妨げがあるかもわからないので、鉄舟らは慶喜を静岡に移す計画を立てこれを官軍に上申し許可を得、七月下旬慶喜は静岡に移った。八月には徳川家達も静岡に移りそのあと海舟や鉄舟らみな静岡に移動、こうしてようやく後始末ができた。

ところが八月下旬、榎本(えのもと)武揚(たけあき)が軍艦八隻に三千五百名の同志を乗せ脱走し陸奥に向いやがで函館で抗戦するのである。八隻の軍艦を保有する旧徳川海軍は薩長を凌駕する日本一の海軍力をもっていた。海舟も鉄舟もこれではせっかくここまで何とか切り抜けてきた恭順の趣旨が立たず、再び官軍を(あざむ)いたことになるので全く立つ瀬がないほど苦しみ、新政府に不始末をひたすら詫びるのである。徳川家が恭順を貫くことがいかに困難きわまるものであったかがわかる。

鉄舟は静岡藩の(ごん)大参事(だいさんじ)に任ぜられ、海舟、大久保(いち)(おう)らとともに藩政を担い、静岡に移住してきた多くの旧幕臣たちの生活につき肝胆を砕いた。広大な荒地であった牧の原を開墾し茶畑を経営することを企画、指導したのは鉄舟である。約三年間尽力したが、明治四年、廃藩置県が断行され、鉄舟は東京に戻った。

 

鉄舟と清水次郎長

 

鉄舟の静岡時代、親しくなったのが海道一の大親分とよばれた侠客(きょうかく)(強い者をおさえ弱い者を助けることを目ざした任侠(にんきょう)の徒)清水(しみず)次郎(じろ)(ちょう)である。彼は官軍東下(とうげ)の際、人足(にんそく)・食糧を供給した功により帯刀(たいとう)を許されていた。榎本武揚が八隻の軍艦を率いて脱走した時、途中暴風雨にあい、その内一隻(かん)臨丸(りんまる)が破損し流されて清水(みなと)に漂着した。そこに官軍の軍艦三隻が追ってきて砲火を浴びせた上、兵士たちが成臨丸に斬込み、皆斬り殺されて海に七名の死体が(ただよ)った。死骸は数日そのまま海に浮んだが後難(ごなん)を恐れて誰一人手をつける者がなかった。

そのとき次郎長は持前の任侠の心を発揮、子分を使い遺体をすべて収容し(ねんご)ろに葬った。この噂はたちまち駿府中にきこえ、官軍を恐れている人々の物議(ぶつぎ)の種となった。そこで鉄舟は次郎長をよび糾問(きゅうもん)した。

仮初(かりそめ)にも朝廷に対し賊名を負うた者をどういう料簡(りょうけん)(考え)で始末したのだ」

次郎長は悪びれた気色もなく、「賊軍か官軍か知りませんけれどもそれは生きている間のことで、死んでしまえば同じ仏じゃございませんか。仏に敵味方はございますまい。第一死骸で港が(ふさ)がれては港の奴等(やつら)稼業(かぎょう)に困ります。港の為と仏の為とを思ってやった仕事ですが、もしいけないとおっしゃるならどうとでもお(とが)めを受けましよう」

ときっばり答えた。次郎長の(きょう)(こつ)()(たん)に感服した鉄舟は、

「そうか、よく葬ってやった。奇特(きとく)な志だ」

と会心の笑みを()らした。咎められるどころかいたく賞められた次郎長は拍子抜けして言った。

「それならお咎めはございませんか」

「咎めるどころか、仏に敵味方はないというその一言が気に入った」

「ありがとうございます。そう(うけたまわ)れば私も安心、仏もさぞ浮かばれましょう」

次郎長はそのあと自ら施主(せしゅ)となり供養を営んだ。鉄舟は求められるまま「壮士(そうし)之墓」との墓標を(したた)めてやった。以後次郎長は鉄舟を深く敬愛し、鉄舟邸へしばしば出入りする様になる。鉄舟も次郎長を親愛した。

 

侍従― 宮中奉仕

 

東京に戻ってから鉄舟は新政府に請われて明治四年十一月、茨城県参事として赴任した。たった二十日間だが内紛を見事に解決した。翌十二月、やはり依頼されて伊万里(いまり)(ごん)県令(けんれい)として赴任、ここでも内紛を解決し明治五年二月、戻った。内紛解決の為に特別に派遣されたのであった。鉄舟は為政者(いせいしゃ)、政治家としての手腕も十分持っていたのである。

そのあと同年五月、鉄舟は明治天皇の侍従(じじゅう)として宮中に奉仕することになった。新政府の大黒柱である筆頭参議西郷隆盛が自ら山岡の邸宅器 を訪れ、懇切に要請したのである。鉄舟は旧幕臣として新政府に仕える意志は全くなかった。茨城や伊万里に行ったのは緊急措置としてやむなく出かけたのである。しかし西郷の懇請だけはどうしてもことわるわけにはいかなかった。西郷には大恩があったからである。旧幕臣というこだわりなど微塵(みじん)もなくあくまで人物本位に立ち、若き明治天皇の人格(ぎょく)(せい)の為に最もすぐれた人物をおそばにつけんとする西郷の精神に深く共鳴こそすれ異を唱える理由は尊皇一筋の鉄舟にはなかった。「命もいらぬ名もいらぬ」人物として西郷の鉄舟への敬愛と信頼の念は不動であった。鉄舟は真に自分を深く知り認めてくれる西郷の(しん)(せい)負託(ふたく)感奮(かんぷん)感泣(かんきゅう)して侍従を拝命したのである。西郷には義理があるからやむを得ないというような消極的な理由で引受けたのでは決してない。この時鉄舟は「朝廷に奉仕する事」と題し自らの気持を記している。その主なところ。

「慶応戊辰(ぼしん)の改革(明治維新)も(ようや)くその終りを結ぶを()、天下は幸いに明天子(めいてんし)(明治天皇)の(もと)に新政を施し(たま)う事となり、四民(士農工商)一統志を合わせ、万国対新日本の面目を維持するに急なるの今日、()()無識頑冥(がんめい)の徒その席を汚すはもとよりその任にあらず。謹んで旧幕(府)の遺族を伴い駿府に退隠し野に下りて専ら応分の任を尽さんとす。

しかるに同僚大久保一翁、勝海舟書を余に寄せかつ説きて(いわ)く、『戊辰の変(ようや)くその終りを告げ新政府まさにその(ちょ)()かんとすといえども、人多くは私憤を抱蔵(ほうぞう)して丈夫(じょうふ)(立派な男子)の為すべき所にあらず。()くの如くんばせっかく維新の興業も空しく水泡(すいほう)に帰し、海外の(そしり)(非難)を招き(つい)に子孫の楽土を失なわしむ。()(あに)吾人(ごじん)の本意ならんや。貴下(きか)(さいわ)いに皇国に忠する志あらば宜しく現時の情実を(つまびら)かにし、中心(がえん)ずる所あらば再度()ちで皇国に忠する所あられよ。西郷(隆盛)、大久保(利通(としみち))、吉井((とも)(ざね))、木戸((たか)(よし))等諸氏貴下を待つの志(すこぶ)る切なり』と。

余は如上(にょじょう)の勧告に接すると同時に(ひそ)かに天下の形勢に照らし、内深く自然の条理に考え、(やく)(ぜん)起って二度(ふたたび)身を(おおやけ)(ゆだ)ぬるに至れり」

西郷は鉄舟を推挙するにあたり、まず海舟を説きその了解を得て鉄舟に懇請したのである。「皇国に忠する志」こそ生涯把持(はじ)するものであったから、鉄舟は最も尊敬してやまぬ西郷の懇請を「躍然(心おどらせること)」として受けたのである。

当時の侍従は薩摩の村田新八、高島鞆之(ともの)(すけ)、佐賀の島義勇(よしたか)などだが、鉄舟始めいずれも忠誠剛直なすぐれた人物で誠の限りを尽して明治天皇に奉仕した。鉄舟の宮中入りに対して旧幕臣の中から、「徳川の遺臣でありながら、当年の敵たる薩長に媚び栄華を(むさぼ)るとは何事ぞ」との非難がしきりに出たが、鉄舟は全く意に(かい)さずいささかも弁解せずひたすら忠勤に励んだ。

 

「留守には鉄太郎を残し置くゆえ…」

 

鉄舟が侍従になったとき、明治天皇は満十九歳という若さであった。明治天皇は父君(こう)(めい)天皇はじめ西郷隆盛、元田(もとだ)永孚(ながざね)、山岡鉄舟ら忠誠の臣の渾身のご輔導(ほどう)、人格的感化を受けられて後年世界から「大帝(たいてい)」とまで仰ぎ見られるに至る。しかしお若い頃は元気と英気に満ちあふれ、なかなか(はげ)しいご気性で豪気豪放であらせられた。お酒も強く夜を徹して飲まれることもあった。体格も当時の日本人としては大柄で体重は二十何貫(約八十キロ前後)もあり、お力も強く相撲をお好みになった。このように若き陛下のお振舞がかなりはげしいので、鉄舟はぜひお諫めしてご反省を乞いたいと思っていたある日、陸下は鉄舟に向って、

「お前は(げき)(けん)もやるが相撲もきっとうまいだろう。一つ立合わんか」

と仰せられた。鉄舟は誰よりも体格すぐれた六尺豊かな大男(一八七センチ)である。その鉄舟にこういわれるのだから、明治天皇は恐れを知らぬ元気の持主であった。鉄舟は謹んでいう。

「相撲の道は鉄太郎わきまえ申しませぬ」

すると陛下はいきなり鉄舟めがけてぶつかってこられた。しかし鉄舟の体は押せどもつけどもびくともしない。陛下は(こぶし)を固めて顔面を打とうとされた。鉄舟は頭を少し横に傾けてこれをかわした。陛下はドッと鉄舟の後ろに顛倒(てんとう)された。鉄舟はこのときとばかり懇々と苦諌(くかん)申し上げたあと、

「唯今までのご行跡(ぎょうせき)の改まり遊ばさねば、鉄太郎今日かぎり出仕(しゅっし)つかまりませぬ」

とのべて退出し、自邸で謹慎した。すると翌日、岩倉(いわくら)(とも)()がやってきて陛下のお言葉を伝えた。

(ちん)も今までのことは悪かった。相撲と酒とは以来やめるによって、そちもこれまで通り出仕せよ」

鉄舟は「はつ」に頭を()れた。涙が胸にこみあげた。鉄舟は直ちに参内(さんだい)し前日の不敬(ふけい)をお詫び申上げた。そのあと陛下は相撲を全くおやめになった。お酒もやめられたが一ヶ月ほどして鉄舟がブドウ酒一打を献上したのでご解禁になられた。しかしこれまでのように徹宵(てっしょう)お飲みになることはされなくなった。陛下の鉄舟に対するご信頼ご親愛はこのあと一層深まった。

明治九年、明治天皇が初めて東北地方にご巡幸される際、皇后陛下が長期のご不在中のことをご心配の旨申上げられると陛下は「留守には鉄太郎を残し置くゆえ、万一のことがあろうともいささかも気遣いはない」と仰せられた。皇后陛下もまた鉄舟を深くご信頼され、お手ずから作られた巾着(きんちゃく)(財布)や煙草入れなどたびたび鉄舟に賜った。

 

鉄舟は明治五年十月、侍従番長、八年宮内大丞(だいじょう)、十四年宮内少輔(しょうふ)(次官)に進み、十五年五月、免官となった。西郷との約束は十年間であつた。明治天皇は深くこれを惜しまれて、翌月参議井上(かおる)勅使(ちょくし)として鉄舟邸に下向(げこう)せしめ参内を命ぜられた。(せい)(おん)の厚きに感泣した鉄舟は直ちに参内したところ、御前に召され生涯宮内省御用(ごよう)(がかり)を仰せつけられた。特に任務はないがこの肩書を与えることにより、陛下が鉄舟にお会いしたいときいつでも呼び出せるようにしたのである。

 

最期― 明治天皇と勝海舟の哀悼

 

明治十五年からなくなるまでの二十一年まで、鉄舟は剣と禅の修業の仕上げをした。

明治十九年頃から胃病が深まり二十一年から衰弱つのり鉄舟は死期を悟る。明治天皇はいたくお案じなされ幾度もお見舞の勅使や侍医(じい)をさし遣わされるのみならず、「これなら山岡ののどに通るかも知れぬ」と御自ら試飲された和洋酒を再度ご下賜された。病床の鉄舟は涙にくれてこう詠んだ。

数ならぬ身のいたづきを大君(おおきみ)のみことうれしくかしこみにけり

いよいよ重態になると勝海舟が駆けつけた。これが最期とみた海舟は別れの言葉をつげるとともに、その場で紙筆をとり鉄舟に示した。

(じん)(せい)横行(おうこう)

磅磚(ほうはく)たる精気

残月(つる)の如く

光芒(こうぼう)地を(てら)

※塵世=世の中/磅磚たる=天地に遍く満つる/精気=鉄舟の気高い精神/残月=鉄舟/光芒=光

 

鉄舟が天地にみなぎるが如き気高い至誠の心で皇国日本に尽したことを海舟は讃嘆しその死を惜しんだのである。海舟は最後の二日間、鉄舟邸に詰めきって死を見取った。西郷なきあと海舟が最も信頼し深く許し合った人物こそ鉄舟であった。

七月十九日、鉄舟は亡くなった。享年五十三歳。

海舟は次の詩を捧げた。

凡俗(ぼんぞく)(しき)りに君を(わずら)わす

看破(かんぱ)(じん)(せい)(むれ)

(われ)を棄てて何處(いずく)にか去る

精霊紫雲(しうん)に入る

※精霊=鉄舟の霊魂

葬儀の日、ご内命により皇居御所の前で十分間、葬列はとどめられた。明治天皇は宮殿高殿(たかどの)よりお見送りされ深くその死を悼まれた。(次回完結)

 

〈明日への選択 平成242月号 岡田幹彦〉


歴史の指標

山岡鉄舟(六・完) 鉄舟と武士道

 

西郷との交情余話

 

最後に書き残したいくつかのことをのべよう。肝胆相照らし深く敬愛し合った西郷隆盛との知られざる逸話がある。明治六年春のある日、西郷は山岡の邸宅を訪れた。鉄舟の息子直記が玄関の前で遊んでいると、あたかも怪物に似た粗大な風体(ふうてい)のものが近づいてきた。右手に太い()(づえ)を持ち左手に徳利(とっくり)をさげ(みの)をかぶりみぞれ降る中を素足でやってきたのが西郷であった。直記の見る西郷は眉毛が太く目が大きく耳のごときは非常なものでまるで怪物と思ったそうだ。

西郷は直記に「おとっさんは内にいるか。西郷がお伺いしたいと言うてくれ」というと、まだ幼少の直記は「ばけものが何をいうか」と思いながら、「おとっさん、玄関に変な怪物のようなものが来て、西郷が来たと言えなど言うております」と告げた。鉄舟が出てきてにこやかに「さあ、おはいり下されよ」と招き入れた。

互いに寒暖の礼をのべたあと、西郷は徳利をとり出してこういつた。

「日本の国もまだ寒い。少し熱をかけましょう」

「お考えの通り外部を温めんとするにはまず自らでござる」

と応えた鉄舟は立って台所へ行き、漬物桶から二本の塩漬大根をひき出して洗い盆にのせ戻り、これをさかなにして二人は楽しそうに酌み交した。

直記は「西郷とはなんだろう」と心怪んだ。英子(ふさこ)夫人は隣室にいて二人の様子をうかがいその会話を耳にした。夫人は二人のさまは遠慮なくいえば馬鹿のようでもあればまた無邪気な子供のようでもあり、両者が維新の際、非常な働きをなしたとは一見、嘘のように思われたとのべている。また談話中しきりにシナとか朝鮮とかロシアとかの言葉が出た。そのうち西郷がこう語った。

「朝鮮、シナは今の機を延ばしてはわるい。拙者(せっしゃ)が行って一戦(ひといくさ)しなければならぬ」

鉄舟はこうのべた。

「さようでござる。兵など容易に動かすものではない」

英子夫人が確かに聞きとどめた会話である。このあとすぐ朝鮮問題が大問題となりいわゆる「征韓論」をめぐって明治政府が分裂し同年秋西郷は下野(げや)する。西郷が「拙者が行って一戦し」というのは、日本政府を代表する使節として訪韓し一大重荷を担って外交談判を行うという意味で、韓国と戦争をするということではない。それゆえ鉄舟は「兵など容易に動かすものではない」と応じたのである。

鉄舟が西郷に最後に会ったのは明治七年二月である。西郷を深く思われる明治天皇は鉄舟に西郷を迎えに行って来いと命ぜられた。鉄舟は、

「それはだめでございましょう。迎えに参りましても出ますまい」

と申上げたが、陛下は、

「それでもよいからとにかく迎えに行って来い」

と仰せられ、鉄舟は鹿児島にゆき西郷に会った。西郷は来訪を喜んだが、無論そのとき出て

ゆく気持はなかった。二人は酒を酌み交し数日語り合い、ともに書を数枚書き交換して永別するのである。

 

鉄舟の武士道講話

 

鉄舟は亡くなる前年明治二十年、自宅において親しい人々の求めに応じて、武士道についていくたびか講じた。幕末、明治における武士の一典型であった鉄舟の武士道講話は興味つきぬものがある。主要なところを掲げよう。

「我々日本民族はもとより忠孝二途(にと)の別なくして天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)神宣(しんせん)神勅(しんちょく))を信奉(しんぽう)して、

(こう)(うん)扶翼(ふよく)し(皇国日本を守り支えるの意)古往(こおう)今来(こんらい)(過去も将来も)、幾千万年、億兆心を(いつ)にして死ぬるとも二心であってはならない。これは国体の精華(せいか)(精髄)にして、日本武士道の淵源(えんげん)実にここに在り、日本民族の方針、実にここにあるのである」

「謹んで(おもん)みるに、わが皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)この国をしろしめされ、そのお徳を樹て給うことははなはだ深遠である。ゆえに日本武士道はこれに(ともの)うてまたはなはだ深遠である」

「本邦は神聖無二の国体を存している。天地の神理と符節を(がっ)するがごとくである。(かみ)天祖が天孫に(ちょく)して、天壌(てんじょう)(とも)(きわま)りなき万世一系の君主を宣定(せんてい)し給い、爾来(じらい)億兆心を一にして世々その美を()し幾千年の(もと)、寸土をうかがい得た夷賊(いぞく)なく、天位(皇位)を侵し得た不臣(ふしん)(不忠の臣)なきは、他に比類なき国体の精華である。わが民族が深く『神宣(神勅)』を遵奉(じゅんぽう)して、異心のない美花である。実証である。これがすなわち武士道の起因である」

「開国(建国)の当初、(あめの)()屋根(やねの)(みこと)を初め(いつ)(とものお)の各命以下みな臣たるの(ぶん)を尽くして、開国にいかに君臣の名分(めいぶん)を尽くされたか。かく考え(きた)ればわが国の武士道は天地未開の前にあってはらみ建国とともに発達したのである」

鉄舟は武士道の起源を遠く神代にさかのぼり建国の始めに求めている。わが国は建国以来、

天皇、皇室を国家の中心、民族統合の核心(かなめ)として仰ぎ、現在に至るまで断絶なく革命なく一貫して万世一系の天皇を戴いてきた。天照大御神の天壊無窮の神勅は日本民族永遠の確信でありかつそれは不動の歴史的真実でもあった。

〈天壊無窮の神勅〉(日本書紀)

豊葦原(とよあしはら)千五百(ちいは)秋之(あきの)瑞穂(みずほの)(くに)(日本)は()()子孫(うみのこ)(きみ)たる()(くに)なり。

(よろ)しく(いまし)皇孫(すめみま)()きて(しら)せ。行矣(さきくませ)(幸くませの意)。

宝祚(あまつひつぎ)天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)、天皇)の(さか)えまさんこと(まさ)天壤(あめつち)(きわま)り無かるべし。

※日本の国は天照大御神の子係たる天皇が天地とともに永

遠に知ろしめす(あるいはしらす)国であるとの意。

起源を神話の時代にさかのぼる王室が断絶することなく革命なく、一つの血統が続いてきた国は世界でわが国のみである。日本に次いでいのはデンマークで約千年前から王制が続いているが、その間交代があり現王朝は十九世紀後半からである。次いでイギリスが千年足らずだが、現王朝は十八世紀始めからである。

わが国は皇統の断絶がなく、皇位を侵しこれにとって代る不忠の臣なく、君臣(くんしん)()が堅持されてきた万邦(ばんぽう)に比類なき宇内(うだい)(世界)に冠絶(かんぜつ)(とびぬけて頂点にあること)する国体を有する唯一の国であることを高調するとともに、鉄舟はここに武士道の淵源があるというのである。すなわち代々の日本国民が天皇を仰ぎ尊崇し忠誠を尽してきたそのことが武士道の根本であったとするのである。

日本の国とは一言をもってするなら、建国以来万世一系の天皇を戴く国である。換言するなら、日本国民は代々天皇に忠義・忠誠を尽くしてきた民族である。日本人の国民性を形成する上に最も大きな要素のひとつである武士道の始まりを、鉄舟が悠久なるわが国の発祥時に求めたのは実に高邁な見識であった。普通武士道といえば源氏平氏始め武士が台頭した平安後期を起源として論ずるが鉄舟はそれをとらなかった。学者でも研究家でもないが鉄舟の見方こそ正しいと筆者は思う。

 

源頼朝・楠木正成・赤穂義士・山鹿素行

 

次いで鉄舟は武士道と神道、儒教、仏教の関係についてのべている。神・儒・仏の三道が武士道に与えた影響、感化は大きかった。

「大いにこれ(武士道の発達)を助けて、忠孝・節義(せつぎ)・勇武・廉恥(れんち)(清く正しく恥を知る心)を奨励したものは、神(道)・儒(教)・仏(教)三道一貫の大道が日本人天性の元気に補助的感化を与えたものである」

鉄舟自身がまさしく「神・儒・仏一貫の大道」によって練磨した人物であった。既述の通り鉄舟は生涯禅の修業に打ち込んだ人だが他の武士も多かれ少なかれ仏教の影響感化をうけている。仏教を寄せ付けなかった武士もあったが大半は受容している。神道、儒教についてはいうまでもない。

続いて鉄舟は武士道の歴史をのべ、武士道を代表する人物につきこうのべている。

源頼朝(みなもとのよりとも)はいよいよ武士教育に重きを置きいやしくも武士の(こう)(はい)(服従と違背(いはい))は国家政権の興廃なるを悟り、また武士盛衰は(もっぱ)ら忠孝・仁義・勤倹・質朴いかんにあることを教えひたすら精神教育をすすめて、これが千載(せんざい)(千年)ののちまであたかも人間は直立して歩行するものだというごとくに、日本人の道だと心に銘うって代々遺伝として残してきたものである」

楠木(くすのき)、新田等の諸氏が大義名分に基づいて君臣の義を明らかにし誠忠無二の節操を保有して専心一意忠勤を尽くし、いかなる磐石(ばんじゃく)をも突き通すという精忠の真心よりして、私慾の為に決心を変ずるということは夢にも考えない」

「徳川時代における武士の花と知る赤穂(あこう)四十七士の仇討(あだう)ちなどは、いかにも武士道の精華といわねばならない。これには大いに注意を要することがある。無論大石良雄(よしたか)が千山(ばん)(がく)の苦杯をなめて四十七士を一括し、また四十七士が互いに疑念をいれず、至誠相合(あいがっ)してついにその主の仇を討ち果たしたことなどは、その精華いまさらではない(言うまでもないの意)。

その場合、義士の頭脳ともいうべき大石良雄の師である山鹿(やまが)素行(そこう)の言行について、もっと研究を要することがある。この素行については世人があまり大評判をいたさないが、素行の言行は武士道の消長に関してもっとも必要である」

武家政治の創始者源頼朝が武士道において果した重要な役割について鉄舟の指摘は大切である。稀有の忠臣楠木正成(まさしげ)については別に詳しく論じている。山鹿素行についても見逃していないのもさすがである。鉄舟は人知れずわが国武士道の精神、武士の生き方につきかくも深く研鑽につとめていたのである。

 

菅原道真、維新の志士

 

鉄舟はまた菅原道真(すがわらのみちざね)も武士道の一典型として仰いでいる。

「見よ、道真が(ざん)(事実でないことを言って人を罪におとし入れること)にあっても、自暴自棄をおこさず、謫所(たくしょ)(流罪にされた所、太宰府(だざいふ))にあってはるかに帝都を隔てるも(しん)(そう)(心と節操)はなお常に闕下(けっか)(天皇のみもと)にはべる思いをなして、ひたすら君恩(くんおん)の大なることを思い、誠忠(いわお)のごときはその述懐(じゅつかい)の句中にあふれているではないか。実にわが国忠臣義士の鏡としてさしつかえない」

述懐の句とは有名な次の漢詩である。

去年(きょねん)今夜(こんや) 清涼(せいりょう)(はべ)

秋思(しゅうし)詩篇(しへん) (ひと)(はらわた)()

恩賜(おんし)御衣(ぎょい) 今(ここ)()

(ささ)げ持ちて 毎日余香(よこう)を拝す

最後は明治維新に尽力し命を捧げた人達につきこうのべている。

「拙者かく言えばあるいは不思議に思う人もあろう。今日は西郷などは国賊だから、拙者もあるいは国賊かもしれん。要すところ、どれも皆、至誠の(たん)(しん)(誠の心)から発したのだから、以上各士(鉄舟があげたのは西郷のほか吉田松陰、橋本左内、梅田(うん)(びん)、佐久間象山(しょうざん)、高山彦九郎、平野国臣、久坂(くさか)(げん)(ずい)、高杉晋作、坂本龍馬、桜田義士等)はいずれも非難のない至誠の武士道的人物である。世人(せじん)の国賊と呼ぶ西郷君のごときも拙者は仰いで完全無欠の真日本人と信じて疑いない。元来わが国の人士(じんし)は勤皇が本である」

武士道とはいかなるものかを鉄舟自身の信念、行動、生涯に即して縦横に語り尽している。

 

鉄舟と井上毅

 

鉄舟の武士道講話を熱心に聴いた一人に丼上(こわし)がいる。井上については日本政策研究センター代表伊藤哲夫氏が新著『教育勅語の真実』(致知出版社)で詳しくのべられているが、井上は、皇室典範、大日本帝国憲法そして教育勅語制定の実質的中心者として大功(たいこう)のあった明治の隠れたる偉人である。その頃井上は皇室典範と帝国憲法制定の為心血を注いで国体、国史、伝続、古典の研究に没頭していたが、鉄舟の武士道講話まで聴講していたのである。

既述した講話の一節に「吾が皇祖皇宗この国をしろしめされ、そのお徳を樹て給うことははなはだ深遠である」「億兆心を一にして世々その美を済し」「国体の精華」とあるが、教育勅語の冒頭の数行に同様の言葉が見られる。井上が勅語草案を起草するにあたり、鉄舟の講話が参考になったことであろう。皇室を深く思い皇国日本の弥栄(いやさか)を祈念する点において明治天皇に(つか)えた鉄舟、そして教育勅語制定において井上に全面的に協力した侍講(じこう)元田(もとだ)永孚(ながざね)並びに丼上毅三者の心は全く一体であったといえよう。鉄舟が武士道を「忠孝報恩の大道」としてこれを「万世無窮に伝えてもらいたい」とのべた時聴講者を代表して井上はこうのべている。

「先生のお話は赤心(せきしん)(誠の心)より湧き出で、至誠の金言であるから、なにしろ感化力にいたっては(いちじる)しいものです。国民教育のごときは技術は二番で、お説のように心胆練磨こそ真の国民教育であると思います」

このとき井上は国民教育の根本となる教育勅語の起草者になろうとは夢にも思わなかったであろうが、鉄舟の武士道講話は心に刻まれたに相違ない。

今日、山岡鉄舟は一部の人にしか知られていないが、忘れられてはならぬ日本武士の一典型であった。(完)

 

〈明日への選択 平成243月号 岡田幹彦〉